リストボタン最も重要な課題  2009/1

まず神の国と神の義を求めよ、と主イエスは言われた。神の国と神の義とは何か、分かりにくい人も多いであろう。それは現在の私たちにとっては、まずキリストを求めよ、ということなのである。
キリストの中に神の国と神の義がすべて含まれているからである。キリストのように他者の重い罪を身代わりになって担い、死ぬことまでされた。それによって人間の最も深い問題である罪を赦される道を開いて下さった。しかも、死の力に打ち勝つ神の命を求めるものに下さる。神が持っておられるあらゆるよきもの、清い心、真実な心、いっさいに打ち勝つ力等々を求めるものにはだれにでも下さる。社会的に最も弱い立場の者への配慮を第一にされた。死にかかっている人、捨てられたような人たちに手を差し伸べ、神の平安を与えられた。そして不正な者、傲慢なもの、弱者を利用して踏みつけるような者には厳しい態度を示された。
そのようなキリストを求め、キリストを私たちが受けいれるならば、社会のあらゆる問題への最も力ある解決となるであろう。
経済問題が最大の問題であるかのように言われている。しかし、少し前まではそのような大会社の赤字転落もなく、雇用の問題は深刻でなかった。だからといって、人間の心の問題はなかったであろうか。そんなことは決してなかった。自殺者は年間三万人を越えるという状況は、現在のような不況になる以前から生じていたのである。好況で産業が拡大し、企業もゆかたにうるおっているという状況になったからといって、人間の精神的な問題がなくなっていくということはないのであって、物質的にゆたかな生活になればなるほど、全体として浪費がなされ、環境問題は広く全体にひろがり、人間関係も希薄になって、最も重要なだれにでも及ぶような愛や真実、あるいは正義といったものが失われていく。
好況であっても不況であっても、つねに欠けているのは、神の国と神の義を求める心である。そこからあらゆる問題が生じてくる。神の国とは永遠の真実や愛、正義による支配であり、そのような力が満ちているところである。それはひと言でいえば、キリストを求めることである。
そうした神の国をまず第一に求めず、利益を第一に求め、しかも社会的弱者を用いてそうした利潤を得ようとするということから現在の世界的な経済問題のきっかけとなったサブプライムローンの問題が生じているし、また、日本の大企業は巨額の利益を得てきたにもかかわらず、不況となると大量の非正規社員を解雇することになっていった。 ここには、弱者への配慮はまったく感じられない。派遣社員という弱い立場の人たちを利用できるだけ使って、状況が変るとたちまち解雇という。
ここにも、まず、神の国のことでなく、まず自分たちの利潤を第一に考えるという姿勢がある。
また、派遣社員の側においても、もしその人や家族がキリストの福音を知っていたら、職業の選択の仕方や仕事に対する取り組み、また家族同士の関係などももっと違ったものになっていたかも知れないし、またいろいろな状況のために職や住むところを失った場合でも、信仰によって新たな力を与えられて立ち上がるということがより容易になるであろう。
キリストの力は、重い病気や、迫害のときの監禁、また社会的にいっさいを奪われたハンセン病のような人たちやさまざまの障害者に対しても、耐えがたい状況にあってなお、新たな力を求めるものに与えてきたからである。
また、二〇〇一年九月十一日のアメリカで生じたテロ事件以来、世界的に重要な問題であり続けているテロの問題においても、パレスチナ問題が深くかかわっている。もし、ユダヤ人たちがずっと昔に、愛に生きたイエスを求め、イエスを救い主として受けいれていたら今日のような問題は生じていただろうか。
また、ヨーロッパの国々の人においても、本当にキリストの愛を受けいれているなら、ユダヤ人を自分たちの宗教でないからといって迫害するということはありえなかったはずである。
キリストの本当の愛を受けいれないから迫害というまちがったことをするようになり、またユダヤ人もアブラハムにこの土地を与えると約束したことが記されている旧約聖書にこだわるからこそ、すでにたくさんの人たちが住んでいるパレスチナに流入してきたのであった。そこで当然のことながら戦争が生じて以後その対立はずっと続いて今日に至っている。
パレスチナ問題は、歴史的に見れば旧約聖書の時代である数千年の昔にその背景がある非常に古くて複雑な問題である。とくに第一次世界大戦のころからイギリスの支配との関連でイスラエルの建国に関して複雑な問題を生じていった。そして第二次世界大戦のときにヒトラーによるユダヤ人への激しい迫害も生じて、大量の人たちがイスラエルに行こうとする大きな波が生じていった。
そして戦後になってイスラエルの建国ということになった。すると直ちにパレスチナ軍がイスラエルに攻撃を加え戦争となった。そして滅ぼされると思われたイスラエルが勝利した。それ以後こうした両者の紛争はずっと続くことになってしまった。
この複雑な歴史的なもつれを最終的に解き放つのは、キリストの精神である非戦と愛が双方に浸透するということによってであることはたしかなことである。
キリストを受けいれるとき、私たちの祖国はどこかの地方にあるのでなく、天にある。真実に天を祖国とする人々においては、領土を奪い合う戦いは生じないはずである。ある特定の民族がほかの民族と混血するとかしてなくなるということが重大なことではない。すでに、ユダヤ人においても、多くの民族と混血しているのであって、ユダヤ人の定義は血筋でなく、ユダヤ教に改宗した人を指すようになっている。
キリストが捕らえられたとき、剣をもって戦おうとした弟子たちに主イエスは言われた。私の国はこの世のものではないと。
また、イスラム教の根底となっているコーランには、旧約聖書からの引用が多く、旧約聖書のなかのモーセ五書も教典となっているほどである。
しかし、コーランには、次のような箇所がある。

「神(アッラー)の道のために、おまえたちに敵する者と戦え。お前たちの出会ったところで、彼らを殺せ。お前たちが追放されたところから敵を追放せよ。迫害は殺害より悪い。」(コーラン第二章190191

このように神の道のためには、敵と武力でもって戦い、殺せとまで命じており、その戦いを聖戦とよんでいる。イスラム原理主義をかかげる人たちが、武力でテロを起こしたりするのも、彼らの教典そのものにこのような考え方が記されているからである。
それゆえ、もし彼らが、コーランでなく、新約聖書を、そのもとになったキリストを受けいれるなら、主イエスの徹底した非暴力をも受けいれることになり、こうしたテロもなくなるはずなのである。
また、長い歴史のなかで、ユダヤ人を迫害してきたヨーロッパの多くの人たちも、本当にキリストの愛を聖霊の賜物として受けているなら、決して迫害することはなかった。
それは、キリストの愛は、使徒パウロに見られるように、ユダヤ人に対して深い心の痛みをもって愛し続けるものだからである。
パウロは、「私には深い悲しみがあり、私の心には絶え間ない痛みがある。私自身、同胞であるユダヤ人のためなら、キリストから離されてもよいとさえ思っている」(ローマの信徒への手紙九・23より)という驚くべき言葉を残している。ユダヤ人から激しい迫害も受け、殺されそうになったほどのひどい扱いを受けたパウロであるが、キリストの愛を受けるときにはこのように、彼らのために深く心を痛め祈り続けたのであった。こうしたキリストの愛を受けるとき、どうしてユダヤ人を迫害したりすることがありえようか。
ユダヤ人への迫害も、またヨーロッパの多くの人たちが本当のキリストの心を持っていなかったゆえなのである。
貧困であれ、豊かな生活であれ、また世界のどの民族であれ、イスラム教徒であれ、また弱い人、能力のある人、健康な人、死に瀕している病人、飢えや災害にある人たち、そして過去のあらゆる時代から現代に至るまで、キリストそのものがもっておられる無尽蔵な目には見えない富を知らず、求めないゆえに与えられていないゆえにさまざまの問題が生じるのである。
どんな状況でも、キリストを伝えること、それはあらゆる時代のいかなる状況にも必要とされる最も重要なことなのである。
内村鑑三がどのような事態になってもキリストの福音を伝えることをもって最重要課題としたのは福音こそはあらゆる問題への究極的な解決の道だからである。

私は人に悪人と呼ばれようとも福音を宣べ伝える。善人と呼ばれようともこれに従事する。
世がわが福音に耳を傾くるもこれに従事する。
わたしの生まれたこの国にいかなる政変が起ころうとも、私はこの福音伝道に従事する。
たとい世界は消滅するに至るも、私はこれに従事したいと願う。
福音はわが生命である。
私はわが生涯の中で、福音の伝道に従事しないという時を考えることができない。(「聖書之研究」一九〇一年四月・原文は文語)

最終的には、その時が来るならば、神はユダヤ人の心をも変えて、キリストを受けいれるようにし、世界の人々はキリストの愛へと引き寄せられひとつにされていくということが新約聖書において記されている。(ローマの信徒への手紙十一・2536
このような壮大な希望もまた、キリストの愛ゆえになされるのであって、その意味でも、キリストの愛の福音こそあらゆる問題の究極的な解決を持っているということができる。


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