神曲・煉獄篇第九歌~十二歌より 2009/1
神曲はダンテの書いた雄大な構想を持った詩の大作。歴史的にも最も深い内容をたたえた詩とされる。
詩の中にさまざまの人間の感情、哲学やキリスト教信仰、芸術や政治、人間の罪と罰、神の愛と正義等々実に多方面の内容がそこに含まれている。 地獄篇、煉獄篇、天国篇の三つに分かれた長編の詩である。
煉獄というのは、神曲においては天国に行くことができるが、地上の罪ゆえに十分に清められていない魂が、天の国に行ける希望を持ちつつ、よき模範をも示されつつ、罰を受け苦しみを受けることによって清められて天国に行くための備えとするところと想定されている。
悔い改めないために、その罪によって滅ぼされる地獄と、完全な赦しと永遠の救いがある天国は相容れない。
私たちにとっては、煉獄とは、罰を受け、その苦しみによって清められていくこの地上の生活を暗示していると受け取ることができる。神曲が世界的に読まれてきたのは、地獄とか煉獄というものを単に想像して書いたのでなく、地獄編や煉獄編に記されている内容は、ダンテ自身の魂の深い体験が背後にあり、また私たちの心の中や周囲の世界で繰り返し生じている問題への深い洞察で満ちているからである。煉獄篇において現れる罪ゆえの罰もまた、私たちのさまざまの苦しみのひとつの原因とみなすことができる。そしてその苦しみや痛みとともに、清めを受けるということは、地上に生きる私たちが誰でも実感させられていることである。
ここでは煉獄篇第十~十二歌の内容について記すことにする。
煉獄の山に登り始めるにあたって、最初の浄めの道へと登っていく。この浄めの道は、門を入ってから頂上まで七段になった環状の道があり、その道を歩む人たちはそこで罰と浄めを受けていくのである。その山のふもとから環状の道への登りはやさしいものではなかった。
ダンテと彼を導くローマの大詩人ウェルギリウスたちが、煉獄山に登る門に行こうとしても、崖のようであって登ることは困難な状況であった。そのうちに夜が来た。日が沈むと、全く一歩も登ることはできなくなる。 煉獄の門の前のところに一人の当時有名な詩人が現れる。彼は、地面に指で線を引いた。そして、「日が沈んだら、この線ですら、越えることはできない。夜の闇が力を奪い、気力を失わせるのだ。それゆえ登ることは全くできず、山のふもとをさまよい歩くことしかできない。」と言った。
このような表現のなかにも、神の光、神の導きがなければ、一歩も私たちは前進できないという事実をダンテは読者に告げようとしている。高みに登ることも、前進することも、神の助けなければまったくできないのである。
このような表現をあまりにも厳しすぎると思う人が多いであろう。しかし、これは魂の奥深い状況を深く知らされた人、人間の霊的な世界をはっきりと啓示された人が共通して知っていることなのである。
すでに主イエスご自身が、「私の内に留まれ。もしあなた方が私の内に留まっていないならば、何一つ実を結ぶことができない。私を離れてはあなた方は何もできない。」(ヨハネ福音書十五・4~5)と言われたのも同様である。
夜を迎えたダンテは、深い眠りに落ちた。そのとき、そこへ天からの使いルチア(*)が現れてダンテを煉獄の門へと連れて行った。
(*)ルチアとは、殉教した三世紀の聖女で、古くから伝えられた話では、貴族の男から結婚を求められたが、それを断ってキリストへの信仰に生きることを選んだ。ルチアの母は目が悪かったが、ルチアの真剣な祈りによっていやされたという。また、当時、ローマ皇帝による激しい迫害が生じ、ルチアも捕らわれたが、拷問を受けても信仰を捨てなかった。サンタ(聖)・ルチアという歌によってその名は広く知られている。なお、ルチアとは、ラテン語のルークス(lux)から来た名前で、光を意味する。英語では、ルーシィ lucy となる。
ダンテは意志強固であったと思われるが、自分の力では登ることができず、眠っている間に天使によって煉獄山の門のところまで引き上げられたという。
ここにも私たちの現実の歩みが象徴的に表されているのである。私たちがもう登れない、光がないと思ったときにも、思いがけない手段で私たちを引き上げて下さる。自分の努力の限界を感じ、なすすべもないといった時にすら助けは与えられる。信仰の歩みは飛躍である。不連続的なのである。神への信仰と、神の国への前進へのあこがれと求める心を失わないときには、必ず時至れば助けが来る。そして前進できない状態となった魂を引き上げて下さる。
これは、日々の信仰の歩みがそうであるが、信仰の出発点も神が引き上げて下さって初めて信じることができるし、最後の死のときも、病や老衰その他で死という闇に沈もうとするときに、主が引き上げて下さるのである。十字架上で釘付けにされた重い罪人が、イエスへの信仰を精一杯の心を込めて告白したとき、ただちに主イエスは「あなたは今日パラダイスに入る」と約束してくださったように。
浄めの道を歩もうとすること自体、このように、自分の力ではその門にもたどりつけないということを現している。ダンテは、政治や文学、芸術、また科学などに通じた天才であったと言えるが、それにもかかわらず、このように魂の浄めということについては、人間の生まれたさまざまの能力もどうすることもできない無力を深く知っていたのがこのような記述にも現れている。
私たちにおいても同様であって、学力やスポーツの力、芸術の才能、さまざまの知識、技術などは適切な教師と訓練、そのための費用などが注がれるならば、それに応じて深められ広がっていく。しかし、魂がより浄められ、高い精神的な世界へと登っていくことは、そうした生まれつきの能力とか努力、金、時間などではどうすることもできないということなのである。
天からの助けがなかったらより高きへは登ることができないという明確なメッセージがこのダンテ神曲には随所に見られる。
ようやく門にたどりつき、門番によって額に七つのPの文字が記された。それは、peccatum(ペッカートゥム、ラテン語で「罪」の意)という言葉を表すもので、煉獄の山を登りつつ、この七種類の罪を浄めるようにと門のところにいた天使から言い渡された。そして天使が、煉獄の門を開くとき、次のような警告を与えた。
「入れ、だが、決して忘れるな。誰であっても後ろをふりかえる者は、再びこの門の外に出されてしまうのだ。」
このことは、旧約聖書にある記事を思い起こさせる。頽廃した生活にまみれ、神の道をかえりみようともしなかったソドムとゴモラの人たちが、神の裁きを受けて滅ぼされたとき、神への真実をもって歩んでいたアブラハムのゆえにその親族も救いの道が備えられ、滅びから免れた。しかし、その滅びゆく町の様子を振り返って過去の生活に執着しようとするなら、塩の柱となると、警告されていた。しかし、逃げていく途中で、アブラハムの甥の妻は、神の警告に反して後ろを振り返ったために塩の柱となったと記されている。(創世記十九・26)
神を信じて御国への道を歩むことを許された者は、ただまっすぐ前を見つめ、歩んでいくことが求められている。神を知らないときには、究極的な目標が存在しないのであるから、たえず混乱した目であちこちを見ていわばジグザグにあるいは後退したり停滞したりして歩むことになるしその行き着く先はすべてが消えてしまう得体の知れない死が待っているだけである。
しかし、神という完全な清さと愛や真実に満ちた存在を知らされたなら、そこにこそ私たちの究極的な幸いがあることは確実なのであり、そこにだけ目を注いで前進することは当然のつとめとなってくる。
ようやく門の扉が開かれ、煉獄の世界へ入ろうとした。その門の扉は予想もしなかったほどにさび付いたかのように開きにくいのであった。それは稀にしかその門は開かれないためなのである。そしてその門の扉は、すさまじい音をたてて開いた。
煉獄の門が静かに開いたのでなく、めったに開かれないような音であり、その音の大きさもまたダンテがとくにその音の比べようのないほどの音であったと記しているのはなぜだろうか。それは、魂の清めのためにこの煉獄の門を入る人がそれほどまでに少ないということを強調しているのである。
人間はまちがった愛を持つために、曲がった道をもまっすぐな道と思ってしまう。それゆえに多くの人たちは地獄の門のほうへと向かっていく。そして神のもとに登る煉獄の門へとたどりつく人は稀なのである。(煉獄篇十歌第一行)
このように、人間がなにかをするとき、それは必ず何らかの愛(執着)からである。しかし、その愛はほとんどがまちがった愛だということになる。真正の愛を持っているときには、煉獄の門へと向かうのである。
このことについては、主イエスも言われた。
「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない」(マタイ七・14)
また、他方ではこの門の開くときの音が非常に大きな音であったということは、たった一人でも煉獄の門を入っていくことが重要な重々しい出来事であるということも暗示している。
そしてその重い音が開くとともに、奥から響いてきたのは、心にしみ通るメロディーと歌声であった。私たちが天よりの力によって導かれ、より高きへと進むときには、かなたからうるわしい響きが聞こえてくる。そのよき響きによって背後に続く世界が暗示されているのである。
そこで歌われていたのは、「私たちは神を讃美します」(テー デウム ラウダームス Te Deum laudamus )(*)であった。
煉獄という浄めを受ける世界、そこで浄めを受けている人たち全体の祈りと願い、讃美としてこの曲が流れてきたのである。これは地上にあってやはり神の言葉と導きにより聖霊によって浄めを受けつつ歩む私たちもこの讃美に心を合わせることができる内容である。
(*)これは、テ・デウムと言われて古来有名な讃美である。最近ではインターネットを用いれば、簡単にこのテ・デウムという曲を聞くことができるので、歌詞とその原詩の発音と意味などを書いておく。一般的に外国の歌、讃美などはそのまま聞いても言葉が分からないから単にメロディーだけを味わうだけになり、それではその曲の持つ意味はとても少なくなってしまうからである。
Te(テー)は、人称代名詞 tuの対格で「あなたを」、 Deum(デウム)は、神(Deus)の対格で「神を」、laudamus(ラウダームス) は、讃美する、ほめたたえる(laudare)の一人称複数形で「私たちはほめたたえる」の意。
神であるあなたを私たちは讃美します。 Te Deum laudamus (テー デウム ラウダームス)
主であるあなたを告白します。Te Dominum confitemur.(テー ドミヌム コーンフィテームル)
永遠の父であるあなたを Te aeternum Patrem (テー アエテルヌム・永遠に パトレム・父を)
全地は敬うのです。 omnis terra veneratur. (オムニス・すべて テルラ・地 ウェネラートゥル・敬う)
この讃美の歌詞には、キリストの十字架上での死により、血を流して人間をあがなったこと、死に勝つ決定的な出来事としての復活、再臨のキリストを待つ希望、そして、そのような万能の神に祈り願う万人の祈りとして、憐れみを願う祈りなど、キリスト教信仰の重要な内容がすべて含まれている。それゆえに、千七百年ほども歌いつがれてきた。
この聖歌の終わりのほうにはあらゆる人間が本来持っているといえる願いが記されている。
私たちを憐れんで下さい。主よ。 Miserere nostri Domine, (ミセレーレ・憐れんで下さい ノストリー・私たちを ドミネ・主よ)、
私たちを憐れんで下さい。 miserere nostri.
あなたの憐れみが、主よ、私たちの上になされますように。 Fiat misericordia tua Domine super nos,(フィアット・生じる、起こる ミセリコルディア・憐れみ トゥア・あなたのもの スペル・~の上に ノース・私たち)
私たち人間の実態を思い知らされるとき、また自分だけでなく周囲の人間、そして世界の至る所にあるさまざまの悲劇や苦しみを思いみるとき、ただ私たちはこの世界のすべてを支配されている神に向かって、主よ、憐れみたまえ!と祈り願うほかはない。
この「憐れんで下さい!」という短いひと言は、旧約聖書の詩編でもまた新約聖書の福音書においても、しばしば見られる嘆願の祈りである。何も言えないほど苦しみや悲しみあるいは絶望的な状況にあっても、「主よ、憐れんで下さい!」と祈ることはできる。そしてその短い祈りを主は聞いて下さる。これは、ギリシャ語では、キリエ・エレイソン という表現になって、ミサ曲において重要な部分となっている。
そしてこの歌の最後の部分には、揺らぐことのない希望が歌われている。
主よ、私はあなたに希望を置いてきました。In te Domine speravi. (イン テー ドミネ スペーラーウィー・希望する)
私は永遠に、混乱させられることはない。(希望をなくすることはない)non confundar in aeternum. (ノーン コーンフンダル・混乱する イン アエテルヌム・永遠に)
煉獄というのは、ラテン語では、プールガートーリウム(purgatorium)というが、これは、浄める(purgare)という言葉から来ている。それゆえ、煉獄篇のことを浄罪界と訳している本もある。しかし、そこでは苦しみを与えられてその苦しみによって浄めを受けるということであるから、煉獄と訳されている。「煉」とは、鉱石を火で熱して悪い成分をとり除き、よい成分だけを取り出すという意味がある。火で熱するような苦しみを与えられ、汚れたものを取り除いて清めるという意味からである。
しかし、そうした苦しみだけでなく、うるわしい音楽の響き、讃美の歌もそこには流れているということがここで暗示されている。
私たちのこの地上での歩みもまた、さまざまの苦しいことがあるが、それはひとつには浄めのためであり、その苦しみの中でも、また折々に天国からの音楽や御国の風のようなものを感じさせていただけること、そのようなことをこの煉獄の門の讃美は示すものとなっている。
ダンテとウェルギリウスが門を通っても、すぐに第一の環状の道に着いたのではなかった。門から最初の環状の道にたどりつくまでがまた特別な道であった。それは岩の裂け目の道であって、それは右へ左へと曲がりくねり、寄せては返す波のようであった。その岩のくぼんでいるところをたどって登っていく。それは、針の目の道のようであったと記している。
この表現も、主イエスが「金持ちが天の国に入るより、らくだが針の目を通るほうがたやすい」(ルカ十八・24)といわれたことを用いている。
この煉獄の山への登りは、門にまでたどりつくことから始まって、そこから門に入り、さらに第一の環状の道へと至るまで、自分の力では到底登れない絶壁のようなものあり、重い扉あり、門番あり、また細い険しい道あり、といった具合につねに上よりの助けなければ登っていけないのであった。
この登りの困難さ、それは私たちにとっても、御国への道の歩みの困難さを暗示している。霊的に考えれば同様な越えがたい困難や苦しみ、意気消沈するような人間同士の不信や分裂、病気の苦しみ等々、もう歩めない、前進はできないと思われるような事態に直面すること、それはまさにこの、険しい崖、細い道の連続であってただ天の助けのみによって私たちは進んでいけるのである。
そのような細い道をたどってようやく最初の環状の道にたどりついてまずダンテとウェルギリウスが驚いたのは、「砂漠の中の道よりも、なお孤独なこの平らな道…」であった。人が誰もいないのである。この環状の道は、高慢な者すなわち、神などいない、人間のもつ力、金などがすべてだとする高ぶりの心を悔い改めさせ、その罪が罰せられ浄めを受ける道である。
ここは砂漠の道よりなお孤独…という特別な表現をしているのは、そうした高ぶりからの悔い改めをする人がいかに少ないか、を表している。
このように、いろいろな表現で、煉獄の山に登る人がごく少ないということが強調されている。
現代の私たちも、たしかに周囲に無数の人たちがいるにもかかわらず、とても不思議に思えるほどに、自分の罪を知り、そこからの悔い改め(神への方向転換)をして、神とキリストを信じ、神の永遠の愛と万能、そしてキリストの復活や十字架による罪の赦しなどを信じる人が少ないのであり、ダンテのこうした描写は私たちの現在の状況をも見抜いた上でのことだと分かる。
ようやくたどりついて、まず目にしたのは、道の山側の壁面に刻まれた絵画であった。彫刻とはいえ、それは迫真の力をもって迫ってくる内容を持っていた。
…純白の大理石より造られ、昔から言い伝えられた名彫刻家も、また自然そのものも恥じ入るほど絶妙な彫り物で描かれてあった。それは神ご自身がそこに彫り込んだからである。自然の事物も神の言葉によりて造られたし、人間はその自然の事物を見てそれを模範として造る。しかし、この崖に彫り込まれた絵は、神ご自身が刻み込んだゆえに、自然や芸術の大家もはるかに及ばないのだといっている。
そのように生き生きと描き出された題材はなにか、それはルカ福音書に描かれてある、イエスをみごもったときに天使からそのことを告げられたマリアの態度であった。
何百年という歳月、涙をもって待ち望んでこられた救い主の誕生を告げるために来た天使は、うるわしい姿そのままに、生きているかのように彫刻され、私たちのすぐ前に見えるその姿は、ものを言わぬ彫刻とは到底おもえなかった。その天使がマリアに語りかけているその言葉が聞こえるようであった。
そしてその天使の言葉に答えたマリアの言葉「私は主の仕え女です」が、マリアの姿に書き込まれていた。どのような思いがけないことであっても、また受けいれがたいことであっても、それが神から来ていると信じて受けいれる、神の言葉であり、そのご意志ならあたかも奴隷が主人の命令をすべて受けいれるように、全面的に受けいれるということである。仕え女とは、原語は、ドゥーレー doule であって、女奴隷といった意味の言葉である。(男の奴隷は、ドゥーロス doulos)
この彫刻が刻まれたのは、単に模範ではない。天からの使い、あるいは神の言葉に全面的に従おうとするそのマリアの姿と声が聞こえるほどにありありと神の前の謙遜を実感するとき、その彫像を前にする者もまた、その神の前にへりくだるようにうながされるからである。神との深い結びつきを間近に生き生きと見るものは、その者もまたその深い結びつきを経験するようにと導かれるのである。神はたえず分かち与えようとする。心開いて見るものは、その見るものによっても新たな力や謙遜を与えられる。心開かない人にとってはただの風であり、また水の音であっても、神への心をもって見聞きする者にとっては、ふつうの風も水の流れの音すらも神の国からの風としてまたいのちの水として実感できるのと同様である。
このマリアの彫刻以外にもいくつかの、神に聞き従う姿が刻まれていた。それによって生き生きした彼らの実物に触れ、そこに語りかける神や天使の言葉を実際に自分が受け取っているように感じて、傲慢を砕かれ、神に聴き従う力を与えられる。こうした恵みの彫像をまずダンテは見ることを与えられ、そのあとで傲慢の罪のために裁きを受け、罰を受けた例が、こんどは道の表面に刻み込まれているのを知った。
私たちの歩みにおいても、神はまず恵みを与え、次いでその恵みを心して受けないときには、苦しみを訓練として与えるということが思い起こされる。しかし、私たちはその恵みにあまりにも気付かないのである。ちょうどアダムとエバが周囲一面、よき果物などが満ちていた楽園であったのにその大きな恵みに深く気付くことなく、簡単に神の言葉に背を向けてその楽園から追放されたように。
このような神の前に砕かれて低くされた人たちの彫像を見つめていたとき、ダンテは導きの師であるウェルギリウスから、うながされて気付いたのは、その道を近づいてくる人たちであった。それは神の前での高ぶりを罰せられている人たちの姿であった。彼らは重い石をになわされ体を地面にまで折り曲げて歩いているのである。神の前にへりくだろうとしなかったがゆえに、その全身がいやおうなく重荷を背負わされ曲げられていたのであった。
しかし、このような苦しい罰であっても、彼らには必ずよき未来があった。苦しむことは地獄においてもあった。その根本的な違いは何であったか。それは地獄の苦しみは終わりなき苦しみであり、滅びの苦しみであった。しかし、煉獄の苦しみは救いの希望を伴った苦しみなのである。
このことは、使徒パウロが、次のように述べていることに通じるものがある。
… 神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救いを得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。(Ⅱコリント七・10)
この第一の環状の道の表面に第一に描かれていたのは、どの天使よりも上にある天使として造られたにもかかわらず、傲慢のゆえに、稲妻のように天から落ちていった天使であった。そのことは福音書に次のように記されている。このようなことを主イエスは目には見えない世界を見抜く力によって見た。
…彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。」(ルカ一〇・18)
このようなおよそ我々の通常の生活とはかけ離れたようなことは、自分とは関係のない記事だと軽く考えがちである。しかしダンテはこの主イエスのひと言のなかに、神の前の高ぶりが受ける裁きを劇的に表現しているものと受け取っていた。そしてこれは実際ダンテ自身の霊的体験であっただろう。どんなに能力があっても、またそれまで宗教的に生きてきたとしても、それがもとで気をゆるめるとたちまち人間は高ぶって自分の力を誇るようになってしまう。あるいは、神の罰などない、と道に反することをしてしまう。神の罰などない、というように思い込むことは神の力の上に自分の判断や想像を置くことであって、非常な高慢だということになる。
こうした神のさばきをないがしろにする高慢のゆえに、ダビデは大きな罪に陥り、たちまち神の選んだ王、類まれな武将、また詩人、音楽家といった多様な栄光ある地位から、たちまち引き下ろされ、子供同士が殺し合うような悲惨な状況となり、さらに自分も息子に殺されそうになって逃げ回るという事態になった。これは、天使として上に立つ存在であったのに、その高慢さのために天から一瞬にして落とされていったということに通じるものがある。
神の力は絶大である。徐々に落ちていくのでなく、一瞬にして落ちてしまうのである。いまどんなに神の正義や裁きをあなどり、無視する高慢な力がはびこっていても、時至ればたちまちそうした力は落ちていくのである。
その他さまざまの古代ギリシャの人々が伝えてきた高慢が罰せられる例や、最初のイスラエルの王であったサウル王が神に従おうとせず、自分の考えでことをすすめていこうとしたために罰せられ、敵軍によって死んでいくなどの聖書の例が描かれているのであった。
聖書だけでなく、ギリシャ神話にあるようなこともここに出てくる。それは、高慢ということへの罰は、いつどのような場所であっても生じるのだということを示そうとしているのである。
そして最後に描かれていたのは、大きな都市トロイア(ホメロスの叙事詩によって有名な都市)が、その高ぶりによって罰せられ、灰塵に帰したことがあげられている。それは、真実で永遠の神、万能の神がおられるのにそれを無視したどんな繁栄も、高い地位や権力も、時がくれば必ずこのように滅び去っていくということを確証することとしてあげられている。
このような、神の裁きを受けた実例が次々と描かれている。それを見て浄めを受けていく。
この道の表面に描かれた絵もまた、驚くべきすばらしいものであった。そのすばらしさについてつぎのように記している。
…画筆にせよ、もしくは彫刻刀にせよ、そもいかなる巨匠であったのか、どのような霊妙な天才をも驚嘆させるあの形と線の描き手はいったい誰なのか。死人は死人に、生きている人は生きているかとあやしむほどだ。見をかがめて歩く間、私は道の表面に刻み込まれた彫像を踏んで歩いたが、それは、その事実を目の前に見るよりもさらに真に迫っていた。(第十二歌64~69)
すでにこの第一の環状の道にたどりついたとき最初に目についたのは、崖の大理石の面に刻まれた彫像であったが、それについてもダンテはいかなる大芸術家や自然すらも恥じ入るほどであり、あたかもそこから声が聞こえるほどであったと書いている。そして地面に彫刻されたものもまた、生きているもののように鮮やかに迫ってきたという。
ここには、ダンテが芸術の究極的なすがたはここにあると言おうとしているのが感じられる。神が彫刻した像は自然すらも恥じ入るほどといった表現は、もし人が神のそのままの力を与えられるなら、芸術に非常な力を与え、人間の魂を深く揺り動かす力を持っていると言おうとしているのである。たしかに、単に、リンゴやぶどうなどの果物を皿に盛っているのを見ても何とも感じない人であっても、それが名匠の手による絵画とされたとたんに、心を引きつけ、なにかが心で燃えるような気持になることがある。自然のままの音になれきった人であっても、それらから霊感を与えられたものを音楽にすると、大きな力を受ける人たちも多い。ふつうの日常生活には何の感動もないが、それをもとにした俳句や短歌、あるいは詩文となると、とたんに人の心に留まって何らかの働きを始めるということがある。
現代の多くの人たちはこのような神の裁きを受けている例をみたところで、何とも思わないという人が多くいるであろう。
しかし、神を信じ、神に導かれている人にとっては、神による裁きの実際を思い起こすことは重要なことになる。すべてを支配している神などいない、この世に永遠に変わらない正義や真実などない、金が第一だとか、自分が偉いのだとか自分の力で成し遂げたのだ…等々、高慢というのは、たんに言動が高ぶっているというのでなく、その心に目には見えない万能の存在を認めようとしないで人間の力、自分の力を第一とする心、罪などないというような心の動きなどをすべて含んでいる。
そのような意味における高慢は、しばしば目に見えるかたちでその裁きを現すようになる。その言動や表情、目の感じ、さらに言葉の声の質などにもその高慢さはおのずから現れてくる。それは実に不思議なことである。目に見える人間の表情や目、声を出す声帯などはからだを造っているタンパク質などが素材であり、それらの物質的な形成が、その人の心の状態に従って影響を受けていくということなのである。
神の前での高慢が必ず罰せられるということを、さまざまの方面からの具体的な画像で見つつ、煉獄の山の環状になった道を心を引き締めて歩んでいたダンテと導いている先生(ローマの大詩人ウェルギリウス)たちは、煉獄の山を登っていくのであるが、環状になった道が、層状にあるという設定になっている。そして山の低いところから七つの環状の道が頂上までにつけられている。より高い環状の道へと登るには、その登り道がとても細くて見付けられないほどになっている。その点でこの煉獄の山の登りは、ふつうの山道の登りと全くことなっている。
私たちが、浄められつつこの世を歩むときも、同様である。より高きを目指して歩むのでなく、同じところをぐるぐるまわるだけなら、導きも不要である。しかし、より高きへと登るためには必ず導きが必要となる。ダンテとウェルギリウスもいずれも歴史に残る稀な大詩人であり、広く深く人間精神の世界に通じている人であった。にもかかわらず、煉獄の山においては、より上の環状の道へと登るのはどうしたらよいか見つからないのである。
そのとき現れたのが、天使であった。このときの描写は光に満ちたものである。(少しでも、ダンテの描写をより正確に受け取るために、次に、岩波文庫の文語訳、英語の韻文訳とイタリア語の原文を掲げる)
美しきもの こなたに来れり、
その衣は白く、顔はさながら
瞬く朝の星のごとし
Toward us, dressed in white,and with a face
serenely tremulous as in Morning Star,
the glorioua being came,radient with Grace.
(Tr.by John Ciardi :NEW AMERICAN LIBRARY )
A noi venia la creatura bella,
bianco vestito e nella faccia quale
par tremolando mattutina stella.
この天使の導きがなければ、最初の環状の道から、その上の環状の道へと登る道が見付けることができないのであった。ダンテを導くために現れた天使は美しく、汚れなき純白の衣、それは、神とキリストにふさわしいもので、神によって清められていることを示す。さらに、明けの明星のごとき強い光にまたたく顔なのであった。
この汚れた世界、さまざまの醜い人間的なものの満ちたこの世、罪の汚れに覆われ、闇にさまようこの世界にありながら、そのただなかにこのような御使いが現れるということ、それはダンテ自身の霊的な経験であったであろう。
私たちを本当により高きへと導くものは、学問でも、生まれつきの才能、あるいは多くの知識や経験ですらない。このように天の高みから送られてきた天的な存在なのである。使徒パウロは学問や生まれつきの才能はゆたかに恵まれていた。しかし、そうしたものをもってしてもキリストの真理の世界へは一歩も登ることはできなかった。彼をキリストの霊的高みへと引き上げたのは、まさにこの天使で象徴的に示されているような罪なき存在、光に満ちた存在―キリストご自身なのであった。
夜空に輝く星、ときにまだ暗いときから目の覚めるような強い輝きを持っている明けの明星(金星)こそは、私たちに現れる御使いをよく表している。そのような存在が何らかのかたちで現れるということ、それこそ大いなる奇跡である。
ダンテもその霊的世界における奇跡を体験したゆえに、この神曲に証ししているのであろう。
その天使は、翼をひろげ、言った。
「来れ、階段はこの近くにある。
これから先は登るのはたやすくなる。
この招きに応じて来る者は、非常に少ない。
ああ、人間よ、上に高く飛ぶために生まれてきたのに、
なぜほんのわずかの風で墜ちていくのか」(第十二歌91~96行)
ここでも再び、このより高きへと登る道への招きに応じて来るものがきわめて少ないことが天使の言葉として記されている。高く神のみもとへと飛び翔るために生まれているのに、わずかのこの世の風で墜ちていくことを嘆いている。
私たちの日常経験することが、このように印象的に表現されている。
その天使は、ダンテたちを導き、岩のえぐられた細いすきまのような道のところに連れて行った。そしてその翼をもってダンテの顔をはたいた上で、上の環状の道へと通じる険しい絶壁に岩を縫って階段の道がついていたところに導いた。左右の突き出した岩が体をかすめるほどに狭く、登りにくい危険な道であった。
しかし、そのような狭き道へと踏み入れたとき、突然、讃美の歌声が響いてきた。
…その声のうるわしさ、語り伝えるべき言葉もないほどであった。
ああ、これらの道が、地獄の道といかにはなはだしく違っていることか!
地獄への入り口では、恐ろしい嘆きや叫び声とともに入ったが、
ここでは、歌声とともに入るのだ。(煉獄篇第十二歌112行~114行)
その讃美とは、「幸いなるかな、霊(心)において貧しき者たちは!」という、新約聖書の最初に現れるキリストの祝福の約束の言葉であった。神の前における高慢とは、この霊において心貧しき状態とは正反対の心である。その高慢さが罰せられ、その受けた苦しみによって浄められるとき初めて人は、この幸いなるかな!という言葉をわがものとして聞くことができる。
真実な存在たる神に逆らい続けた魂は闇において苦しまねばならない。しかし、同じ苦しみであっても、地上の命あるときに悔い改めて神を信じるに至ったものは、同じ苦しみを受ける歩みにおいても、このような清い讃美の歌で迎えられるのである。
ダンテは、このように絵画的、彫刻的なものの深い意味をもこの煉獄において示しているとともに、音楽、とくに神への讃美の持つ輝かしい意味をも随所で散りばめている。
キリスト教の長い歴史において、絵画や讃美、あるいは讃美のもとになった神を讃美する詩などは、たしかに苦しいこの世の歩みを軽やかにし、私たちの霊的前進と高みへの登りを迎えるよろこばしい働きをしてきたのである。
そのときダンテはその聖なる階段を登って行ったが、そのときすでに歩き終わった第一の環状の道を歩いていたときよりずっと軽やかに進んでいけるのを感じた。それは以前、煉獄の門を入るときに額に記された七つの
Pの文字(peccatum 罪という言葉の頭文字)のひとつが消されているのが分かった。消えた罪とは、高慢の罪であった。神を認めようとせず、神の正義や真実などを存在しないとみなし、人間的なものを第一とする高ぶりこそ、罪の根源である。それゆえその根源的な罪が除かれたゆえに、ほかの罪の重さも自然に軽くなって感じられるということであった。
私たちにおいてもこうした意味の高ぶりが砕かれ、魂の深いところにおいて神のみに頼ろうとする心貧しきものとなるとき、この世の歩みは一段と軽くされる。そのことはキリスト者となった人たちはすべて程度の多少はあっても実感しているのである。
天の国への歩みを内容とする点においては共通している、バンヤンの「天路歴程」という作品においても、重荷を背負って歩いてきた旅人が、キリストの十字架のところまできたとき、その重荷が落ちてそれ以後ずっと軽くなって歩みを続けるということが書いてある。
私たちのこの世における神の国を目指す歩みをダンテはさまざまの描写によって描き出し、私たちをこの旅路をともに歩むようにと招いているのであって、この煉獄篇は神の厳しさと他方では神の愛が並行して織りなされた作品となっている。