驚くべき助け
この世には愛の神、真実な神などいない、と思わせるような出来事がたくさんある。そのため大多数の日本人は、そのような神の存在を信じていない。
しかし、ひとたび神によって示されたときには、どのような出来事があっても神はやはりおられるということを実感するようになる。また、それがはっきり分からないような事態にあっても、信じることができるようになる。
そのような神の存在は、私たちの魂に確かな励まし、慰めあるいは力となるゆえに、神がおられることを実感するのであって単に信じているだけではない。聖書の人物は、たしかに単にいるかどうかわからないものを信じているというのでなく、実際に語りかけ、その人のすべてを捨てて、神のことばに従っていく、という人が多く記されている。
私たちの心の最大の問題である、罪の問題、すなわちどうしても良き事を知っていながらそれができない、また悪しきことだと思いつつもはっきりと手を切れない、といったこと、それは表に出なくとも心の中で、誰しも感じていることである。
そのような罪を全くおかさないようにはできないゆえに、その罪を赦し、清めて下さるということは人間にとって最大の恵みだといえる。そのことを与えられたとき、確かに心は軽くなり、さわやかなものが心に感じられ、それが神がおられるという深い実感を与えてくれるものとなる。
そうした心の内の実感、体験で神の存在を知らされることの他に、私たちの実際の生活のなかでも、目に見えるかたちで神はおられる、ということを感じさせてくれることがある。
それは、神は生きてわたしたちを助けてくださる、ということである。
預言者エレミヤは、いまから二六〇〇年ほども昔の預言者である。彼ほど詳しく預言者自身の苦しみや悲しみ、あるいはその身にふりかかった迫害などが詳しく書かれている人は他にいない。
そのエレミヤが神から受けた言葉は、当時の王や王の側近や宗教家たち、おもだった人たちが考えることとは全く異なっていた。それは、ユダの国の混乱と崩壊は、唯一の神に心から仕えないことが原因である、ということであった。
ユダの王国が新バビロニア帝国の軍によって攻撃され、滅びようとしているのは、人々が神のご意志に背き、悪の道に入り込んでいるからであり、その根源は真実なる神を捨てて、神ならぬものを神としているからだと指摘した。そして彼らの積み重なる罪のゆえにバビロンの軍が攻撃しているのであり、それを切り抜ける唯一の道は、バビロニア帝国の支配に服することだと言った。
このような敵国に降伏せよという言動は、国民を動揺させるとして、憎まれることになった。
…役人たちは王に言った。「どうか、この男を死刑にしてください。あのようなことを言いふらして、この都に残った兵士と民衆の士気を挫いています。この民のために平和を願わず、むしろ災いを望んでいるのです。」(エレミヤ書三八・4)
王はこのような告発を受けて役人たちにどのようにしてもよいと答えた。彼らは、エレミヤを捕らえて井戸につり下ろした。そこには水がなくぬかるんだ泥があり、エレミヤはその泥のなかに沈んだ。
もしこのままであったら、エレミヤは死んでしまっていたであろう。当時は、カルデア軍(*)がユダの国に迫っているときであり、一般の住民においても食料もなくなってきた状態となっていた。
(*)カルデアとは、ティグリス・ユーフラテス川の下流域で,バビロンとペルシヤ湾にはさまれた地域を指していたが、のちには、新バビロニア帝国全体をも指す言葉ともなった。その国の軍はカルデヤ軍と言われている。
そのような状況のもとで、だれもみていないような井戸の中に投げ込まれたとあっては、エレミヤにとっては死が目前に迫った状況となった。そのようなとき、意外な助け手が現れた。
それは、同胞のユダヤ人でなく、遠いエチオピア出身の宦官であった。彼は、王のところに直訴してエレミヤを助けてくれるようにと願ったのである。有力な役人たちが憎んで殺そうとしたエレミヤを助けようとすることは自分にも危害がふりかかってくる可能性が高い。それでもこのような思いがけない人物が起こされて神の言葉を担うエレミヤを助けるために行動したのである。
王は、その嘆願の切実な態度、自分を犠牲にしてでもエレミヤを助けようとするその必死な思いのあふれる宦官に動かされ、すでに役人にエレミヤを死刑にしてもよいとまで許可をしていたのであったが、ひるがえしてエレミヤを助けよと命じることになった。
このようにいわば綱渡りのような状況を経て、エレミヤは助け出されたのである。
こうした意外な助けは、ほかにもいろいろと記されている。
モーセに導かれた民が、モーセの後継者であるヨシュアに導かれることになった。神から約束されたカナンの土地にはいっていくとき、警戒の厳しい状況のなかで、ヨシュアはその入口にある町エリコを調べるために二人の偵察者を送り出した。その二人は、土地の人に気付かれないために監視の眼が厳しくないと思われる、ラハブという遊女の家に泊まった。しかしすぐにそれは土地の人に気付かれて、王からの追手が二人を捕らえようとしてきた。カナンに入ろうとするその出発点において、こうした危険が迫り、そのまま助けがなかったら、彼らはたちまち捕らえられてしまったであろう。
そのとき、意外にもその遊女が二人の偵察者を命がけで助けたのである。遊女とはどのような時代であっても見下され、汚れた者とみなされているが、そのような女が危機に陥った神の民の偵察者を助け、それが、イスラエルの民が目的の地に入る重要な助けともなったのであった。その遊女は、驚くべきことであるが、イスラエルの民が信じている神こそは、唯一の神であり、その神に結びつくことこそ祝福の源であることをはやくも見抜いていたのであった。
この遊女ラハブは神の民の一員となり、そのラハブの子どもがボアズといい、そのボアズの妻がルツ記のルツであった。さらにそのルツの曾孫としてダビデが生まれ、その子孫からイエスが出た。これは、新約聖書の巻頭の書、マタイ福音書の系図に掲載されていて、神は遊女という見下された人間をも救い出し、イエスへとつながっていくようにされるのを示している。
そのことは、どのような人間であっても、神は清めて用いることができるということであり、万人の救いのためにキリストは来られたということをさし示すものとなっている。
使徒パウロも、殺されそうになる危機からまったく予想しない人によって助けられたことが記されている。
…夜が明けると、ユダヤ人たちは陰謀をたくらみ、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた。このたくらみに加わった者は、四十人以上もいた。
彼らは、祭司長たちや長老たちのところへ行って、こう言った。「わたしたちは、パウロを殺すまでは何も食べないと、固く誓いました。…わたしたちは、彼がここへ来る前に殺してしまう手はずを整えています。」
しかし、この陰謀はパウロの姉妹の子が聞き込み、兵営の中に入って来て、パウロに知らせた。
それで、パウロは百人隊長の一人を呼んで言った。「この若者を千人隊長のところへ連れて行ってください。何か知らせることがあるそうです。」
そこで百人隊長は、若者を千人隊長のもとに連れて行った。…千人隊長は、若者の手を取って人のいない所へ行き、「知らせたいこととは何か」と尋ねた。
若者は言った。「ユダヤ人たちは、彼らのうち四十人以上が、パウロを殺すまでは飲み食いしないと誓い、陰謀をたくらんでいるのです。」
そこで千人隊長は、「このことをわたしに知らせたとは、だれにも言うな」と命じて、若者を帰した。
千人隊長は百人隊長二人を呼び、「今夜九時カイサリアへ出発できるように、歩兵二百名、騎兵七十名、補助兵二百名を準備せよ」と言った。また、馬を用意し、パウロを乗せて、総督フェリクスのもとへ無事に護送するように命じた。…(使徒言行録二三章より)
このように、危ういところでパウロの甥がこのように、パウロが殺される寸前となっていることを知らせたために、ローマの軍団の長によってパウロは助けられたのである。彼の甥とはどのような人物なのか、使徒言行録でも、彼の書簡においても全く現れてこない。ただ、この命が奪われそうになったときだけ突然現れて、パウロの命を助けることになったのである。
このように、神は、だれも予想できないような仕方で、また予想もしない人物を重要なはたらきに用いることがある。
主イエスも十字架にかけられる最後の夜、ゲツセマネの園で全力を注いで祈った。弟子たちがみんな疲れて眠ってしまってもなお、血の汗のしたたりを落とすというほどに必死になって祈った。
その祈りこそは、霊の戦いであり、 その戦いに勝利したゆえに、十字架につけられて息を引き取るまで人間として最も厳しい道を最後まで歩み通されたのであった。
その生涯の最大の霊的な試練と戦いのときに、天使が現れて力付けたと記されている。
私自身も今までの人生において、幾度かたいへん困難な場面に直面したことがあった。まかりまちがえば、一身上で重大問題となるようなことにも遭遇したことがあった。そのときに、不思議な助けが現れたことが何度かある。それは三〇年以上も前のことであったが今もなおはっきりと思い起こすことができるし、その数年後にもやはり職場で以前から続いていた大きな問題に直面した。それは、到底放置することを許されないような問題であったから、私がそのことを明らかにしていく過程で大きな問題となり、全国紙にも報道されたことであった。そのときも全く意外な助け手が現れて、思いがけない方向へと導かれたのであった。さらにその後も今度は全く異なるやはり難しい問題に直面したが、そのときにも予想もしない人が現れて、道が開かれたことがあった。
そうした私自身の経験からしても、確かに神は生きて働いておられ、真剣に求める者には、思いがけない人や、出来事、あるいは書物などを通して助けが与えられる。多くの人は、この世は悪の力が支配しているか、あるいは偶然とか運命といったもので動いているのであって、神の助けなどないと思い込んでいる。しかし、それは実は大いなる誤りなのである。
神は二千年前にイエスを地上に送り、万人の罪を身代わりに負って十字架にかかられた。その後、復活して聖なる霊としてこの世界に生きて働く存在となった。その霊は生けるキリストと本質を同じくするものであり、風のごとくに思いのままに吹く。そしてその聖なる霊は、また思いのままに人間や書物や出来事を起こして私たちのところに助けとして、また裁きや警告として来られるのである。
主よ、憐れんで下さい! という単純な叫びと祈りは、そうした風のごとくにこの世に存在するイエスの霊を私たちのところに呼び寄せるはたらきをする。そしてその聖霊は、困難に追い詰められた者に新たな道を見出させ、また耐える力を与え、あるいは錯綜した問題を見抜く洞察をも与えて下さるであろう。
求めよ、そうすれば与えられる、という主イエスの約束はそうしたことも含んでいるのである。