待ち続けることの意味
私たちはだれでも何かを待っている。待ち続けている。難しい問題を抱えている人は、その解決がいつ終わるのかと待ち続けるし、病気に苦しめられている人はいつ治るのか、痛みや苦しみが軽減されるのかと待ち続ける。そして入学、就職等々さまざまのこの世の生活において、いつも私たちはそれらのよりよき状況への変化を待ち続けている。
老齢で病気や孤独に苦しむ人は、この世の命が終わることを待ち続ける人も多くなるだろう。
待つことができない、ということからさまざまのより大きな困難が生じてくることもある。
唯一の神、天地創造をされた神のみを拝するということは、聖書の世界では根本的に重要なこととなっている。キリスト教やユダヤ教だけでなく、旧約聖書から分かれた宗教といえるイスラム教においてもこのことは共通している。この唯一の神以外のものを神とすることは偶像崇拝といわれて一貫して厳しく退けられている。キリスト教をはじめ、ユダヤ、イスラムという聖書を全面的にあるいは部分的に教典とした宗教が現在では世界の圧倒的部分を覆っている。それほど世界的にみれば、偶像崇拝はまちがったことであるということは共通した認識となっていると言えよう。
その偶像崇拝の最初の記事は、この出エジプト記の三二章なのである。しかもそれは、モーセが永遠の戒めとしての十の基本的な神の言葉(十戒)を受け取っているときに起こったと記されている。
モーセが神の言葉を受けるために、人々から離れてシナイ山に登った。シナイ山は、二三〇〇メートルほどもある高い山であり、頂上まで上るだけでもかなりの時間を要する。そこでモーセは神の言葉を受けるために留まった。そのとき、人々は、モーセの帰りが遅いので、モーセの兄弟であるアロンのところに行って、自分たちを導いてくれる神々を造って欲しいと要求した。
モーセによって数々の奇跡を見せられ、神の万能の驚くべきわざを繰り返し人々は経験してきたはずであるにもかかわらず、人々はいとも簡単に唯一の神以外のものを神々として求めている。そしてアロンはモーセを助けてエジプトから脱出してきたにもかかわらず、彼も簡単に人々の要求を受けいれて彼らがもっていた金の装飾物を集めて牛の像を造り、人々はそれを自分たちの神だといって受けいれた。
そしてアロンや人々はその牛に対して神に対してするように、祭壇を造り、捧げ物をささげた。このことはあとで、神からの厳しい裁きを受けることになり、多くの人が滅ぼされることになった。
偶像崇拝の最初の明確な記事、しかもすべての民が押し流されて、それまでの唯一の神の奇跡的な助けを数多く受けてきたにもかかわらず、いとも簡単にその神を捨てて、別の像を造ってそれを神としてあがめるという、考えられないような大きな罪を犯したのであった。
その原因が、金を欲しがるとか病気いやしのためとかでなく、あるいは敵の攻撃が迫ってくるために目に見える偶像を求めたとかいったことでなく、単にモーセの帰りが遅い、待ちきれないということから、偶像を造ってそれをあがめるということになっている。
このように、待つことができないということにも、いろいろあるが、聖書において重要な問題となっているのが、神の言葉を待ちきれないということである。
さまざまの悪しきことは、たいていこのことが関わっている。聖書の最初にあらわれるアダムとエバの記述はさまざまの意味で人間のことを象徴的に示している。サタンを暗示する蛇が、神から食べてはいけないと言われていた唯一の木の実を食べるように誘惑されたとき、もし、少し立ち止まって神からの語りかけを待っていたならば、楽園から追放されることはなかった。神が園を歩く足音が聞こえたと記されているように、神はすぐ近くにおられたのであって、その声を聴こうとする心があればすぐに答えをもらうことができたであろう。
エバは、全く神の言葉を忘れていたのでない。蛇の誘惑に対して「私たちは園の木の実を食べてもよい。しかし、園の中央の木の実は食べてはならない。」と言って、やや不正確ではあっても、一応神の言葉を思いだしていたのである。それに対して蛇はさらに、木の実を食べても決して死なない。かえって神のように目が開けるのだ、と言った。こうした重ねての誘惑を受けたとき、もし立ち止まって神の言葉を待っていたならば、状況は全く異なるものとなったであろう。
このように、人間は人の言葉、サタンの言葉を容易に受け取るけれども、神がおられることを知っていてもなお、神の言葉を待ち続けることができない弱い存在であるということが、聖書の最初から記されている。聖書とは要するにこのことを一貫して最初から最後まで語り続けているのである。
主イエスも、たとえのなかで、待ちきれない人間の罪をつぎのように話された。
…しかし、もしその僕が、主人の帰りがおそいと心の中で思い、男女の召使たちを打ちたたき、そして食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば主人は、厳しく罰する。(ルカ十二・45)
自分が見下されたとか、正しく評価されなかった、あるいは愛を注いだのに、報われなかった、無視されたなどから怒りや憎しみが生じることが多い。こうしたこともまた、神からの指示を待てないために、そうした怒りや憎しみの感情が生じてくる。静まって神を仰ぐこと、そして神からのまなざしと言葉を受けることによって私たちは自分の魂をも汚し、暗いものとするそうした感情にとらわれないですむ。
聖書で、「静まって、み言葉を待て」といわれているのはこうした理由からでもある。
待ちきれないところから、神ではないものを見つめ、それに頼っていく心が生まれる。神の言葉を待つとき、私たちはそうした神以外のものにまどわされたり、それに頼ることから守られると言えよう。
主イエスが最後の夕食をすませ、ゲツセマネの園で必死の祈りをささげていたとき、ユダの裏切りによってイエスを捕らえようとして剣や棒を持った人々が迫ってきた。それを見て、ペテロは剣を抜いて切りかかった。剣をもっていたのは弟子たちのうちで二人、しかも漁師や徴税人のような武装して戦うなどの経験もない人たちであったから、勝てるはずもない。そのようなことをすればたちまち殺されてしまうだろう。
この時、弟子たちは、イエスからの命令を待とうとせず、剣をもって切りかかった。もし主イエスがそれを止めて、耳を切られた者をいやすなどのことがなかったら、大勢の武器をもった兵士や群衆にたちまち殺されてしまっていただろう。彼らが剣や棒などの武器をもって来たのは、そのようなときに武力で制圧するためであったからである。
しかし、主イエスだけは神とともにあった。武力によっては新たな憎しみが生じて、武力による戦いが生じ、こうした考えでは最終的に双方が滅んでいく。イエスがとった方法は、神の力を全霊をあげて待ち望み、その力によってみずから捕らえられ、鞭打たれ、殺されていくという道であった。そのような困難な道を選び、通っていくための力を受けるために、ゲツセマネの園において血の汗の滴りを流すほどに祈られたのであった。
旧約聖書にも、神の言葉を待ちきれないために、自分の考えで事をしてしまって取返しのつかない事態となったことが記されている。それは、イエスより千年ほど昔、イスラエル最初の王の時代である。
初めての王となったサウル王は、預言者サムエルによって導かれる必要があった。預言者が七日間待つように、と命じてあったにもかかわらず、サウル王は、どこまでも待つことができず、七日経っても来ないので、神に捧げ物を捧げてしまった。しかし、それはサムエルがすることであって、サムエルが捧げ物を捧げてから、何をなすべきかについて、神の言葉をサウル王に告げることなのであった。サウルは七日間待った。そしてもう来ないと思って勝手に捧げてしまった。そのときちょうどサムエルが到着した。そしてサムエルからの言葉は、つぎのようであった。
…あなたは、愚かなことをした。神が与えた戒めを守っていれば、神はあなたの王としての支配権を確かなものとしただろうに。しかし、あなたの王権は失われる。(サムエル記上十三章8~14より)
王は、神が命じたことを守らず、待ちきれなくなり、サムエルを通して与えられる神の言葉を待とうとしなかったため、 イスラエル最初の王としてとくに選ばれたはずのサウル王が、祝福されず王の地位は失われることになった。その原因は聖書に二つ記されているが、そのうちの一つがここに引用したことである。
神の言葉を待とうとしないこと、待つには待ったが待ちきれなくて自分の考えで事を処理してしまったというようなことが、王権を失う原因となったのである。
現在の私たちにとっても、ここに記されたことは重要である。神を信じる者に与えられているのは、神の国である。主イエスは言われた。
「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」。(ヨハネ十八・36)
主イエスを信じる者たちは、ここで言われているイエスの国、すなわち神の国をすでに地上にあるときから部分的であるにせよ与えられている。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ五・3)と言われている通りである。
この神の国もまた、サウル王がみ言葉に聞かなかったために、失ったように、私たちもみ言葉を待ち続け、それを第一に重要なものとして聴こうとしなかったら失ってしまう。
私たちは、日常の生活において、神の言葉を待ってから行動したり、言葉を出したりしているだろうか。自分の一時的な気持や考え、あるいは他人の言うことによって行動していることが実に多い。
私たちに力がないのは、サウル王が神からの指図を受けなかったために王の資格を失ったように、神に聴く姿勢をもっていないからだと言える。神(真理)に従えば力があると言われるように、神の指図やうながしを待ち続けること、その姿勢がある限り、神は必ず御旨にかなった時に、私たちに進むべき道を示し、同時にその道を歩んでいく力をも与えられるであろう。
…私たちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理に従えば力がある。(Ⅱコリント十三・8)