私は、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威をあなた方に与えた。
だから、あなた方に害を加えるものは何一つない。

(ルカ福音書十・19より)


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聖書には、神の前を歩む、ということと、神に従って行くという表現がある。多くの場合私たちは、神が先立って導いて下さるから、その後を従っていくということを思いだす。旧約聖書の出エジプト記において、雲と火の柱が、先立ってモーセや人々を導いたとあるが、これは神の臨在の象徴であり、神ご自身が彼らを導いたということである。
また、アブラハムも神からの呼びかけに従って、未知の遠い土地に親族と別れて、出発した。そして大いなる祝福を与えられていった。
新約聖書においても、主イエスは、私に従ってきなさい、と呼びかけられた。私たちは、すぐれた指導者には自然に従っていこうという気持ちになる。
しかし、悪しき指導者は、強制的に服従させる。江戸時代のような封建時代では、有無を言わさず命令に従わせた。どんなに作物が不作でも年貢を取り立て、応じないものは罰せられた。キリスト教信仰を持つことも許されず、幕府の命令には絶対服従であった。
江戸時代が終わっても、天皇というふつうの人間を神とまであがめてその天皇に従って戦争に行かされ、命を捨てるように強制させられたという歴史があった。
現代でも、子供の小さなグループや学校、会社などあらゆる組織は何らかの強制で従わせていくし、宗教も間違った宗教ほど強制と一種のおどしで従わせようとする。
このように、従うということには、なにか強制や重いものがつきまと。
しかし、それとまったく異なる従う仕方をキリストは人間の世界に導入された。それは喜びをもって、自発的に従うということである。畑に隠された宝(福音の真理)を見付けたものは、喜びのあまり持っているものをすべて売り払ってその宝を買う、とイエスが言われたとおりである。
そのようにして、二千年の間、無数の人たちがその生涯、そしてときには命まで捨てて自発的にキリストに従っていった。
このように、従うということは極めて重要なこととして聖書で記されている。
他方で、「神の前を歩む」ということも聖書では記されている。
「あなたが私の前を歩んだように、あなたの子孫もその道を守り、私の前を歩むなら、王座につく者はいつまでも続いていく」(列王記上八・25
ここで、「私の前」と訳されている原語は、「私の顔」という言葉である。私たちはとても「神の顔にあって歩く」とか、「神の顔の前を歩く」などという表現はしない。しかし、旧約聖書においてこのような意外な表現があるということは、それほど神が近くにいてその御顔の前を歩むということを実感していたからであろう。
神はすぐ後ろにいて私たちを見守って下さっている。もし私たちが間違った道へとそれようとするときには、それを警告し、それでも聞かないならば、苦しみを与え罰を与えてでも正しい道に戻そうとされる。また、母親が幼な子を遊ばせるとき、いつもすぐそばで見守っているように、私たちの苦しみや悲しみをすぐにわかってくださり、耐えるための必要な力や導きを時に応じて与えて下さるということが感じられる。
主は、いつも前にあって私たちを導き、また後ろからも見守り、さらに苦しくて歩めないような時、並んで私たちを支え、共に歩んで下さるのである。
次の詩はこのような、主の取り囲む愛を深く実感した人の言葉である。

あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもってわたしを囲んでくださる方。(詩篇三二・7
神に逆らう者は悩みが多く、主に信頼する者は慈しみに囲まれる。(詩篇三二・10


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