山と川の流れ

私たちの日本では至るところに山と川がある。小さい山、山頂も目立たない山なみ、富士山のように、だれが見てもその美しさを感じるような山もある。
それに私たちは心を休め、また心動かされる。旧約聖書には、私は山に向かって目をあげる、それを見つめていると、真の助けはどこからくるかが浮かび上がってくる。
山は数知れない霊感と安らぎ、そして力の源である。
聖書には、こうした目に見える山とは違った大いなる山のことが書いてある。

終わりの日に
主の家の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。
国々はこぞって大河のようにそこに向かう。(イザヤ書二・2)

主の家とは、神殿のことであるから、神殿のある山で、それはいかなる山よりも高くそびえる。
神殿とはその中心に神の言葉が置かれてある建物である。言いかえると、神の言葉がある山こそ、どの山々よりも高くそびえるということである。
その高さは、何か。それは神の言葉が高く引き上げるのである。神の言葉の力がここにある。実際にはエルサレムは標高八百メートルほどの高さにある山の上の町である。この高さより高い山々が無数にあることはみんなが知っていた。それにもかかわらず、主の家(神殿)の山はあらゆる山々よりも高くそびえるという。
人間も同じであって、神の言葉をしっかり持っている人は、神が高く引き上げるのである。目に見える高さでなく、本当の高さは、目には見えない。社会的地位は最も低いようであっても、霊的に高い嶺としてそびえるようにして存在してきたのは、漁師のヨハネやペテロなどの弟子たちがあり、その他無数の人たちがいる。文学にもストー夫人の描いた、黒人奴隷のトムのような例がある。
十字架上でイエスとともに処刑された重い罪人、彼は激しい苦しみのなかで、イエスの言葉をしっかりつかみ、イエスにわずかの願いを捧げた。それによって彼は高く引き上げられ、二千年を経てもその高さは変ることがない。
それとともに、大いなる流れというのがある。それは、世界の国々、民族が主の山に向かう流れである。それは言いかえると、神の言葉に向かう、神のご意志に向かって流れていくということである。
このような聖書の啓示がなかったら、私たちの前途や、この世界全体はどこに向かっていくのか、わからない。わずか、一年後のことさえ、どんな経済学者も政治家も評論家たちも預言することはできないのである。例えば、民主党が総選挙で圧倒的多数で勝利する、など数年前にはだれも予測できなかったし、トヨタのような大企業が赤字になるなど、これまただれも予測しなかったはずのことである。
このような目先のことさえ、無数の学者が日夜研究をし、さまざまの高性能のコンピュータなどを駆使しても、そのような学問や人生経験、あるいはおびただしい情報があってもなお、予見できないほどこの世は複雑であり、万人の予測を超えた動きをしていく。それゆえに、いまから百年先、千年先、さらに、人類の全体としての将来や最終的な行き着く先というようなことなどはまったく分からない。
私たちが聖書の真理を知らないときには、こうしたまったく分からないところに向かって私たちは進んでいるのだというばくぜんとした不安が生じる。列車に乗っていて、どこへいくのか分からない、と思いつつ乗っている人がいるだろうか。
聖書にはこうした究極的な行き先が記されている。単に心の問題とか、道徳的な戒めなどが書いてある書物ではないのである。
この無秩序に満ち、混乱や悲劇的出来事がつねに生じているこの世が全体として滅びに向かっていて、そのまま消滅していくのか、それともまったく違ったところに向かっていくのか、それはきわめて重要なことである。
聖書はすでに二千五百年以上も昔から、この究極的な問題についての神の啓示を記している。それがこのイザヤ書の箇所である。そしてそのことは、ほかの預言書にも「主の日」という表現で記されている。神の定めたときがあって、そこに向かって歴史は流れていく、導かれていくというのである。

見よ、わたしは新しい天と地を創造する。(イザヤ書六五・17

私たちが向かっていくところは、私たちにはふつうに考えてもそれがどのようなものなのかは言葉で表現できないが、「新しい天と地」なのである。
新約聖書においても、さまざまの混乱や苦難があるけれども最終的には、神の御支配が完全になされる新たな世界のことがはっきりと記されている。
キリストは雲(神の臨在と、神秘の象徴)とともに来られてすべてを完全にされる。それは聖書の巻頭にある、闇と混沌のただなかに、光が神の言葉によって突然もたらされたという記述の完全な成就ということができる。
神の啓示を最も明らかに受けた使徒パウロは、その代表的な手紙において、つぎのように述べている。
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている。(ローマ人への手紙十一・36

また、次のようにも記されている。
こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。(エペソ書一・10

キリストのもとにすべてが集められていく。そういう大いなる流れがこの世界の根底にある。地表にどのようなことがあろうとも、地中深いところではしずかにゆっくりと地下水が流れている。聖書に記されている大いなる流れもまた、地上の世界がいかに混乱や変動があろうとも、その目に見えない流れはキリストに向かって、新しい天と地に向かって続いている。
神の言葉を中心とする霊的な山がそびえ、そこに向かう大いなる流れ、それらをすでに数千年も昔に、神から特別に示された人がいた。現代の私たちもそうした啓示を万能の神を信じるゆえに、そのまま受け取ることができる。
これは信仰によって受け取ることであり、またそこに大いなる希望が示されており、そうしたすべては神の私たちへの愛ゆえに御計画されていることなのである。


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