お話しください(その2)
(これは、今年の七月に北海道の南西部の日本海側にある瀬棚聖書集会での聖書講話をもとにした内容です。)
前回は、サムエル記に出てくる、幼な子サムエルが、神からの呼び出しを受け、「お話しください。しもべは聞いています」という箇所を中心に話した。
今回は、ルカによる福音書のマルタとマリアの箇所である。とてもわかりやすい言葉で書いてある。
福音書の良いところは、全然難しい言葉を使わず、子どもでも分かるような表現で書いてあることである。主イエスがある家に入ったら、女の人が二人いて、一人は来客のイエスのためにせわしく働いていて、もう一人はすべてを忘れてイエスに聞き入っていた。すると、マルタはどうしてマリアを叱ってくれないのか、わたしは準備で大変なのにと。そうすると主イエスは必要なものはひとつだと言われた。
このようなわかりやすい表現のなかに深い真理の込められた内容が、二千年も無数の人の心を動かし、流れてきたのである。まさに神業である。これは人間には出来ないことで、この世には文筆家はいくらでもいるが、ベストセラー的なものは時間のふるいにかかってみんな消えていく。しかしこの聖書の真理は消えない。
マルタとマリアがいた。そこに主イエスが来られた。主イエスはいろいろなところに行っているので、この場所にも二度と来ないかもしれない。もうこれでお会いできるのは最後かもしれないと思ったら、当然一生懸命もてなそうと思うのが普通である。
だからマルタは一生懸命働いた。ところがマリアは手伝いもしないで、主イエスが最初に話しかけたのか、マリアが質問したのかは書かれていないが、マリアはじっと主イエスの足元で聞き入っていた。
マリアも、マルタが一生懸命もてなす用意をしていたら、普通だったら私も手伝おう、イエス様、ちょっと待っていてくださいということになるはずだが、それができないぐらいマリアはイエスの深い御言葉に引き寄せられていたのである。
それを見ていたマルタは、だんだん落ち着かなくなって、主イエスにどうしてマリアに手伝えと言って下さらないのかと抗議した。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」(ルカの福音書十・40)
こういうところにマルタの心にある種の高ぶりがある。主イエスのことを本当に神の預言者だと信じていたら、イエスに不満を言うのでなく、マリアの肩をちょっとたたき、「わたしは準備で忙しいのだから手伝って。イエスさまのお話を聞くのはあとにしよう」ということになるだろう。
後に、主イエスが十字架にかけられると弟子たちに予告したとき、ペテロは、「そんなことがあってはいけません」と言って、こともあろうに主であるイエスを脇へ引き寄せてイエスを叱ったことがあった。そのとき主は、サタンよ退けと厳しい言葉でペテロを叱責された。
マルタの言い方は主イエスに対して、何にも思わないのですか、あなたのなさっていることは不公平ではないですか、と暗にイエスの間違いを指摘しようとしているかのようである。
マリアは最初は主イエスが来ると分かり、もちろんもてなそうと思っていたであろうが、主イエスの言葉や神の御言葉に非常に深い関心があったから、思わず引き寄せられたのである。自分には全く知らない世界が開けていき、周りのことが消えていったのであろう。
一方マルタは自分がしているという気持ちが大きくなり、主イエス、マリアがだんだんと小さくなり、二人に対してどうして自分のことに心を配ってくれないのかという気持ちになり、仕える者の気持ちでなくなっていった。
一見正しい行動をしているものが、かえってその心のうちには、自分は正しいのだ、ほかの者よりよくやっているのだ、だから何らかのよい報いは当然なのだと考えてしまう。
放蕩息子のたとえも同様である。財産を使い果たして遊び暮らした弟に対し、自分はずっとまじめに働いてきた。それなのに、その遊び暮らした弟が帰って来たといって、最大級のご馳走をしてやるのはあまりにも不平等でないのか、自分はずっと仕事してきたのに何もそんなことをしてもらったことがない。そう言って父に強い不満を言った。この兄も弟への愛や父親への愛が小さくなり、自分への報いを求める気持ちが大きくなっていったのである。
このようなことは、わたしたちにもあることで、自分が何らかのよいことをしていると思っていると、その人の心のうちでは、主イエスが小さくなる。一般的な人間は、神やイエスのことなど全く心にはなく、自分がやっているのだと思っている。しかし主イエスに聞き入る人ほど、自分や周りの人間が小さくなり、主イエスがますます大きな存在に見えてくる。
我々の身近なところで見ても、一つ一つの小さな草花や、葉っぱの一枚一枚、雑草までも神が意味をもって創られたわけで、スイスなどの美しい山だけが神の栄光を表しているのでは決してない。神は完全な愛のお方で、万物をその愛によって創造された。愛は無意味なものを作らない。
そのような目で、小さな草花や、チョウやハチなどの虫を見たら創造の神秘というものにだんだん感じるようになる。
「ざくろの聖母」というボッティチェリという画家の絵画がある。マリアが幼児の イエスを抱いている絵であるが、そのイエスが真ん中に大きなざくろの開いた実を持っている。そのザクロはたくさんの実をなかに持っている。そしてその赤い色はキリストの血によってなされるあがないをも暗示しているといわれている。
このようにザクロの実という本来はキリストと何の関係もないようなもの、一つ一つに意味を持たせて、絵を書いている。
神はこうした画家にその才能を与えたもとになるお方であり、いっさいの事物に深い意味を与えて創造されているのである。
この世の出来事や、自然のさまざまの姿に接して、神は何を言おうとしておられるのかと聞こうと思うほどに、全てひとつひとつに神の壮大なご計画があることを知ると、神がすごく大きな存在となる。ここでは単に忙しく働いていたら、大事なことを忘れるということだけでなく、だんだんと自分がしているんだと大きく自分が膨らんできてしまう。そして、膨らんだものは簡単にしぼんでしまう。そして一番大事なものが小さくなってくる。
自分というものにこだわっていたら、神の語りかけを聞くことができない。それとは逆にマリアには聞く心があったから、だんだんと主イエスと御言葉と真理の世界が膨らんで、そしてそこに小さい自分が引き込まれていったのである。
人間でも自分の感情的な判断で この人はよい、この人は悪いと判断して退けるようにしていたら、そのような人間の心は小さくなる。しかし悪いと思われる人も、あるいは体に大きな障害を持った人も、病気の人、そして老人も、死が近いような状態の人など、みんな神から何らかのメッセージが託されている、深い意味があるんだと信じて対するとき、いろいろなものが開けてくる。
一般の仕事でも忙しかったら、「忙しい」という漢字の通り、心が滅ぶとよく言われる。忙しければ目先のことばかりに気をとられてしまうのは誰にでもあることである。
主イエスはマルタの言葉に対しても「マルタ、マルタ」と二回も呼びかけたところに、主イエスの人間の弱さなどいろいろなことを知りぬいた愛を表している。
ここには、「主の平和」が書かれている。主の平和というのは本当に大事なことで、ヨハネの福音書では、主イエスが最後に残していくものはわたしの平和であると書いてある。自然のままの人間はそれを持っていない。
人間の議論や研究、経験などがいくらあっても得られない「主の平和」をあげようと言われた。ヘブライ語で「シャローム」、ギリシャ語で「エイレーネー」という。新共同訳聖書ではほとんどが「平和」と訳されるが、新改訳や口語訳では心のことに関わるニュアンスが強い時は、「平安」とも訳されている。
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな、おびえるな。」
(ヨハネの福音書十四・27)
わたしは、平和を残し、与える、と特に強調して書かれている。それは人間のいかなる方法によっても「主の平和」はなく、ただ主イエスから受けるのでなければ、決して与えられないのである。
だからパウロも手紙の最初に、「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」とまず祈りを持って書き始めている。
わたしたちもクリスチャンであれば、拝啓とか、敬具といった単なる形式的な言葉を使って手紙を書くのでなく、主の平和を祈るということをもって書き始めたいものである。
主イエスが弟子を遣わしたとき、「家に入ったらその家の人に対して平和を祈れ、そしてその家の人々がその平和を受けるにふさわしくなければ、その祈った平和はあなた方に返ってくる」と不思議なことを言われた。
このように聖書ではさまざまなところで「主の平和」が言われているが、この「主の平和」をマルタは持っておらず、多くのことに思い悩み、心を乱していた。
聖書の言葉というのはそこに書かれている特定の人にだけにあてはまるのではなく、ここでもマルタだけでなく、人間はみな同じである。わたしはこれだけしているのに、あの人はしていないと見下したりし、またそれを認めてくれないと心が乱れる。
主イエスが十字架で犯罪人として血を流して死ぬことによって私たちが罪によって縛られている状態から救い出して下さった。そしてその結果与えられた主の平和をしっかりと持っているのでなければ、私たちの魂は揺らぎ続けるであろう。
自分は心の平和を持っていると思っている人であっても、たった一言の悪意ある言葉によって波のように心が揺れ、乱れることがある。しかしそうした弱い者であるが、主イエスの「静まれ」という御声を受け取ることができたなら、魂の平安が与えられる。
学校教育によっても、「主の平和」が与えられるかどうかというと、そのことに関しては全く無力である。いくら勉強しても学んでも、多読をしても、人生経験をしても魂の深い平安は与えられることはない。
日本人で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹でさえ、晩年は非常に暗く憂鬱な表情で、心から笑ったことがないのではとさえ感じた。なぜそうなったのか。パグウォッシュ会議(*)に加わり、核兵器をなくそうという運動に加わったり、科学関係の著作だけでなく、「本の中の世界」といった文学的著作もあり、非常に教養の深い人だったが、信仰は全く持っていなかった。
(*)イギリスの哲学者ラッセルと、ユダヤ人科学者アインシュタインによる呼びかけを受け、十一人の著名な科学者によって創設された。一九五七年、カナダのパグウォッシュという地で、湯川秀樹、朝永振一郎をはじめとし、ジョリオ=キュリーら10カ国22人の科学者たちが集まって第1回の会議が開かれた。その最初の会議では、すべての核兵器は絶対悪であるとされ、抑止力を認めなかった。
彼は、さまざまの知識を知れば知るほど明るい表情になるのでなく、晩年には暗い憂鬱な表情となっていった。科学や他の学問とか知的能力がいかにすぐれていても、魂の深い平和や喜びというのは、そうしたこととは関係がないということを私は学生時代に直接に湯川博士の講義に出席して痛感したことであった。
人間の心は、揺れ動いてやまないものがあり、それは本当の光を見出せないときには必ずそのようになるのであって、そのような動揺する心をマルタによって象徴的に示しているのである。
人のため、世のためといくら行動しても、政治・経済、ほかどの分野でも、いかなる手段を持ってしても、そこからは深い心の平和は訪れることはない。
そして死が近づき、病気がちとなると、ますますこの心の内なる波が揺れ動くことになる。
しかし、もし主の平安を深く与えられているときには、どのように変るであろうか。それは、最初の殉教者、ステファノによって記されている。
彼は、ユダヤ人たちの前で、彼らが神に対して逆らってきた事実を言ったにもかかわらず、まわりの者たちみんなが怒り、引きずり出され、石を投げつけられて殺されるに至った。しかし、そのような通常なら誰でも激しく動揺するようなときでさえ、彼の人生で最高の平安を得て、天が開かれて復活した主イエスが神の右に座しているのを見て天に帰っていった。
マリアとマルタの記事は、単に家庭の問題や姉妹の性質の違いなどを言っているのではなく、本当の平和はどこにあるのかという普遍的なことを、主イエスの独特な手法で、なじみの深い家庭的なことに託して、伝えようとしているのである。ここの箇所は今まで言ってきたように「主の平和」と大きいかかわりを持っているところである。
「必要なことはただ一つだけである。」英語訳では one thing is needful.こんな短い一言に二千年間も響かせるような深い余韻を持たせるというのは、主イエスの天賦の才能、神の子であったからだろう。
このような類の深い表現は旧約聖書にはなかった。必要なことは一つだと言われても、あまりにも極端すぎるのではないか、わたしたちにはまず食べ物がいる、お金がいる、服がいる、家がいるではないか、なぜ一つなんだとだれもが首をかしげるような内容である。
だからこそ引き付けられる。どう考えても必要なことは一つであるはずがないのに、なぜこのように断定され、それを確信を持って言われたのであろうか。一体奥になにがあるんだろうかと自然に引き寄せられる。
長い言葉で書かれていたら読む気がしなくなりがちだが、短い言葉にさまざまの意味が込められているとき深い余韻が出てくる。
ここのところはやはり、別の箇所と照らし合わせる必要がある。よく知られているヨハネの福音書のもっとも有名な箇所の一つで、ヨハネ福音書の十五章と言えばクリスチャンであれば、ほとんどの人がいろんなところで見聞きして熟知しているだろうところであるが、今日のところと関連させて読まれることは非常に少ないであろう。
五節でこの箇所を別の表現で言っている。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。(*) わたしを離れては、あなた方は何もできないからである。」(ヨハネの福音書十五・5)
マルタはまさに主イエスから離れ、自分に固着してしまったのであった。そうなると一生懸命奉仕しているように見えても、このヨハネ福音書のイエスの言葉に照らしてみると何もしていないことになる。
なくてはならないもの、真に必要なものは主イエスに聞こうとすること。そして、聞こうとするということはイエスにつながっていようとすることである。
人間関係においても心が結びついておらず、反感を持っているなら、すぐ近くにいても、聞く耳を持たない。しかしつながっていれば、遠く離れていても何か言ってるんじゃないかと聞こうとする。聞こうとするということは、その人と心が結びついているということである。
主イエスの足元で聞き入ろうとするマリアの姿勢と、主イエスにしっかりとどまっていようという心は同じである。この一つのことがあって初めて、他のことが意味のあるものとなる。
マルタもマリアに対する愛があり、マリアのようにイエスが語ることを真剣に聞こうとしていたら、きっと良いものが得られたであろう。
その気持ちがあれば、「私が準備しているから、マリアはしっかり聞いていてね」という気持ちになったであろうし、あとで自分も聞かせてもらうこともできたのである。主イエスに心が結びついていれば、そういう気持ちになっただろうが、このマルタの場合は主イエスに心が深くつながっておらず、そのためにマリアに対しても愛がなかった。
その代わりに自分というものに結びついていたから、マリアに対し、また主イエスに対しても不満持つようになったのである。
(*)「つながる」と訳されている原語(ギリシャ語)は、メノーであり、これはヨハネの福音書では特に多く用いられている語である。前置詞のen とともに用いられて~の内に留まる というのが原意である。新共同訳では「つながる」と訳されているが、「つながる」だと直線的で「霊的に内にある」というニュアンスが出てこない。英語訳では remain in あるいは、abide in と訳される。
霊的な主イエスの内にとどまりなさい。そうすれば、わたしもあなたがたの内に留まっている、という意味である。
この「メノー」という語は、マタイの福音書では三回、ルカでは二回、マルコでは七回、パウロの書簡では一回しか使われていないが、ヨハネの福音書では38回、ヨハネの手紙では26回も使われている。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書はイエスの言動を記す書であるが、最後に書かれたヨハネの福音書は他の福音書とはかなり違って、さまざまの出来事を記す文や一つ一つの言葉に表面的には分からない意味が隠されていることが多い。いわば、イエスの言動を霊的に表現しなおしているということができる。
「留まる」(メノー)という語は、ヨハネ福音書とヨハネの手紙では64回も使われているが、ヨハネ福音書の十五章で一番使われている。そして新共同訳でも、この語は、何通りかに訳されていて5節では「つながる」、7節で「いつもある」、9節で「とどまる」と三通りの言葉で訳されている。これらは全て原語は同じである。
「イエスの内にとどまって」仕事をする、運転をする、御言葉のことを思う、どんなときでも絶えず頭に置いておく。主イエスの内にとどまろうとするには、理性的に意志をもってする必要がある。そうでないと、とどまれない。
漠然と空を見ていても何も感じない。しかしそこに神の愛に関わる何か、主イエスとの関わりの何かが込められているんだと、信仰と意志をもって見つめるとき、何かよきもの、真理に関わることを感じ取ることが出来る。
いつも自分の意志を働かせ、いつも思いを込めて、主イエスとのかかわりの中で物事を思うということは、主イエスの内におるということである。だから苦しい出来事があっても、悪い人と出会っても、それもイエスの内にいるための天より与えられた訓練なのだと受け取るとき、確かにプラスになる何かを与えられる。
そうした訓練は、気の合う友人、良い人とばかり会っていたら、与えられないし、従って鍛えられることもない。
必要なことはただ一つ。しっかり主イエスにとどまっていたら、あとは主がなさるという基本的な考えがある。このような講話でも準備のときに考えたり、祈ったりするわけだが、講話が他の人の心にどう入っていくのかということは、神がしてくださることである。
大事なことは神がしてくださるというのは、非常に古い時代から言われている。
…モーセたちは山の上に登った。モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になった。(出エジプト記十七・11)
三千数百年も古い時代の話だが、この記事は何を暗示しているのであろうか。手を挙げることは祈りのシンボルで、神とつながっているということである。祈りの手を上げているときには神が働いて下さって敵との戦いに勝利し、祈りの手を下ろしているときには、敵の力が優勢になったというのである。
今のわたしたちでも主イエスにつながっている、言いかえると心の手を挙げることによって神が働いてくださる。モーセは先頭に立って敵陣と戦ったのではなく、祈りの手をしっかり挙げ、神と結びついている状態を保つことによって勝利を与えられたのである。
現代の私たちにおいても、どのようなことに関わる場合でも、心の手を神に向かって挙げていれば 、 言いかえると、主の内に留まり、主が働いて下さることを祈りつつ、そこで主が語りかけることに耳を傾けること、その姿勢があれば、神はなすべきことを示して下さるし、そのための力をも与えて下さる。
普通はスポーツなどに典型的に現れているが、結果など外的なことが重視される。しかし主イエスは、私たちがこの世から認められて、何らかの賞をもらうとかいうこととは関係なく、いつも共にいて下さる。そして愛のまなざしで見つめてくださり、新たな力を与えてくださる。
この世のさまざまの困難な問題、それは、主が語ることではなく、人間的な声に耳を傾けそれに聞いて従ってしまうというところに原因がある。それは聖書の最初の創世記に、アダムとエバが神の語りかけに従わず、蛇で象徴されるサタンの声に聞いてしまったということ、それはこの問題を早くも前面に出していることなのである。
人間の根本問題はこの単純なことをどれほど真剣に守ろうとするかどうかにかかっている。
必要なことはただ一つ、それは主が語ることに耳を傾けることである。