一本の杖
朝の山道で、私の目の前、足元にマムシが現れた。そういうことのために杖をもっていたので、その杖で一撃で倒すことができた。ただの木切れにすぎないものでも、マムシを撃退することができる。
時と状況によっては、このように何でもないものが大きなはたらきをする。
私たちは、一本の木切れのようなもの、土の器のようなものであり、すぐに折れてしまったり壊れてしまうものである。
そのような私たちでも、神が必要とされる。神は愛の神、真実な神であるから、無駄なものは作らない。
主イエスは、小さなロバの子に乗ってエルサレムに入られた。それはどんな小さなもの、見すぼらしいものでも主は積極的に用いられるということを暗示している。
私たちの心の旅路においてもしばしばこのような毒をもったものが前途に現れる。それは最も身近な自分の体に難しい病気が生じたり、また家庭や職場、あるいはキリスト教の集会、教会などにおいても、悪意が入りこみ深刻な対立が生じて深い傷を与えるものとなってしまうこともある。
そうした毒のあるものに苦しめられようとするとき、私たちにとって一本の杖に相当するもの、それは神の言葉である。
主イエスが、伝道の最初に受けた荒野での試みはそうしたことを象徴的に表すものである。私たちが受けるあらゆる災い、苦難、悩み、悲しみはすべて一種の荒野の試みである。そうしたときに、私たちは対抗するものを自分でもっていないと思われるほどに無力なことを思い知らされる。
しかし、そのようなとき、主イエスは神の言葉によってサタンの力を撃退された。マムシの毒牙を滅ぼすのに一本の杖で足りたように、あらゆる悪との戦いにあっては、ただ神の言葉だけで足りるのである。
このことは、深い意味を持っている。学識や経験、あるいは人間の助けもときにはよく働くことがある。
しかし、そのようないかなるものも助けにならないことも多い。深刻な悩みほどにそうである。死の近づくとき、さまざまの暗い誘惑が私たちを打ち倒そうとするであろう。そのようなとき私たちは、聖書そのものにある、「主よ、憐れんで下さい!
私を思いだして下さい!」という簡潔な祈り、必死の祈りによって守られるであろう。
パウロも、死ぬと思われるほどの苦難にあって、復活をさせて下さる神の力に頼る気持ちになったことを書いている。それは言いかえると、信じるものは滅びることがない、復活するというみ言葉を思いだしてそれにすがったということなのである。
聖書の神の言葉、すなわち永遠に力ある真実な言葉であるにもかかわらず、それを人間の考察や研究といったものでその力を分断するようなこともよくある。自分が神の言葉によって打ち砕かれ、それに従っていかねばならないのに、逆に人間的な考えで神の言葉を調理するような姿勢がしばしば見られる。そうすることによって、聖書、神の言葉そのものに対する不信感が生まれ、み言葉を聞いてもそれは本当なのか、といった疑問などが生じてみ言葉から力を受けるということが失せていく。そして信仰も動揺していく。
このようなことが起こらないためにも、主イエスは、「幼な子のような子でなくては、神の国を見ることはできない。入ることができない」と言われたのであった。
神の言葉が、私たちにとってつねにサタン的なものから私たちを守る杖であり、また導きであり、力であるために、幼な子のような真っ直ぐに主イエスを見つめ、み言葉を受け取っていくものでありたいと思う。