ダンテ 神曲・煉獄篇第十六歌 ― 怒りの罪の清め
神曲は、今から七百年ほど昔に書かれた地獄、煉獄、天国の三つの部分から構成されている雄大な作品である。人間世界の深い暗闇から清めの苦悩と歩み、そして導かれて天の国へと達するまでのさまざまの魂の風景が描かれている。当時の社会の状況が随所に書かれてあり、導かれていく最終的な天の国を見つめつつ、同時に現実の姿を深い洞察をもって記したものである。
見慣れない人名や地名、また現代の人間にはなじめないような表現などいろいろと壁があるが、その壁の向こうにある世界を少しでも学びとりたいと思う。
それによって、この混沌たる世界に埋もれようとする心を少しでも引き上げ、「恵みの高き嶺」へと少しずつでも上ることができるであろう。
煉獄は、南半球の海のなかにそびえる山として設定されている。頂上部は平らな地上楽園となっている。この山には、山を取り巻く七つの環状の道がある。そこで地上で犯した罪の性質によって苦しみを受け、同時にさまざまの方法によって清めを受けていく。
その道を歩むときは、理性の象徴たるウェルギリウスに導かれ、上の環状の道に上るときには、天使にも導かれ、少しずつ上へと登っていく。
ここで内容の概略を記す第十六歌は、怒りの罪を清める人たちがいるところである。
それは全くの闇、煙のたちこめるなかであった。それは地獄の闇も、また雲にすっかり覆われて星一つ見えない夜空であってもこれほどではなかった。粗雑な毛皮のようにダンテとウェルギリウスを包み込んで目を開けていられない状態であった。
このような状況は、怒りがいかに見えなくするかということを表すものであった。怒りの感情はときには非常に激しく、人間がまったく別のようになってしまう。そして何も見えなくなり、分からなくなるからふだんは口にしないような暴言を吐いたり、別人のように荒々しくなる。怒りの感情は、動物にもある。犬など身近にその怒りを表情や吠え方によって我々は知っている。可愛いペットが荒々しく危険なものとなる。人間もその点では同様である。
侮辱されたということへの怒りから、何も分からなくなって、理性的に考えたら非常に愚かなことをしてしまう。
日本の時代劇でとくに有名なものの一つ、忠臣蔵がある。これなども浅野内匠頭が江戸城の松の廊下で刀を抜いて吉良上野介に切りつけたことが発端だが、これも侮辱されて激しい怒りで何も分からなくなったからである。もし彼がそうした侮辱を受けても怒ることなく忍耐すれば、多くの人たちが苦しまなくてもよかったのである。
激しい人間的な怒りは、人間を動物にしてしまう。人間と動物の違いの一つは理性的に判断できるかどうかということである。怒りはそのような理性をなくさせる。
ダンテは、怒りを罰せられるその暗闇のなかで、ウェルギリウスの肩につかまり、寄り添って歩いていった。それはウェルギリウスとは、理性の象徴であり、怒りの闇に巻き込まれないで進むには、理性の導きが必要だったからである。
煙に満ちた汚れた大気のなかをダンテたちは進んだ。
そのような中から、聞こえたのが「神の小羊」の祈りであった。それらはみな、罪を清める「神の小羊」たるイエスに向かって、
平和と憐れみを祈るようであった。
…それらの祈りの冒頭はつねに「神の小羊」で始まり
すべての魂のとなえる言葉は同じで
抑揚も等しく、祈っている声には、おのおのの間に調和があった。(煉獄篇十六・13〜20)
そのような闇のなかから、そこで怒りの罪を清められている者たちの祈りが聞こえてきた。それは、「神の小羊」という内容であった。
これは、次のような内容である。(ラテン語)
Agnus Dei,qui tollis peccata mundi, miserere nobis.
Agnus Dei,qui tollis peccata mundi,dona nobis pacem.
・右の読み方と意味…世の罪を取り除く神の小羊、私たちを憐れんで下さい。読みと意味…アーグヌス(小羊) デイー(神の) クィ(〜するところの) トルリス(除く) ペクカータ(罪) ムンディ(世) ミセレーレ(憐れむ) ノービース(私たちを)
・dona nobis pacem.…私たちに平和を与えて下さい。 ドーナー(与えて下さい) ノービース(私たちに) パーケム(平和を) ただし、教会ラテン語では、パーチェムと発音する。
罪を清めるための方法として、罰としての苦しみを受けること、それに加えるに祈りがある。
この祈りによって、彼らは、怒りの罪を清め、彼らが天に上るのを妨げ、地上に結びつける結び目を解いているのであった。祈りは地上と結びつけられた鎖から解き放つ力がある。
そのような祈りは、おのずから歌のように繰り返されていく。それは通俗的な歌のように楽しいから歌うのではない。それは深い祈りであり、その祈りがずっと繰り返しなされるゆえに、一つの歌のようになっていく。
すでに煉獄篇十二歌においても、第一の環状の道から第二段目の道へと登っていくときには、「ああ、幸いだ、心の貧しい人たちは!」という、たとえようもないうるわしい賛美が聞こえてきたとある。
(煉獄篇12歌 10〜11行)
祈りと神への賛歌が煉獄における清めに、大きいはたらきをしている。
これは数千年昔の聖書の民の場合も、現代の私たちにとっても同様である。聖書の詩編は、とくに個人的な祈り、生きるか死ぬかという苦しみのなかから、神に必死に叫び祈ることが多く記されている。また神のわざへの感謝の祈りもゆたかに含まれている。そしてそれらは、実際に歌われていた賛美でもあり、歌詞集でもある。
怒りの罪を清めるためのこの祈りの賛美は、つねにそのはじめが、原文では「小羊 神の Agnus Dei」となっている。すなわち、小羊、という言葉が第一に置かれているとダンテは記している。(*)
(*)英語など外国語でも、Lamb of God と小羊が第一に来るが、日本語訳にすると、「罪を取り除く神の小羊」というように、後になる。
怒りの罪を犯して滅びていった人たちは、地獄篇で現れる。地獄篇第七歌において、彼らは、互いに、怒って手で殴り合い、頭や胸でぶつかり合い、脚で蹴り、相手を歯で食いちぎろうとするすさまじい光景が記されている。これは怒りが互いに他を害しあうことを示すものとなっている。
地獄では、そうした分裂と争いを繰り返しているが、煉獄では、同じ怒りの罪によって裁きを受けている者であるが全く異なる状況であるのが分る。
「祈っている人々の言葉も抑揚も同じで、しかもそれぞれの声には調和があった」
これは、怒りではげしく分裂して争う状態といかにかけはなれていることだろう。
人々は、神の小羊たるイエスに向かって心を一つにし、声を一つにして祈っていたということである。
人が自分たちの罪を深く知らされ、キリストに向かうときには、おのずから一つにされて、赦しを求め、清めを求める単純な願いとなっていく。
煉獄にいるということは、死ぬ前に悔い改め、罪赦された魂たちである。そこで清めを受けるためには、神に向かって心を一つにすることがいかに重要であるかを知らされる。
現代の私たちもまた、怒りだけでなくさまざまの罪によって地上に鎖で結びつけられたようになっている。その鎖は、キリストの十字架によって断ち切られたのであるが、なお、しばしば再びそのような鎖に結びつけられ地上から上がれない苦しみを持っている。
そうしたとき、私たちもまた祈りによって、主よ憐れんで下さい、主の平安を与えて下さいという単純な祈りによって、また祈りのこもった賛美によってその鎖を解き放つことができるようになる。
このような暗い煙のなかで出会った人マルコがいる。ダンテは彼に大きな疑問となっていたことを尋ねる。
それは、この世が悪に覆われているがその原因はどこにあるのか、ということだった。当時の人たちにとっては、太陽や星というものの正体は分かっておらず、永遠に輝く星たちはまさに見える神々のように思われていた。光輝いていて、太陽も月も美しい円形をしている。地上の物体ならば必ず落ちてくるのに、それらは落ちてくることがない。
そのために、この世の混乱や悪の原因をそうした神的な星々に帰する人たちが多くいた。しかし、他方人間に原因があるとする人たちがいた。そのいずれが正しいのかという疑問であった。
星々に原因があるということは、人間にはどうすることもできない運命のようなものを指している。人間を超えたところで決まっているというのだ。自由意志などというものはないということになる。
たしかに人間の意志を超えたところで、私たちの人生を大きく決定することはしばしば見られる。例えば、大罪を犯した犯罪人の子どもとして生まれたなら、子どものときから周囲の目は冷たく、また決して落ち着いた豊かな家庭もなく、生活もないだろう。そうした生まれの問題は自由な意志ではどうにもならないところがある。
それを当時の人たちは、星々によってそのように生まれさせられたのだと受け取っていた人たちが相当いたということである。
現代においても、例えば今述べた生まれたときの国や民族、また家庭状況、戦争とか飢饉あるいは貧困や差別の時代に生まれるならば、後々まで大きな影響を受けていく。それは確かに幼い魂に大きな方向性を与えることになる。
このような意味において、当時は人間を超えた霊的なものとみなされていた星たちが最初の方向のきっかけを与えると考えられたのもうなずける。
だが、人間にはそのようなものと別の自由な意志が与えられている。はじめは、星々の力にたとえられた運命のような力と対決して戦わねばならない。それゆえ大きな苦しみも生じる。しかし、それは自由な意志によって打ち勝っていくことができる。人間はもっと大きい力に属するものなのである。
神が星々の力―運命のようなものに勝利するための力を人に与えている。
それゆえに、現在の世の中が堕落して混乱した状況になっているのは、外の星々(現代の我々にとっては、環境や遺伝、生まれつきの性格、能力のようなもの)によるのでなく、人の心の中に原因がある。神の力を受けて働かせようとしていないことこそ、心の根本問題であり、それを求めようとしない人間の心に原因がある。
次に現実の社会の腐敗はどうしてなのか。それは、右に述べたことが広く社会に及んでいるからであるが、もっと直接的な原因がある。それは、ローマの教皇たちの腐敗である。
人間は生まれたままで自由にしておかれると楽しみを求め、間違った方向へと進んでいく。そのために手綱がいる。それが法律である。そしてその法律を適切に運営する政治のトップとしての皇帝に正しい者がいない。霊的な指導者としてのローマ教皇が、政治的な権力である皇帝の力を滅ぼしてその権力を取り込んだりすればよいことが生じるはずがない。
こうしたことは、霊的な指導者であるべき教皇が、この世の富や権力に強い関心を持ったがゆえに、その腐敗が人々全体に及んだのである。個々の人の悪が原因というより、指導者の罪が大きな原因なのだ。
そのことを、教皇は「反芻はできるが、割れたひづめを持っていない」(*)と、表現し、ダンテがそうした姿勢を批判している。(98〜99行)
(*)旧約聖書のレビ記十一章に、「あなた方の食べてよい生き物は、ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反すうするものである。」という記述がある。ダンテはこのことを比喩的な意味で用いている。
これは、教皇は聖書に通じてその研究や瞑想はしているが、真の善悪の判断ができない、ということを意味している。それゆえに、人々は自分たちの指導者である教皇が、地上の富を求めているのを見て、天の国の富を捨ておいて地上の富を求めるようになってしまったのだ。
現在の状況にこのことをあてはめることができる。キリスト教に関する学問や知識は増え広がっている。しかし、弱き者、苦しむ者、また社会的には小さき者たちへの愛は増え広がっているだろうか。
新約聖書にも、神への愛と隣人への愛こそが最も重要であると明言されており、使徒の代表的な人物であるパウロも、割礼などの形式的なことでなく、目には見えない「愛によってはたらく信仰」こそが最も重要だと言っているが、いつのまにか、それ以外のこと、例えば宗教的な儀式を信仰以上に重んじて救いの条件としたり、無学な人や難しい本を読んでいない人たちを念頭に置かない学術的な研究や、そうした議論や講義が重んじられる傾向が強い。
これも、「反芻はできるが、割れたひづめを持っていない」ということを思い起こさせる。
それを読んで本当に苦しんでいる人、闇にいる人が救いへと近づけるのか、そうした人たちへの愛によって書かれ、語られているだろうかと疑問になるようなものも多くある。
全国集会などの聖書講義と称するものにも、一体どのような人たちを念頭において語っているのだろうかと思われることも多かった。
日本において、本当の神を知り、キリストによる赦しを受けているのは一%にも満たないきわめて少数である。そうした状況にあって、必要なのは、まず一般の人たちが、聞いたり、読んだりしたときすぐ分るような言葉で、しかも福音のエッセンスが語られ、書かれている書物であり、そうしたみ言葉の説き明かしである。
主イエスご自身は、まず知的にも、家庭的にも恵まれた人たちを相手にするといった姿勢を持ってはおられなかった。弟子たちにしても漁師や徴税人といったごく普通の人たちであったし、イエスが向かわれたのはさまざまの病人や胸をたたいて罪深い私を赦してくださいと祈る人たちであった。サマリアの女やマルタ、マリヤ姉妹などの関わりなどもごく庶民との関わりであった。
この煉獄篇十六歌の終わりに近いところで、ダンテと話した人物マルコが、ローマの教会は、世俗とキリスト教の二つの権力をともに自分のものとしようとした。それが現在の社会の腐敗の原因となったのだと話す。
それを受けてダンテは、「なぜ、レビの子孫がこの世の財産を受け継ぐことから除かれたその理由が明白になった」(132行)と、旧約聖書からの記述を持ち出して同意したのであった。これは次の箇所からである。
…主はアロンに言われた。「あなたはイスラエルの人々の土地のうちに嗣業の土地を持ってはならない。彼らの間にあなたの割り当てはない。
わたしが、イスラエルの人々の中であなたの受けるべき割り当てであり、嗣業である。 (民数記十八・20)
嗣業とは、一般の人には聞き慣れない言葉であるが、旧約聖書では、相続の土地を意味する。祭司をつかさどったレビ部族の人々は、相続する土地を与えられないということなのである。ほかの部族がそれぞれ土地を割り当てられたが、レビの部族は土地は受け継ぐことができないが、神ご自身を土地にかわるものとして受け継ぐのだと言われた。目に見える財産としての土地は与えられないが、神ご自身を与えられるというのである。それはすなわち目に見えない祝福を特別に受け継ぐという約束であった。
ローマ教皇が霊的な賜物だけで満足できず、目にみえる権力や富への欲望をあらわにしたために、社会全体が狂ってきたのだとダンテは言っている。当時は聖書は大多数の人にとっては読めないものであった。印刷術もなかったから、だれでも本を持つなどということは有り得ず、学校へ行けるような人はきわめて少数であった。ふつうの人たちは書物なども持っていないのであるから、大多数の人たちは上に立つ指導者の教えることその言動によって導かれていく状況であった。だからこそ、上に立つ人の腐敗によって大きく影響されたのであり、ダンテはそのことを述べているのである。
こうした自由意志と神の力、宗教的な力と世俗の権力などの問題を話した後、前方に暗い煙を貫いて輝く光が見えてきた。それは天使であった。その天使のかがやきを見て、ダンテと語っていた煉獄にいるマルコは再び煙のたちこめる闇へと帰っていった。それは、彼はまだその闇のなかで十分に清めがなされていないからであった。
煉獄にいるものは、このように清めと罰を兼ねた苦しみを味わっていかねばならないが、ともに一つの声になって祈り賛美することによっていっそうの清めを受ける恵みが与えられている。
現代の私たちにおいても同様である。
煉獄の苦しみは大きくとも、この十六歌の最後に、前方の光の天使が見えてきたように、そのかなたに光が射しているのを実感できる苦しみなのである。私たちも現実のさまざまの苦しみを越えて、道そのものであるイエスを知らされ、光の射す道を与えられている。