イエスの歩まれた道
主イエスが捕えられ、裁判を受ける過程は、激しい嵐のなかで、ただ一人、岩のごとき不動の静けさを持っておられたイエスの姿が浮かんでくる。
イエスは当時の宗教家や政治的指導者たちがそろって彼を糾弾し、神を汚したという最大の罪を犯したとして死刑を要求し、一般の人々もそれに動かされていっせいにイエスを非難している状況に置かれた。
イエスは単にはげしく鞭打たれて苦しめられたというだけでなく、見下され、ののしられ、侮辱されたことが繰り返し記されている。
… さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。
そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。
そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。 (ルカ二二・63〜65)
…ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。 (同二三・11)
…民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」(同二三・35〜39)
人間はだれでも見下されたくない、人から重んじられたい、あるいは人の上に立ちたいという欲求を持っている。職業も家庭やこの世の楽しみなどすべてを捨ててイエスに従った十二人の弟子たちすら、自分たちのなかでだれが一番大きな働きをしているか、といったことで議論したと記されていたり、イエスが王となったときには、自分をその最も高い地位において欲しいというあからさまな要求を出したりしたことが記されている。
こうした欲望は小さな子どものときから、あらゆる状況や年齢を問わず持っている。これは人から見下されるということは、その延長上には、最終的なかたちとして殺されるということがあるゆえに、自分を守ろうとする本能のようなものとして持っている感情だと言えよう。
それゆえに、他者から認められず、見下され、侮辱されるということは深い傷をその魂に受けることが多い。いじめということは、人から侮辱され、見下されることであり、場合によってはそのことで、子どものときから学校にも行けなくなり生涯の方向が狂ってしまったという人も多いのである。
それほど人から侮辱されるということは大きな打撃となる。
イエスが特別に選んで三年間を彼らを導いて霊的に育てた十二人の弟子たちすらも、すべて逃げてしまい、とくに弟子の筆頭格であったペテロすら、三度もイエスなど知らないと激しく主張したほどであった。
このように、イエスが、十字架にかけられる前からこのように繰り返し、周囲のさまざまの立場にある人たちから捨てられ、見下されるという最も耐えがたい侮辱を受けたのであった。
そしてそうしたすべてにまさる侮辱が、重い犯罪人として見せしめに磔とされる罪人と一緒にされてさらしものになって処刑されるということだった。
このようにみてくると、いかに徹底的にイエスは低いところ、見下されたところを歩んだかがうかがえる。
メシアが現れるということは、古くから預言されていた。イザヤ書や詩編など旧約聖書にはキリストの預言とみなされる箇所が多く見られる。
それらの預言では、どのようなお方であると言われてきただろうか。
それらは、神の御計画に従って現れるメシアは、力あり敵を打ち破る王であり(詩編二・7〜9)、神の霊を受け、英知と力を与えられ、弱き人や貧しい人々―圧迫され苦しむ人たちを弁護し正義によって裁きをされる方であるとされている。(イザヤ書九・5)
人々を悪の力から救い出し、王として支配されるというのはだれにでも分かりやすいメシアの姿である。そのような力強いお方だからこそ、救い出すことができるからである。
イスラエルの預言者は、イエスが生まれる七〇〇年ほども昔からその出現を預言していた。そうしたはるかな昔から神は将来現れるべきメシア(救い主)を指し示したのであった。
イザヤ書では、そのような預言はつぎのように記されている。
…ひとりのみどりご(*)がわたしたちのために生まれた。… 権威が彼の肩にある。
その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。
(イザヤ九・5)
(*)新芽の緑のように若々しい児の意、幼児。赤ん坊。
この預言においては、現れるメシアは、力と権威、そして平和を持っておられる永遠の存在だとされている。単なる偉大な人間というのでなく人間を超えた存在だと暗示されている。
また、次の預言もなされている。
…エッサイ(*)の株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。
彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。…
弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。…
正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる。(イザヤ書十一・1〜5)
(*)エッサイとは、後に王となったダビデの父。
ここで言われているのは、救い主、メシアの特性とは、神の本質である神の霊が注がれていて、それは英知に満ちた霊であり、同時に正義に満ちたお方で、とくに弱い人圧迫された人を正しく弁護するということである。
生まれつき正義感が強いというのでなく、神の霊が注がれているからこそ英知と正義を行う存在だということが強調されている。
さらに、エレミヤ書にもメシアの預言がある。
…見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。
王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。
彼の代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの正義」と呼ばれる。(エレミヤ書二三・5〜6)
ここでも、メシアは、正義の存在として預言されている。
こうしたイザヤ書における預言は、さらに深められて次のような内容となっていく。
…見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々に正義をもたらす。
彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、真実によって正義をもたらす。(イザヤ四二・1〜3)
この預言においては、現れるべきメシアの特質として、先にあげたことと同様に神の霊が注がれるお方であることがまずあげられ、そこから正義、公正なさばきを世界の国々、あらゆる人々にもたらす存在であるとされている。そしてそのような正義の存在であるにとどまることなく、それは、傷ついた葦や消えようとするともしびにたとえられているような弱い人、滅びかかっているような人を救う方である。
このように、弱き立場の人をとくに顧みる愛の存在こそがメシアであると預言されている。
以上のように、旧約聖書でいろいろな箇所で言われているメシアの姿は、神の霊を受けていること、言い換えると目には見えない神ご自身の本質を受けているということであり、正義の神であって、この世のあらゆる不正に対して正しい裁きをなされるお方である。そして弱い者を顧みる憐れみのお方であるといったことが繰り返し言われているのが分る。
このようなメシアの存在は大きな希望の的となる。この世の不正や武力に悩まされてきた人間、弱い者はそのまま踏みつけられてしまうようなこの世にあって、それは闇の中に輝く光として待ち望まれた。
このようなメシアの姿は繰り返し記されてきたゆえに、人々にとってもなじみのあるものであった。
しかし、イザヤ書五二章の終わりの部分から五三章にかけての内容は、これまで引用してきたメシアの出現についての預言とは全く異なる姿が示されている。
それは驚くべきことに、王として悪人たちを滅ぼしたり、異民族を征服したりするような力あるものでなく、逆に踏みつけられ、悪の力によって捕らえられ、あざけられ捨てられて殺されるというのである。いかにして、それまでの輝かしい神と同質と思われるような力あるメシアと同じものだと受け取ることができようか。
それゆえに、この預言の最初の部分で、次のように言われている。
…彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない。
それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見、一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。
わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。(イザヤ書五二・14〜五三・1より)
七〇〇年以上も昔からこの世のあらゆる混乱や闇にもかかわらず、正義と憐れみのメシアが現れるということが明確に啓示されたということ自体も大いなる奇跡である。しかし、それ以上に、このようなみじめな生涯をおくることになる人が人類の救い主、メシアとなるというような預言がなされることが奇跡である。
イザヤ書のこの箇所で、「だれも語らなかったことを見、
一度も聞かされなかったことを悟った」
とある。旧約聖書には人間も含めた万物の創造のこと、きわめて多方面にわたることが記されている。それにもかかわらず、「だれも語らなかったことであり、だれも聞いたことのない」内容であった。そして「私たちの聞いたことを、だれが信じ得ようか」と言われている。
これは、聖書の民、神が特別に創造された民にとっても全く予想もできないことであり、そのようなメシアの姿は想像もできないことだったのを示している。
それほどここに言われていることは昔からの信仰の篤い人であっても、全く知らないことであった。だから神を信じることもしない一般の人々にとってはなおさらこのようなことがあろうとは考えることもしなかったのである。
主イエスが、捕らえられ、十字架につけられるとき、ひどくののしられ、侮辱され、茨の冠をかぶせられ、つばをはきかけられ、鞭打たれた。極刑となるほど重罪を犯した悪人からも死の近づくときにさえ侮辱を受けた。
そのようなことは、このイザヤ書の五二章の終わりから五三章にかけての内容がそのまま実現したことであった。そのことを実現するのが神の御計画であった。
しかし、そのような力強い状態とはまったく逆ともいえる捨てられたようになる、輝かしい風格もない、人々から軽蔑され、見捨てられ、神の手によって罰せられたのだと思われてしまう―そのようなメシアが現れるということを、イザヤ書の終わりに近いところで初めてはっきりと記されている。
…彼の姿は損なわれ、人とは見えず
もはや人の子の面影はない。
…この人は主の前に育った。見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
…わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
…苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
このように人々から捨てられ、だれからも理解してもらえず、一人苦しみつつ死んでいった。そんな彼を見て、神から罰せられたからあのようになったのだとまで言われていた。
しかし、後になってその出来事すべての意味が啓示されていった。それはそのように低く卑しめられ、軽蔑を受けて捨てられた者が、驚くべきことに、高く高く、いかなる者よりも高く挙げられたということであった。
立派な人であったにもかかわらず、驚くべきほどに見捨てられ、卑しめられたということも驚くべきことであったが、それとともに、そのように貶められた人間が、いかなる人よりも高いところへと引き上げられたということがさらに驚くべきことなのである。
かれがそこまで高く挙げられたのは、人間の罪を身代わりに背負って、すべての悪意や嘲笑を黙って受けて死んでいったというためであった。
この事実をさきほどのイザヤ書はそれゆえに、繰り返し述べている。
…。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。
彼は不法を働かず
その口に偽りもなかったのに
その墓は神に逆らう者と共にされた。…
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。…
彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。
わたし(神)の僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼はおびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。(イザヤ書五十三章より)
主イエスが周囲の人々からあざけられ、見捨てられ、踏みつけられて十字架で処刑されるという苦難を受けたのは、驚くほどこのイザヤ書の記述をそのままに実現したものとなった。このイザヤ書の部分は、主イエスよりも五五〇年余りも昔に書かれたと言われているが、そのような昔からイエスのことが預言されていたのである。
力あり、英知あり、人から尊ばれるということで大いなる高さにひきあげられるのではない。そのようなものを持っていたにもかかわらず、あえて人からさげすまれ、踏みつけられて殺されるというほどにまで低いところを歩まれ、そこから高く高く引き上げられたということを、イザヤ書もまた福音書も告げている。
はじめにあげた、福音書におけるイエスの記述、繰り返しさまざまの階層の人たちから見捨てられ、嘲笑され、最もひどい侮辱を受けたのは、まさに深遠な神の御計画が実現するためなのであった。
どんな人間でも本能的に持っている、人から認められたい、よく思われたい、という感情をその根源から砕いて、恥ずかしめられるという道を歩んだのがイエスであった。
この主イエスの生き方によって、十字架の死があり、それによって最大の出来事といえる万人の罪のあがないということがなされた。
このようなイエスが歩まれた道を少しでも歩むこと、それは、キリストのゆえに、福音のために苦しめられるということであるが、そのことが祝福の多い道であるゆえに、とくに次のように記されている。
…義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。
あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ福音書 五・10〜12)
「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」(使徒言行録十四・22)
主イエスご自身が私たちを神の国に導き入れるために、多くの苦しみを担って下さった。この世は華々しい活躍や栄誉を求める。
しかし、神は私たちが決して求めようとしない苦しみ、病気や事故、あるいは人間関係の分裂等々、ことに人から捨てられ、見下されるような精神的な苦しみをあえてその道に置かれる。
この世全体も同様である。なぜこんなことが次々と生じるのか、と日毎のニュースに心を曇らせる。しかし、こうしたすべては、神の国への一歩一歩なのである。
この世もまた、神の国に至るには多くの苦しみを通っていかねばならないのだと知らされる。そしてその暗く厳しく見える道は、すでに主イエスによって固く踏みしめられているのである。私は道である、と言われた主イエスこそは、この世のあらゆる苦しみを通って神の国へと導いて下さるお方である。