すべてを教えるもの
先日、名古屋市で開催された青年全国集会において、「信仰とはなにか」ということがテーマとなった。今月号にそのことについて文を掲載した。
しかし、信仰とは何か、ということを議論すればきりがないし、書いても終わることがないであろう。聖書の二千頁にも及ぶ内容は、すべて信仰とは何かということをさまざまの方面から記しているものだからである。
そして、一般的な信仰、民族宗教とか伝統宗教もあれば、仏教やイスラム教もある。そして仏教にも膨大な教典がある。浄土真宗と、日蓮宗、真言宗などでは教典そのものが全く違う。それらもそれぞれ信仰とは何かを説いている。
また、ギリシャ哲学者たちの信仰もある。キリスト教においても、カトリックと東方正教会、プロテスタントでは、それぞれに強調するところが異なるし、違った内容もある。プロテスタントにも多数の教派がある。
このように、信仰とは何かといった議論や説明は、果てしないものがある。そうした説明や議論をしていくならば、一生かかってもそれらを知ることもできず、大きな渦に巻き込まれるようなもので、混乱するばかりとなるだろう。
この錯綜した信仰の世界を浮かびあがらせ、私たちに明確な道を示してくれるものこそ、聖なる霊(聖霊)なのである。
ひとたび聖霊が注がれるときには、ヨハネ福音書で約束されているように、私たちはこうした議論や知識、人間の無限の経験の集大成などにも惑わされず、それらすべてのなかに明確な道がしかれ、永遠に向かって続いているのを見ることができるし、確信を持つことができる。
「私は道であり、真理であり、命である。
…聖霊はあなた方にすべてを教える。」
(ヨハネ福音書十四・6、26)
これらの短い主イエスの言葉と約束はこうした信仰や宗教の複雑きわまりない世界を一挙に交通整理するものなのである。