リストボタン信仰とは何か

誰でも信じている
信じるということは、だれでも無数にしていることである。例えば、今日どこかに行くとして、途中で事故などない、と信じている。空気中に酸素が五分の一で窒素が五分の四あるとか、太陽ができてから四六億年ほどとか、光の速さが秒速三〇万㎞とかそうした私たちが持っている知識というのはほとんどすべて信じていると言える。ほとんどの場合、自分で確認することはできないのである。
もし何らかの実験で確認したといっても、そのときに使った機器類が正確に示していると信じるということをしているし、確認するときの判断に用いた法則なども真理だと信じることが元になっている。科学の法則そのものにしても、それはいつまでも続く真理なのだ、と信じているのであって、そのような法則の有効期限があるのだ、あるときにその法則は変るのだ、あるいは、もう少し変わった法則になっているなどと考えるならば、実験そのものも意味がなくなっていく。
科学者も法則そのものが変るなどと考えていない。しかし、例えば万有引力の法則とかさまざまの自然科学の真理が永遠である、などということを証明することもできない。そうした法則自体に期限があるのかないのか、といったことも科学では判断できない。そうした法則は永遠であると、ただ信じているのである。
ブッシュ元大統領が、イラクに大量破壊兵器があるという情報を信じて戦争を始め、日本の小泉首相もそれをそのまま信じて後押しをした。このような国際的な問題にしても信じるということがいくらでもある。
アメリカの高層ビルが飛行機によって爆破された事件も、いったい何ものがあのようなことをしたのか、アメリカ政府発表を最初は信じた者も、あとから次々に出てきた、不可解なことによって何が本当なのか分からなくなっている側面もある。
宗教的なものにしても、木や石で作った人間や動物その他の像を神と信じて拝む、神社で拝んでいる人たちも、そこになにかがいると漠然と信じて拝んでいる。明治神宮など明治天皇が神となってそこにいるのだということは何の根拠もないが、そのように漠然とあるいは何となく信じている人たちが参拝に行っている。
もし、万事を本当に疑うのなら、例えば、今から乗ろうとする電車やバス、車が途中で事故になるかも知れないと、本気で疑ったらあらゆる交通機関を利用できず、どこへもいけなくなるだろう。毎日の食事ひとつにしても、そこに有毒物質がはいっていると本気で疑ったら食べることさえできない。
私たちの生活はこのように、万事が実は何かを信じてなされているのである。
私たちの都合のよいことはこのように何でも簡単に信じている。たくさんある神社にしても、どれでもそこに何が神とされて祀ってあるのか知らなくとも、そこに何らかの神がいると信じている。
それにもかかわらず、唯一の神、愛の神がいる、ということは日本人では極めて多くの人たちが信じない。
それは、なぜか。あちこちにある神社の神々を信じても、私たちの現実の生活にたいして何も、○○すべきだ、とか裁きがある、などということは言われない。お正月などに行ってただ家族が健康であることなどを願うというようなことが多いと思われるから、そのような神々を信じても、○○すべきだ、という気持にはならない。いたって気楽にいられる。
しかし、唯一の神というと、愛とか正義、裁きがある、それゆえに、隣人を愛せよとか悪いことをしていたら罰せられるとかいう一種の義務とか、○○すべきだという要求がある。多くの日本人が唯一の神、聖書で言われている神を信じようとしない重要な理由のひとつはこのためである。

何を信じるべきなのか

それゆえ、何を信じるのか、ということが重要になる。
自分に何も要求しないもの、罰も裁きもない、ということは正義でもなく、善でもない、悪でもないものを信じることが至るところにある。
何かを信じるときには、このように実にさまざまのものを無意識的に信じているので、それらの中から何を意識的に信じていこうとするかが重要になる。
多くの場合は、最も安易な道、つまり自分に何らかの利益を与えてくれると思うものを信じる。自分中心なのである。しかし、それは正しいあり方でない。
自分という小さな、罪深いものを中心としているのではよいことはそこからは生まれない。
あるいは、国家が強制して何らかの宗教を信じさせようとすることもある。
例えば、日本ではつい六十数年前までは、天皇は現人神であると学校でも社会でも教えていた。それゆえ、そのように信じさせられていた人が大多数であった。
また、ローマ帝国の迫害のときなど、ただの人間にすぎないのに皇帝を神として礼拝せよという命令が出されることもあった。
このように、周囲の人間や伝統や習慣により、またマスコミなどによって何となく信じるようになったり、あるいは国家権力が強制的に信じさせることもある。
私たちは、単なる習慣や権力で押しつけられたものを信じるとかでなく、また特定の民族や国家しか通用しない神々を信じるのでなく、いかなる人にも通用する正義や愛、真実さ、美といったものの存在をこそ、信ずべきなのである。そしてそれらが人間や人間の考えたこと(思想)や目に見えるもののように、変質したり、滅びてしまったりすることがないと信じることである。
このようなことを信じることは、私たちの日々の生活に直接的に大きな影響を及ぼすことになる。
しかし、太陽の寿命が、あと五〇億年ほどだ、といったことを信じても疑っても大して私たちの生活に関係はない。
また、日本ではあちこちにある神社でまつってあるとする神々を信じても信じなくともやはり生活にはほとんど影響を持たない。
しかし、人間を超えた正義や真実、愛があると信じることは、直接さまざまのことに影響してくる。何かをするときでも考えるときでも、そうした正義に反すること、愛に反することであったら、そのような正義の存在から罰を受けるであろうというように導かれる。また、人間の世の中で憎しみや悪が満ちていても、人間を超えたところの愛や真実があるならば、それを求めようという気持になるし、愛が存在するならその愛ゆえに真実に求めるものにはそのようなよきものを下さると信じることにつながる。
そうした、万人に通用し、永遠でもある真理や愛、正義といったものをすべて持っている存在をキリスト教で神として信じるのであり、私たちが信じるべき存在はそのような意味での神なのである。

語りかける神、迫ってくる神

ソクラテスなど、ギリシャの哲学者たちも、ある種の永遠的存在を感じ取っていたことがうかがえる。
しかし、そうした思想家たちの知っていた世界とキリスト教とを決定的に分けるものとなったのは、人間のほうから永遠的なもの、正義の本質を見つめるというだけでなく、その永遠の存在、神から私たち人間に語りかけ、導き、愛を与え、罪を赦すということである。
親しく語りかける神が存在し、どんな貧しい者、弱い者、小さきものであっても、神の方から見つめ、語りかけてくださるということである。それだけではない、神に敵対するような者ですら、神は時至れば、神の方から語りかけ、その敵対するかたくなな心を砕いて神の愛の元へ招き寄せて下さるのである。
これは信じようとしないような者であっても、最高の幸いを与えられることが有りうるということである。キリスト教の最大の使徒といえるパウロは、まさにその例である。パウロはキリストを信じようとしたのではなかった。キリストを求めてもいなかった。それどころか、キリストやキリストを信じる人たちを憎み、撲滅しようと多くの人たちを率いて迫害をしていたのである そのような反対者のところへも神はその愛を注がれる。
哲学のように、知能に恵まれ、時間にもゆとりがあるのでなければ、探求できないのではない。
聖書においては、このように、語りかける神、というのが最初から前面に出ている。まず信じる、ということでなく、まず神が語りかけて下さるということなのである。
今、キリスト教信仰を持っている人たちも振り返ってみるとき、自分が何もないところから求めた、というより、まず親や知人、友人あるいは印刷物、本などから知ったという人たちが非常に多いはずである。それらを神の方から提供してくださったと言えるのである。
私自身も全くキリスト教やキリストを求めたりはしていなかった。一方的に神の方から不思議な導きで、まず、苦しみの余りあてどもなく下宿を出て北山のほうにと向かい、たまたまあった山道を登っていて、山の神秘な奥深い世界を知らされ、さらにたまたまその苦しみのさなかに、ふと姉の書棚のなかの一冊の本を取り出したということから、ギリシャ哲学の世界を知らされ、また大学の北の通りにあるたくさんの古書店によく行っていたがそこでたまたま出会った本でキリスト教を知ったのであった。
それらすべては私の意図でなかった。信じる以前に神が私の前途を備えて下さっていたのだった。
このように、信仰が出発点でなく、神の恵み、神の語りかけや神の働きかけこそが出発点にある。
それゆえに、信仰とは、人間の考えや意図とは別に、私たちに不思議な力をもって迫ってくる何かなのである。それはそのように神の恵みによって信じるようになった、ということであるから、信仰とは確かに導かれ、与えられたものだということになる。
私は、信じようとする意志もなく、信じたいという願いも全くなかったのに、人間を超えたところからある力が迫ってきて、信じるように導かれたのである。

旧約聖書の人物の信仰

旧約聖書においてまず出てくるのは、神への信仰とは人間が選んで始まるのだとは記されていない。聖書において第一に現れるアダムとエバたちは、はじめからすでに神を信じている。というより、神が語りかけたのをはっきり知っている。それは信じるということより存在が自明のこととして書かれているのである。園の真ん中の木の実を食べてはいけない、ということは、信じたのでなく、神からの語りかけの言葉を聞き取ったのである。
また、箱船を作ったノアにおいても、まず神からのはたらきかけ、語りかけがあった。ノアに関する最初の記述は、「ノアは主の好意を得た」(*)ということからはじまっている。
この箇所は、「ノアは、主の目において神の好意を見出した。」というのが、原文の直訳であるから、外国語の訳もたいていそのように訳されている。

*)好意と訳された原語は、ヘーン(chen)で、英語訳では、多くがgrace、またはfavor と訳している。語源的には、ハーナン(chanan)憐れむ、ともつながっている。関根正雄訳では、「ノアはヤハヴェの前に恵みを受ける者となった。」と訳している。

英訳も、 Noah found favor in the eyes of the LORD.といった訳になっているのがほとんどである。ドイツ語訳でも同様の表現となっている。例えば、 Nur Noach fand Gnade in den Augen des Herrn.Einheits Ubersetzung
新共同訳では、「ノアは、主の好意を得た」と訳しているが、 「好意」という訳語は、新約聖書の新共同訳や口語訳では三回しかつかわれていない。旧約でも口語訳では、十一回ほど訳語として使われているだけである。しかし、「恵み」という語は、新共同訳では新約聖書だけで、百三十六回ほど用いられている聖書ではとくに重要な語である。
ノアが見出したのは、好意といった人間的な感情を思わせるニュアンスを持った言葉よりは、「恵み」という聖書全体に深く流れているものを見出したのである。
日本語では、「好意」というのと、「恵み」というのとでは、大きく異なっている。ある人に好意をもっているといえば、それは好きだといった意味になる。しかし、このノアの記事では、神がノアを好きになった、などということは全く意味するものでなく、また、逆にノアが神を好きになったとかいうのでもない。このように、神のまなざしのなかに、自分への愛を見出した、という実感からはじまっているのである。

ノアは人生のあるときに、神のまなざしのなかに、恵みを見出したのである。それは、新約聖書にある、徴税人のザアカイが、イエスのまなざしのなかに、神の愛を見出したのと同様である。それゆえに、ザアカイはイエスへとさらに強く引きつけられ、財産をも惜しまないという気持になったのであった。
まず、信じることがあったのでなく、まず神が目を留めて下さった、神が愛を注いで下さったということに目覚めること、それが信仰の出発点なのである。
新約聖書においても次のように言われているのは、このようなことを指している。

あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。
それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。(エペソ書二・8

愛ということにしても、私たちがまず神を愛したのでなく、まず神が私たちを愛して下さったということに気付くことが最初にある。

わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。(ヨハネ四・19

旧約聖書において、「信仰」という言葉そのものは驚くほど少ない。口語訳や新改訳ではわずかに二回である。それは次のような箇所である。

・門を開いて、信仰を守る正しい国民を入れよ。(イザヤ書二六・2)
・見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。(ハバクク書二・4)

 ここにあげた、「義人は信仰によって生きる」というよく引用される言葉も、「信仰」と訳された原語は、エムーナー(*)であり、アーメーンという祈りの言葉や、エメス(真実)という言葉と語源的には共通した言葉である。

*)このエムーナーは、信仰と訳されることはこの一度だけであって、むしろ例外なのである。この語は、口語訳では、真実(14回)、忠実(5回)、まこと(10回)、忠信(1回)という訳語で分るように、本来の意味は、真実、忠実といった内容をもっている語なのである。(英語では、faithfulnessfirmnesssteadfastnessfidelityなどと訳される)
なお、新共同訳では、この他に次のような詩編の数カ所があるが、それは他の訳では、「真実」と訳されている。
主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え、人の子らの中から信仰のある人は消え去りました。(詩編十二・2

 それゆえ、義人は信仰によって生きる、という表現は、「正しい人は、神に対する真実によって生きる」というのが本来の意味だということになる。
 このように見てくると、今日私たちが信仰という言葉で連想する、特定の宗教団体にはいっているとか、何らかの信仰箇条を信じているということとは大きく異なっているのが分る。
 十字架でキリストが私たちの罪をあがなって下さったと信じている、と言えば(毎日の生活で神やキリストのことを思いだすこともしなくとも)それだけでキリスト者であり、キリスト教信仰をもっているということになる。あるいは、聖書には記されていないことであるが、幼児のときに水の洗礼を受けたらそれだけでクリスチャンだという人たちもいる。
このように、信仰をもっているというのは、ごく表面的なことでも使われる。アメリカ人は80%ほどがキリスト教徒である、というとき、それはどこかの教会に所属しているとか、幼児洗礼を受けて今は教会に行っていない人、あるいは神はいるかいないか、キリストは救い主かどうかと問われるなら、いるとか、救い主だと答える人たちも含めていると考えられる。
このように、信仰をもっているとかキリスト者であるといったことは、その内容がとても不確定で、表面的なものも含んでいる。
しかし、神やキリストへの真実をもって生きている、ということになると、はるかに少なくなるであろう。
そして聖書はまさに、その神への真実を最初から問題にしているのである。

信仰の父と言われるアブラハムにおいて、彼の人生のあるときに、神から「あなたの郷里、親族、仕事などを捨てて、私が示す地へ行け」との言葉を聞き取ったということ、そしてその言葉に従って未知の土地に向かって出発したということ、そこに彼の真実があった。彼に語りかけた神の存在を信じるかどうか、でなく、従っていくかどうかが問われたのである。そしてアブラハムは従った。
その長い旅路、道のりでは千五百キロほどもあると考えられるがそのような長い砂漠地帯を越えて行く途中の生活で彼は何を思っただろうか。未知の土地へと向かっていくこと、もしかしたら何もないかも知れない、本当に自分に語りかけたのはすべてを支配されている神であったのだろうか、約束の地に着いてもすでにそこでは別の民族が住んでいるのだから、どのようにして生活していくのか、また途中で盗賊などに襲われたり、食べ物や水がなくなったりしたらどうなるのか、前から住んでいた郷里の生活を続けていたらよかったのでないか等々いくらでも不安や疑念は浮かんできたであろう。
アブラハムの信仰とは、そうしたすべてを振り切ってただ神の言葉に、神の約束に従っていこうという日々の決断であり、神の言葉をあくまで真実だと信じる姿勢であった。

ギリシャ哲人の信仰
しかし、キリスト教でなくとも、目に見えない真実な存在を見つめて生きた人はいる。日本でも法然や親鸞、日蓮や道元といった人たちがいかに生きたかを調べると、みずからの利得とか栄誉などを全く考えないで、見えざる真理に忠実に生きたすがたがつたわってくる。
また、さらに古く、世界的に大きな影響を与えてきた古代のソクラテスやプラトン、アリストテレスたちも真理に生きたことが多くの著作によって知ることができる。
ギリシャ哲学の代表的人物の一人であり、万学の祖と言われるアリストテレスも、その中心にそのような目に見えない価値あるものの存在を信じ、さらにそれを実感していた。
次に引用するように、目には見えない真実や正義、美といったものを霊的に見ることこそ最高の幸いであるという認識を持っていた。

至福な活動たることにおいて何よりもまさる神のはたらきは、「観ること」(*)にかかわるものでなくてはならない。それゆえ、人間のさまざまの活動のうちでも、やはり最もこれに近いものが、最も幸いな活動だということになる。
(「ニコマコス倫理学」アリストテレス著 第十巻第七~八章)

*)「観ること」という原語は、テオーリア theoria 。これは、テオーレオー (見る、観る)という動詞の名詞形。霊的に観ることであるので、単に「見る」ことと区別するため、観照とか瞑想、観想などと訳され、英語では、 contemplation と訳される。アリストテレスは、ソクラテスやプラトンと同様、この世には真理そのものといったものが存在し、それを霊的に見る、人間に与えられた天的なもの理性を働かせて観ることこそ、究極的な幸いであると知っていた。
聖書においても、主イエスが、「ああ、幸いだ、心の清い者は! その人たちは神を見る。」と言われている。パウロも、人間が神の国にて復活のからだを与えられるときには、顔と顔を合わせて(究極的な存在を)見る、と書いている。


このように、何を信じるのか、ということについてはそこから単にあるかないかをどちらかにして信じておく、といったことにとどまらず、そうした目には見えない実体を見つめ、そこから現実に魂の最も深いところを満たすものを実感していたのである。
このように、正しい、真実なもの、永遠的なものを信じることから、その先へと道は続いていることは、聖書の世界以外でも、一部の特別に真理に引き寄せられたギリシャの哲人たちは知っていた。
ソクラテスは、正義にかなった主張をしたゆえに裁判にかけられ、死刑という厳しいさばきを受けることになった。しかし、逃げることもできたので、そのように親しい人たちからすすめられたが、それを断った。その理由が、哲学的判断でなく、つぎのようなことであった。

 私にはいつも起きる神のお告げというものは、これまでの全生涯を通して、いつもたいへん数多くあらわれて、ごくささいなことについても、私の行おうとしていることが当を得ていない場合には、反対したものなのです。
 ところが、今度、私の身に起こったこと(死刑という判決)は、これこそ災悪の最大なるものと、人が考えるかも知れないことであり、一般にはそう認められていることなのです。その私に対して、朝、家を出てくるときにも、神の例の合図は反対しなかった。また、この法廷にやってきて、この発言台に立とうとしたときにも、反対しなかったし、弁論の途中でも反対しなかった。しかし、他の場合には話しをしていると、それこそ、方々で私の話を途中で差し止めたものなのです。
 このことは、私がこれからしようとしていたことが、何か私のために善いものでなかったなら、どんなにしても起こり得ないことだったのです。
(「ソクラテスの弁明」プラトン著40AC

このように、ソクラテスが無実の罪で訴えられて、死刑の判決が出されてそれを甘んじて受けたのは、哲学的判断でなく、人間を超えたところから聞こえてくる神の声に聞き従ったからであった。
何かまちがったことを言ったりしようとしたときには、必ず内部に不思議なある声があって差し止めたというのである。それが死刑の判決を受けようとした決断に関しては何にも差し止めることをしなかった、それゆえにこの判断は正しかったのだと確信し、死んでいった。
ここには、いのちをかけて目には見えない存在、そこからの声に従おうとする真実がある。それは単にいるかどうか分からない神なるものを信じているというのとは大きくことなっている。
真理のためには、殺されることになっても従うという、ソクラテスの真実な生き方が、弟子のプラトンに大きな影響を及ぼし、膨大な著作を生み出すことにつながり、それがさらにすでに引用したアリストテレスという哲学者をも生み出すことになった。
しかし、こうした真実の生き方と不可分に結びついていた哲学的思索を重ねるということは知的レベルの高い人たちにしか理解できないという大きな限界を持っていた。ソクラテスは、何が真理で、正義とはどういうことなのか、といったことを自分や他人と議論し、吟味し、問答していくことに最大の重きをおいていたから、殺されて死後の世界においても、過去の有名な人たちとそのようなことを議論し、吟味し、理性的に考察することを最大の楽しみとしているとまで言っている。
こうした哲学的議論ができない人たち、またそんな余裕がない人たちはそのような知的議論の世界からは見放されてしまう。これが、ソクラテスやプラトンなどの哲学が世界の思想に大きな影響を与えてきたといえども、現実的には知識人のそのまたごく一部の人にしか愛され、学ばれていない理由ともなっている。
病気や困難な問題で苦しみうめいている人、死の間近な人、食べ物も十分にないような人たちにとって、そのような思索とかはまったく無理なことである。
真理の持つ本質は、普遍性と永遠性であるが、このように、一部の才能ある人たちや時間のある人たちにしか理解できない、ということ自体、普遍性に欠けることなのである。
そのような観点から見るとき、キリストの福音はいかなる人にも及ぶという特質がある。実際、キリストの福音は、現在全世界に及んでいる。訳された言語の数は、二四〇〇にも及ぶ。そして、知的に恵まれていない人であろうと、学者であろうと、また重い罪を犯して死刑にされる直前の人であっても、また文字すら読めないような無学な人であろうと、苦しみのあまり、考えることも読むこともできない重い病人であっても、キリストの福音は受けいれてきた。
そして旧約時代から数千年という長いあいだ、全くその内容を変える必要がなかったのはその永遠性を示すものとなっている。

イエスを神の子だと信じる
新約聖書においては、神を信じることは前提となっている。神を信じるか、信じないかということでなく、イエスを神の子と信じるか否かが問われている。
そのことは、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書や、最後に書かれたヨハネ福音書においても共通している。それは次の箇所を見ると明らかである。

ヨハネの手紙においても、次のように記されている。
・だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。ヨハネ 5:5
・イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。(ヨハネ四・15

ヨハネ福音書においては、最後の結論のところで、つぎのように記されている。

「これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また信じて命を得るためである。」 (ヨハネ二〇31
このように、ここでは、復活とか十字架のあがないとかいう表現を取らず、イエスが神の子メシアであると信じることが究極的目的だと言われている。

イエスに対しては、神ご自身が、これは私の愛する子、と宣言された。ほかのどんな人に対しても神ご自身が、このように言われたことはない。(マルコ福音書一・11
ヘブル書によれば、神の子(御子)とは、単なる人間とか、偉大な人間などとは本質的に異なる存在である。御子とは、世界を創造し、神の栄光を反映し、神の本質の完全な現れであるとされ、さらに、現在も万物を支えておられると記されている。(ヘブル書一・2~3)
これはすなわち、神の子とは、神と等しい存在であるということになる。
ヨハネ福音書においても、ユダヤ人がイエスを非難して言ったのは、「神の子と自称して、自分を神としている」ということであった。この箇所によっても、神の子と言えば、それは自分を神とするということに同じであったのがうかがえる。
また、キリストの使徒のうちで、最大のはたらきをしたといえるパウロの書簡にも次のように記されている。

しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。
これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。(ガラテヤ二・16

次のようにも記されている。

口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者のなかから、復活させられたと信じるなら、あなたは救われる。
主の名を呼び求めるものはだれでも救われる。(ローマの信徒への手紙十・9、13

イエスを主であると信じて告白するとは、イエスを神の子として、すなわち神と同質のお方であると信じることを意味している。「主」という原語 キューリオス kyrios は、旧約聖書のギリシャ語訳では、神(ヤハウエ)の訳語として用いられ、当時のキリスト者たちによって用いられていた聖書(旧約聖書)では、この言葉は、神を表す言葉として受け取られていたのである。それゆえ、ここでも、この世の力、闇の力、滅びの力に打ち勝つ者は、イエスを神の子と信じる者だと言われている。
復活を信じる者とか十字架のあがないを信じる者は救われるという表現ではない。
なぜか。これは、復活や十字架の死によって人類をあがなうということも、イエスが神の子であったからこそできたことなのである。イエスが神の子でない、すなわち普通の人間ならば、自分自身の罪さえぬぐい去ることは決してできないのであり、死によってのみこまれてしまうのであるから、復活したり、万人の罪を赦し、あがなうなどというようなことは全く有り得ないことである。
それゆえ、イエスを神の子である、神と等しい存在であると信じるということは、その死によって万人の罪をあがなったということも、復活という最も重要な真理のすべてを含んでいることなのである。
このように、パウロの書簡やヨハネ福音書、ヘブル書など、多くの新約聖書に含まれる書は、イエスを信じることが救いだということがはっきりと記されている。
とくに新約聖書の中心となっているのは、キリストの十字架における死は、人間の罪を身代わりに担って死なれたのだということである。そのことを使徒パウロもとくに強調している。

すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。(ローマの信徒への手紙三・2225より)

これはキリスト教信仰の中心にあることであるが、日本語訳の表現がわかりにくく、そのために初めて読む人には何となく意味がつたわらないことが多い。「あがない」、「義とされる」、「血によって供え物」などといった表現は、通常の私たちの会話や本や新聞などの身近なものにはまず出てこない。 義とされるなどという表現を日常会話のなかで、一般の人たちが使うことはまず有り得ないことである。
しかし、これはキリストが十字架で血を流して死なれたのは私たちの罪を赦し、あたかも罪をおかさなかったかのように扱って下さるためであったということなのである。罪とは魂の最も深いところの闇の部分であるからそれが除かれ、犯した罪も赦されるのだということは、人間の最も深いところに与えられる幸いを告げているのである。
私がそれまで全く関心のなかったキリスト教信仰を与えられたのは、この箇所の矢内原忠雄の本によるごく短い説明を読んだことによってである。それはわずか数行の説明で足りた。十字架の上からキリストが、「お前の罪は赦されたのだ」と語りかけて下さっているのだ、それを信じるだけでよい。この簡単なことを私は古書店で立ち読みしていたとき、不思議な力が働いて、すぐに信じることができた。それが一生の転換となった。
もし、聖書を与えられて、この箇所を一人で読んだとしてもわかりにくい言葉の連続で何も心に残らず、そのまま読み過ごしていたであろう。適切な聖書の説明が私の一生を変えることにつながったのである。
そのことが、この「いのちの水」誌とかその他の印刷物を作り続けるという最大の動機となって今日に至っている。私の魂の世界を一新させるためには、修業とか愛、善行、教会、水の洗礼を受けるとかそうしたことの一切は必要でなかった。ただ、このローマの信徒に宛てたパウロの手紙の数節を説明した短い文で、キリストが私の罪の赦しのため、人類の罪のあがないのために死んで下さったという単純なことをそのまま信じることによって、私の精神的な革命がなされたのであった。
福音書には、キリストをごく単純に率直に信じて救われた人たちのことがたくさん記されているが、私自身も何も予備知識もキリスト者との交際やすすめなど一切なく、全くの白紙の状態から、キリストの十字架の死による罪の赦しということを単純に信じて受けいれたことから救いを与えられたのである。
それゆえに私は確言できる。単純な信仰によって救いは与えられると。

明確な信仰が記されていない人の救い

しかし、福音書の主イエスの言葉には、そのような明確な信仰を持っていると書かれていない人の救いも記されている。
極度の貧困にあって、金持ちの捨てたような残り物を拾って生きていたようなラザロという人は信仰があったとは記されていないが、死後すぐに神が引き上げたとある。

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。(ルカ十六・1922

このたとえ話しでは、ラザロの信仰については何も記されていないが、彼の極度の貧困と見捨てられた状況だけが分る。そのような状況にあっては、外見も見すぼらしく服も汚れてだれもが顔をそむけるような状態であっただろうし、だれからも重んじられず、無視され、捨てられた状態になっていたと推察される。
しかし、このようなひどい状況にある人を、主イエスは取り上げ、その悲惨な生活を終えたときには、天使が信仰の父とされる大いなる人物アブラハムのところに連れて行ったという。
このたとえは、その人の信仰がどうあろうとも、この地上で著しい苦しみに直面させられている人をも神はそのまま救われるということを暗示していると言えよう。
また、本人の信仰の実体がはっきりとは言われていないが、救いを受けるという約束については、次のような主イエスの言葉もある。

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。
はっきり言っておく。
わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ福音書十・4042より)

キリストの弟子である人に、水一杯をも与えようとする心があれば、必ずそのよき報い、祝福があると確言された。それはキリストを神の子と信じるとか、復活とか十字架によるあがないなどへの信仰がなければ救われないとは言われていないのである。
これはキリストの弟子だからということで、敬意を持っているということは弟子たちが信じるキリストへの敬意があるからであり、ただそれだけでよき報いが与えられると約束されている。よき報いとは救いが暗示されていると受け取ることができる。

以上のように、聖書全体を見るとき、アブラハムのように、また預言者たちが繰り返し神の言葉として命がけで述べたように、神の言われた約束を信じる、神の言葉に聞く、神の導きにゆだねるということで祝福と救いが保証されている。
そして新約聖書には、むずかしい教理などなにも分からなくとも、ただイエスが愛と真実をもった神の子であり、神と同じような力を持っているお方だと信じるだけで救われることを実例で示されたことが福音書にはいろいろと記されている。
そしてさらに本人でなく、友人の信仰によっても本人が罪赦され、救われるということも書かれているし、死の直前に、イエスこそは死を越えて神の国に帰っていかれるお方だと信じて、私を思いだして下さい、と願っただけで救いを保証された重い罪人もある。さらには、最後に触れたように、とくに本人の信仰の有無すらも書かれてなくて、極度の貧困、困窮にあった人が救われるということも記されている。このように、信仰によって救われるということについてもその内容は、広く深いものを含んでいるのである。

私自身の経験

私は神を信じるとかほかの宗教のことも関心がなかった。たださまざまのことで苦しみにあり、生きていくことができないと思うほどに苦しんでいた。そのときに、まず、山という自然の世界が人間を超えた世界を示していることをはっきり知らされ、ついでギリシャ哲学を示され、さらに、キリスト教へと導かれた。それは自分が選んだのではない。関心を持っていたのでもない。
私を超えたところから、一方的に与えられたのである。
はじめは、一方的な神の恵みからはじまり、それをしっかりとつかみ、その後さまざまの分かれ道に立つときに、神を信じてしばしばより困難な道を選び取った。そこに新たな祝福があり、愛と導きの神が実際に存在することを決断と行動によって示されてきた。
まず、大学四年のときにキリスト教を知って、私が所属していた理学部の同級生たちの進む方向から転換し、キリスト教の真理を伝えることを目的に高校の理科教員となった。そして赴任後すぐに勤務高校で放課後に希望者に対して聖書を学ぶ会を始めた。それは次の高校に転勤後も続けていくことができた。そしてそのときにかかわった人たちは現在でも幾人かの人たちが信仰を持ち続け、さらにその人の家族などに及んでいる人もいる。
高校教員をしているとき、その高校始まって以来の大変な暴力で混乱の極みにある夜間高校に勤務したことがあった。同和問題のゆえに、同僚教員、校長、教育委員会すらそのひどい状況を知っていてなお放置しているままであり、生徒同士の暴力、教員への暴力や器物破損などが日常的に行われているというひどい状況であった。
そのときに、それをそのままに従来のようにその荒廃した状況をそのまま黙って受けていくか、それともそのあらゆる点で学校の限度を超えた状況を改革すべく立ち上がるか、そのいずれを選びとるかが大きな問題となった。
実際に生まれて始めてひどい暴力を受けることも何度かあり、そのなかで、決断していったことが、思いもよらない助けが現れたりして、解決へと向かっていった。 そして差別を受けてきた同和地区の人たちも、罪深いことは、人間はみな同じであるが、神の力が働くことでどんな人も変えられていくのだということを実際に体験させていただいた得難い機会として与えられたことであった。
このようなことも、神を信じて決断して始めて、神はすべてをあげて信じることによって働いて下さるということを、他人の言うことを聞いたり、考えたり本を読んで思い込むということでなく、現実のきびしい状況のなかで、体験させていただいたことであった。
また、十五年前に、キリスト教の伝道のための集会を日曜日を含めて週に四回ほどにもなり、教員との両立が次第に困難となって、数年の祈りと熟慮のあとに教員を退職して、み言葉のために専念することになった。
このときも、安定した収入がゼロとなってどうなるか、まったく不明であったが、集会の支え、またいろいろな方々によって支えられて続けていくことができた。
こうしたことも、神を信じて決断し、より困難な道を選びとって始めて分ることである。

このように、信仰の生活ということにおいては、一方的に与えられるということからはじまり、そこから現実の生活においていかに選びとっていくか、という二つの面がある。
二つの道が前にあるとき、神の示される道を選びとっていくとき、そこに祝福があるということはすでに数千年前から旧約聖書にもはっきりと記されている。それは主イエスも「狭き門から入れ。滅びに至る道は広く、救いに至る門は狭く、その道は細い。」(マタイ福音書七・1314より)と言われているとおりである。
その道を歩んでいく過程で、さらに聖霊を与えられ、それによっていっそう信仰とは何か、神の国とは何かといったことが示されていく。
しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。(ヨハネ十六・13


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