苦しみと前進
前進するには推進させる力がいる。ロケットやジェット機などは燃料を燃焼させ、生じた燃焼ガスを噴出させて、その反作用で前進する。プロペラ機はプロペラを回転させて空気を後方に強く押すことにより、その反作用で前進する。自動車はガソリンを燃焼させ、車輪の回転力に変えて、タイヤが地面を後方に押すことによって地面からの反作用で進む。
神は人間を前進させるために神は苦しみを多くの人に味わわせ、推進力とされる。
ベートーベンのあの力強い音楽は、彼が生涯を通して味わわねばならなかった大きな苦しみの中から生み出された。十代の後半で最愛の母を失い、あとはアルコール依存症であった厳しい父によって育てられた。三十歳になるころから激しい耳鳴りで苦しみはじめ、遂に聞こえなくなっていき、その苦しみと絶望のあまり遺書を書いて命を断とうとするところまで追い詰められた。
さらに、親代わりとなって世話をしていた甥のことで散々苦しみ、その甥も自殺未遂をしたりして、重い荷を背負うことになった。しかし、その苦しみの中から、聞こえない耳を持ちつつも、内なる耳に聞くことへと道が開かれ、「彼が書いたピアノの最高の名作であり、また古今のあらゆるピアノ音楽中での最高峰である」とされるピアノソナタ「熱情」や、交響曲第五番「運命」など、歴史的に有名な作品が生み出されていった。
彼も、神を信じて若いころはいろいろな教会に通ったりしたが、のちには司祭につよい不信感を持つようになり、教会にも行かなくなったという。そのため聖書的信仰とは違った独自の解釈も持っていたとも言われているが、多くのキリスト教音楽を生み出したのはその信仰があったからである。
そしてつぎつぎと襲いかかる苦難に耐えるにあたって、彼のキリスト教信仰が大きな支えとなったであろうことは、次に引用する書にある、ベートーベンの次のような言葉からもうかがえる。
「それゆえ、私は心を静めてすべての矛盾を甘受し、永遠のあなたの善なる本質に強い信頼をおくのです。
神よ! わが魂は、変ることなき存在であるあなたによって喜びます。わが岩となって下さい。わが光となり、永遠にわが信頼となって下さい。」(*)
Therefore calmly will I submit myself to all inconsistency and will place
all my confidence in your eternal goodness,
O God! My soul shall rejoice in Thee,immutable Being.
Be my rock,my light,forever my trust!(**)
(*)「大作曲家の信仰と音楽」P.カヴァノー著 67P 吉田幸弘訳 2000年11月発行 教文館
(**) Patrick Kavanaugh THE SPIRITUAL LIVES of GREAT COMPOSERS Sparrow Press 38P
ベートーベンにとって、耐えがたいような苦しみこそは、そこから必死で脱出しようとする強い意志を生み出し、それがこうした力強さという点でほかにみられない名曲を生み出すことになった。彼の経験した多くの苦しみが地上の揺れ動くものへの関心を振り切って、あのような作品の創作へと推進させたのである。
このような特別な才能を持った人において、とくにその苦しみの意義が明らかにされているが、現在の私たちが神の国へと前進するには、なにがそれをさせるのだろうか。
それは、神の生きて働く御手であり、生けるキリストである。また聖なる霊である。使徒たちがキリストの復活と十字架の福音を宣べ伝えることができるようになったのは、聖なる霊を豊かに受けたからであった。
恐怖におびえていた弟子たちは、単にイエスが復活したということを耳にしただけでは、前進する力はなかった。イエスとともに三年間もあらゆる奇跡を見たり、教えを直接に聞き続けてもなお、イエスが捕らえられたときには、みんな逃げてしまい、イエスなど全く知らないといったペテロのように力は与えられていなかった。
しかし、そのような無力な弟子、無に等しいような者を強力に前身させる力は、聖なる霊が与えたのであった。
そして、その聖なる霊がさらに力強く働くために、神は信じる者にプラスアルファというべきものを与えられる。
それが苦しみである。苦しみから何とかして脱したいと強く願う。苦しみや悲しみが強く深いほど、必死になってそこから逃れようとする。
神を知らないときには、その苦しみから逃れていく方向が分からないから、絶望したり酒や遊びなどで一時的に忘れようとすることもある。
一度神を知らされたときには、神に向かって叫び、その方向にむかって何とか進もうとする。
…(パウロとバルナバは)弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。(使徒言行録十四・22)
パウロは、絶えず神を信じて福音を伝えるために働いた特別な人であった。しかし、彼のような人であっても、本当に神に頼るように全身をあげて信じるようになったのは、非常な苦しみに陥ったときであった。
…兄弟たち。わたしたちがアジア州で会った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまった。
そのため、心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった、また救い出して下さるであろう。わたしたちは、神が今後も救い出して下さると神に希望をかけている。(Ⅱコリント一・8~10)
死者をも復活させる力を持つ神に全面的に頼ろうとする心が生まれるには、パウロのような聖霊豊かな人であっても、なお苦しみを必要とした。大いなる苦しみが彼をして、死にも打ち勝つ神へと向かっていくための推進力となったのであった。
私たちのキリスト集会にもさまざまの苦しみを日々負っておられる方々がいる。また表面的には苦しい問題など持っていないと思われるような人であっても、そのなかにどのような苦しい問題を抱えているかはだれも分からない。
当事者にとって、それが解決したらどんなにいいだろう、と思われるような重い問題をそれぞれが持っているであろう。しかし、その重荷や苦しみがあるからこそ、いろいろな犠牲をはらって集会へと足を運び、み言葉に触れ、生けるキリストに出会おうとして礼拝集会に参加していると言えよう。
主イエスの十字架上での想像を絶する苦しみこそは、無数の人たちの罪を赦し、あがない、そして今もなお、神の国へと前進させる最大の推進力となっているのである。