神曲 煉獄篇 十七歌
怒りの罪の清め(続き)
ダンテは、ウェルギリウスと共にようやく、濃い霧に包まれた場所から出ることができた。怒りという罪が受ける罰と清めは、前方が全く見えない厚い霧状のもので苦しめられることであった。沈みかけた夕日が深い霧が薄れたところに見えてきた。その光に向かってダンテは、導きをするウェルギリウスとともに歩んで行った。その際、ダンテはウェルギリウスの一歩一歩に歩調を合わせてついて行った。このようなことがとくに記されているのは、何も見えない苦しみから逃れるには、理性の象徴たるウェルギリウスに忠実に従っていくことが必要だと言われているのである。ダンテが自分の歩みで深い霧から出て行けないのである。
ここでも、人間の意志や努力では越えることができないときには、他者の導きによってそれができるということが込められている。その導きをする存在とは、生きている人間である場合もある。またすでに地上にはいない人で著作物となった人、あるいは自然の樹木や野草、山々や海、川などさまざまのもの、また事故や大きな病気によって暗い闇に包まれたところから脱出することができたという人たちも多いであろう。
だが、やはり多くの人にとって決定的な導きは、人間によって与えられている。生きた人によって直接に導かれることがあればそれは大きな恵みであるが、その人間がいま生きていなくとも、書物というかたちでその人間の本質が残され、その書物によって導かれることは実に多い。
私自身もキリスト教信仰は、生きた人間によってはまったくだれからも何一つ暗示されることも誘われることもなかったが、すでにそのときには地上にはいない人の書物によってキリスト教へと導かれたのであったし、それ以前にソクラテスやプラトンといった哲学に導かれたのもまた、一人の思想家の著書であり、プラトンの著作から初めて哲学的思考とは何かを深く教えられ導かれたのであった。
ようやくダンテが厚い霧から出ると、そこから煉獄の山の頂上だけを照らして、ふもとの海辺のほうは暗くなっていた。そのとき、ダンテは、怒りによって大きな罪を犯した人たちの姿がありありと見えてきた。それは、周囲でどんな大きな音がしてもそちらに引っ張られないほどの強い力でその人たちの姿やそこでの言動が浮かんできたのである。
「ああ、想像の力よ!」(O imaginativa…)とダンテは、自分をそうした深い世界へと引き込む想像の力の驚くべき性質について思わず語らずにはいられなかった。(13行)
幾千ものトランペットが鳴り響いても、それに気付かずにおらせるほどの想像の力! 一般の人間にはそのような強力な力を体験することはできないだろう。しかし、人によっては、とくにこの想像力の賜物を豊かに与えられている人がいる。(*)
(*)ここを河出書房の訳は「空想」と訳しているが、原語をみればわかるように、ここは、英語でいえばimagination (想像)の力を述べているのであって、空想ではない。空想とは、現実離れしたことを思い浮かべることであるが、想像というと、現実の苦しみや喜び、できごと、あるいは未来に生じることなどをありありと思い浮かべることも含むのであってより広い意味を持っている。英語訳でも数種を参照したがすべて、imagination (想像)と訳されている。日本語訳でも、岩波文庫の山川訳、寿岳文章や生田長江訳も同様である。
私たちにとっても、他人の苦しみや悲しみをありありと思い浮かべる想像の能力はとても重要である。それは、神の御手がそこに加わるとき単なる想像でなく、他者の悲しみや苦しみを実感するほどになるであろう。エレミヤ書などには、人々が神に背いていったその行き着く先にはどのような破滅が待っているか、神殿や町々の崩壊、人々の叫びや悲しみなど、それを現実のものとしてありありと見、聞くことができたほどに想像は迫真の力を持って迫るものであった。
…ああ、わが腸よ、私はうめく。
わが心臓の壁よ、わが胸は高鳴り、私は黙することができない。
わが魂よ、お前は今、ラッパの音と、戦のさけびを聞く。
町の破壊が次々と知らされ、この国はみな荒らされる…(エレミヤ書四・19~20より)
このようにエレミヤはまだ現実には起きていない破壊と多くのひとたちの滅びゆく状況を、目の当たりにしたのである。それほど想像の力、そこに神の御手がのぞむときには強力なものとなる。
ダンテがここで特に想像の力の驚くべき本質について触れているのも、彼の畢生の大作である神曲は、そうした深い神の御手の触れた想像の力によって書かれたものだからである。
そのダンテの想像の世界に現れたものは、怒りによって生じた重い罪と裁きに関する内容が、ギリシャ神話から二つ、聖書から一つあった。ギリシャの一つは、ある王妃を欺いた王を取り巻く人たちに関するもので、王が、王妃の妹を取返しのつかない不幸に陥れたのを知って、王妃はその欺きを怒り彼女もまた大きな罪を犯してしまう、という内容である。(19~39行)
次の聖書の例は、旧約聖書のエステル記にある内容で、ペルシャの高官が自分に敬意をはらわない一人のユダヤ人に怒り、彼を磔の刑罰にしようとした。それだけでなく、その一人への憎しみのためにユダヤ人全体を滅ぼそうと策略を立てた。しかし、神の導きによってかえってその高官の悪意が暴露され、その高官自身が王によって磔とされた。
もう一つの例は、やはりギリシャ神話からのもので、ラティウムの王の娘ラヴィーナには婚約者がいたが、王妃はその婚約者が死んだと思い込み、そのときには、アエネアスという別の男と結婚することになることを非常に怒り、みずから命を断った。
このアエネアスは、トロイアがギリシャ軍の計略によって滅びたのち、戦乱のなかで妻を見失い、そこから父親を背負い、幼い子をともなって、未知の土地ローマへと逃れていく。それは、単なる逃避行でなく、滅び去ったトロイアの町に代わって新しいトロイアを建てるという使命を帯びていた。地中海を七年もの間、さまよい苦難を越えてローマにたどりつくが、そこでも敵対する力との戦いが待っていた。ようやくその敵を倒して、アエネアスは、ローマ建国の祖先となった。このアエネアスを主人公とした長編の詩をダンテを導くローマの大詩人ウェルギリウスが書いたのである。(*)
(*)邦訳では「アエネーイス」岩波文庫。全二巻。全体で八百頁にもなる大作で、一万行にわたる。この長編の詩はホメロスのイーリアスなどと似た内容を持っていて、単なる筋書きを興味深く読ませるといったことが目的の作品でなく、たくさんの地名、人名が出てきて読みづらいが、その戦いの表現の奥には高いところを吹いている風のようなものが感じられる。
王妃は、自分の娘のラビィーナとこのアエネアスとの結婚を非常に嫌って怒り、それは自分の命を断つほどであった。すでに述べたように、アエネアスはローマの建国の祖先となり、そのローマにキリスト教が深く根付き、世界の霊的中心となっていったのであり、そうした歴史における神のご計画そのものに、彼女の怒りは向けられたことになる。
ダンテがとくにこのことを背後に含みつつ、怒りというのは、自分が一時的に理性を失って損失を受けるとか他人にも罪を犯すように働くだけでなく、神のご意志にも背くことにつながるということを暗示しているのである。
怒りというのは、激しくなるほどにこのように相手を殺し、自分をも殺し、さらには神のご意志にも真っ向から逆らうことになっていく。それゆえに、こうした怒りの罪の重さをここでさまざまの例をとって読者に告げているのである。
身近にも、怒りというのはいくらでもあり、その失敗もどこにでもある。ダンテがこのようにそうした身近なところから怒りという罪とその裁きの重大さを言わず、ギリシャ神話や聖書からとったのは、この怒りということが人間に共通の重要な問題であり、歴史の動きにもかかわるほどであることを示そうとしているゆえである。
主イエスも、次のように言われた。
…昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。(マタイ五・21~22)
私が以前、初めてこの箇所を読んだときに、怒ることが、殺すことと同じような意味を持つと言われていることに意外な感じを受けたものである。怒るということは誰でもよくあることだが、殺すなどということはめったにあることでないし大多数の人とは関係ないことだと思っていたからである。
しかし、怒りが一時的なものでなく、繰り返しある人に向けられていくときそれは憎しみになって遂には殺すというところまで進んでしまう。怒りはそのように憎しみと深く結びついている。そして憎しみは人を殺すのと同じだということは、ヨハネの手紙でも記されている。
「兄弟(キリスト者の仲間)を憎む者は、人を殺す者である。」(Ⅰヨハネ三・15)
このように、怒りや憎しみというものが、愛とは正反対のものであるゆえに、聖書ではとくに厳しくその怒りの正体を明らかにしていると言えよう。
ダンテが怒りということが何を引き起こすかを神曲でさまざまの例を引いて述べているのもこうした聖書の見方の延長上にある。
このようにダンテは強い想像力によって、怒りの実体とその受ける裁きの世界をありありと知らされていたが、それは突然消えて行った。
それは、「我々の受け慣れた光より、はるかに強烈な光が、私の顔を照らした。」(43~45行)からであった。我々が受け慣れた光とは太陽である。私たちにとって太陽以上に強い光というものは考えられないが、それよりもはるかに強い光が射してきたのである。それは
天使の光であった。このような表現で言おうとしているのは、天使の光はすなわち神の光であってそれがいかに強力なものであるかを示している。
私たちは、この世はどこを見ても混乱や不和、誤解、敵意、差別、いじめ等々があり、世界的にみても貧困や病気、内乱、戦争等々絶えることがない。そうした実体を報道などで知るにつけてもこの世の闇を深く知らされて、知れば知るほど光よりも闇が深まっていくように思われるほどである。自分自身の将来を考えても、だんだん病気がちとなり、老齢になると動くことも制限され、ついには家族も友人もいなくなって家や施設で不自由な生活をせねばならないし、病院で孤独な病気との戦いを強いられる人も多い。そして最終的には死という底知れない闇へと落ちていく…それが人間が直面している現実だと言えよう。
こうした闇は今にはじまったことでない。ダンテの時代においても至るところでそのような状況があり、ダンテ自身も無実の罪に問われ、祖国から追放され、家族とも生活ができなくなり、さすらいの生活をせざるをえなくなった。それは深い闇のなかでの歩みであった。そのことは、神曲の最初に、彼が人生の半ばで正しい道を踏み外し、目を覚ましたときには、暗い森のただ中にいた。それは苛烈で荒涼とした峻厳な森であって、そのことを口にすることも、思いだすことだけでも、苦しさに耐えがたいほどであったと記している。(地獄編第一歌)
こうした闇を深く経験し、さらに地獄の闇をも通ってきたゆえに、彼は神の光とそれを受けた天使の光の強さをこの上もないものとして描写しているのである。
こうした闇に輝く光は、使徒パウロにも生じた。彼がキリスト教徒を迫害して国外にまで追跡していく途上で、突然、天よりの光を受け、復活したキリストの「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」という声を聞いて、迫害者からキリストの最も重要な弟子へと変えられた。光とともに声を受けて変えられたのである。
現実の世界は至るところで闇があっても、霊的な目が開かれた者にとっては、神の光をはっきりと見ることができる、ということは、創世記の巻頭の言葉、闇と混沌のなかに光あれ!という言葉によって光があったということがそれを示しているが、ヤコブも逃げていく途中に天が開けて天使たちが上り下りするのを見たという。それも天の光を見たのである。
旧約聖書のダニエルもまた、そのような大規模な迫害のさなかに神の光をまざまざと見た人であった。
ダンテはその強い天使の光とともに、次の天使の言葉を聞いた。
「登り口は、ここだ」(47行)
より上の環状の道へと進むには、今歩いている道から登らねばならない。しかし、ウェルギリウスですらその登り口がどこなのかは分からないのである。これは、ウェルギリウスは理性の象徴であるが、理性的に哲学的に考察しても、霊的により高いところへと登ることはできないというダンテの体験に根ざした啓示を示すものである。いかに理性的な思考を重ねても、魂の目に見えない部分は、より高くへと登ることができないし、より清められるということもない、このことは、一見不可解なことに見える。理性は高度のはたらきであってその理性を適切に用いることによって、私たちの魂もより高みへと上がっていくと考えられるからである。
ダンテは哲学書も書いているし、当時の科学的な考え方も深く身につけ、論理的にものごとを考えていくことについても優れた能力も持っていた。じっさいに彼は、哲学書や詩を書くだけでなく、都市国家フィレンツェにおいて政治家としても活動していたのである。
そうしたさまざまの人間の精神的文化に通じていたにもかかわらず、彼は、より上に登るために、そしてさらなる清めを受けるためには人間のそうした思索や経験ではどうすることもできないことを洞察していた。
使徒パウロもユダヤ人のエリートとして優れた教師について学んだがそれでも罪を清め、より高きへと導くキリストのことは全く理解する力がなかった。彼もまた、復活のキリストから直接に光を受けて、「登り口はここだ」という啓示を受けて初めてユダヤ教の世界からより高いキリストの導く世界へと登っていくことができたのである。
現代の私たちにおいても、どんなに教育を受けても科学技術が発達しても、人の心がより清められているとか、より高い精神になっていると感じる人はほとんどいないのではないかと思われる。昔と比べて、現代の小中高校生また、大学生たちの心がより清くなったとか愛が増大した、真実を愛する心が深まったなどと感じる人はたぶんほとんどいないであろう。
天使によって、神によって導かれ、「ここから登れ、ここが登り口だ」という静かな細い声を聞くのでなかったら、私たちは高みへとは登れないのを自分自身や他人、あるいは世界の状況によって、現実に思い知らされているのである。
日々の生活においても、私たちは、たえず「ここから登れ」という上よりの語りかけを必要としている。その声を聞かなかったら、私たちは闇からの声に引き下ろされて罪のなかに沈んでいくことになるからである。
個人の祈り、また礼拝集会や家庭集会など、あるいはよき信徒同士の交わり、賛美により、よき書物、また周囲の清い自然のたたずまいによって私たちはそうした声を聞くことができる。
登っていこうとするとき、次の言葉が聞こえてきた。
「ああ、幸いだ。平和を造る者は! 悪しき怒りがそこにないからである。」
ダンテは、この天使の声を聞いたとき、自分の顔を翼で扇がれる感じがした。このときに、煉獄における第三の罪、怒りの罪が清められたのであった。神からの語りかけを聞くことは、今の私たちにとって力であり、また清めでもある。そして、ダンテが描いたように、私たちもまた、聖なる風が魂に吹きつけてきて、清めを受けることができる。
主イエスは、最後の夕食のとき、
自分の犯した罪を知って、悔い改め、その罪の罰として、またその清めのために何らかの苦しみを受けるとき、天来の風によって清められる、そのようなことに近い経験は現代の私たちも持つことができる。その苦しみが伴わないならば、人はその罪の重大性に気付かないゆえに、神は悔い改めの前に、あるいは悔い改めてのちにも何らかの苦しみや痛みを与えられる。
煉獄を歩むときにも、ウェルギリウスという導きを受け、より上に登るときにもその登り口が分からないゆえに、天使自らの語りかけによって登ることを得、そして罪を清められるのもまた天使の翼によって罪がかき消されるのである。
そしてその歩みも、日が暮れると一歩も前進することができない。
このようにして、煉獄の歩みは徹底した受動的なものであることが示されている。現代に生きる私たちにとって、煉獄の歩みとは、すなわちこの世の歩みだとみなすことができる。罪を犯し、その罪に気付かされ、苦しみを受けつつ、天を仰ぎ、赦しを受けていく。そして身近な導きをする使命を持った人、あるいは書物に導かれ、究極的には、聖なる霊や生きて働くキリストによって導かれていくのが私たちの歩みであるからだ。