この世を支配するもの
詩篇第二篇
なにゆえ、国々は騒ぎ立ち
人々はむなしく声をあげるのか。
なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らい、
主の油注がれた方に逆らうのか
「我らは、枷をはずし縄を切って投げ捨てよう」と。
天を王座とする方は笑い主は彼らを嘲り
憤って、恐怖に落とし怒って、彼らに宣言される。
「聖なる山シオンでわたしは自ら、王を即位させた。」
主の定められたところに従ってわたしは述べよう。
主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子今日、わたしはお前を生んだ。
求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし地の果てまで、お前の領土とする。
お前は鉄の杖で彼らを打ち陶工が器を砕くように砕く。」…
いかに幸いなことか
主を避けどころとする人はすべて。
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この詩篇第二篇は、第一篇と同様にタイトルのようなものがない。次の三篇から以降の詩の多数は「ダビデの詩」といったタイトルがついている。そしてそれらの詩の内容を少し見ただけで、苦しい叫びや、喜び、苦しみ感謝といった感情をそのままに表しており、「詩」だということは、だれにもわかるような内容である。そして一般的にいえば、そうした個人の悩みや苦しみなどを適切な言葉であらわしたものを詩と受け取っていることが多い。
歴史的な事件やそこに現れる特定の英雄的な人間を題材にした、叙事詩というのもあるし、戯曲の詩(劇詩)といったものもある。しかし、私たちが最も詩ということで思いだすのは、やはり個人の感情をうたった詩であろう。日本の詩は、古代から、五・七・五
の形がもとになっているのが多く、和歌とか短歌、あるいは俳句と言われているから、それらが詩のひとつの形、日本独特の形であると思っていない人も多い。
聖書における詩集は、こうした日本人が考えている詩とは大きく異なる内容を持っている。聖書以外の詩集は、ギリシャのもの、中国や日本のものであっても、人間が中心である。ギリシャの叙事詩であるホメロスの作品には神々が出てくるが、それは怒りや嫉妬、復讐など人間的感情がそのまま見られ、万物創造をなす神とは根本的に異なっている。
詩篇はそうした人間的な感情がテーマでなく、人間と神との相互の交流が中心となっている。創世記にある記述「天からの階段を御使いたちが上り下り」するという内容なのである。
この詩篇第二篇は、個人の苦しみや悲しみはまったく出てこない。
ここで歌われているのは、神の大いなる支配なのである。この世のさまざまの混乱や悪の力がはびこっている事実に直面し、それらに巻き込まれてしまうのでなく、そうしたこの世の大波のはるか上にあってこの世を見つめているまなざしがここにある。その神のまなざしと全世界を支配しておられる神の力がこの詩の主題となっている。
さらに、それだけでなくそのような大いなる神の支配の力を受けた王が新しく立てられるという預言がこの詩に含まれているという意味で、この詩が作られた後、はるか後に現れる完全な王イエスのことが指し示されているという点でも、特別に重要なものとなっている。
詩篇の詩は単なる個人的な感情を表すのでなく、第二篇のように、正義の力と悪の力の問題というこの世界の根本問題を扱っているのもある。詩篇のなかの多様な詩で歌われている内容は、個人を越えて万人にあてはまる人間の最も深い心の動き、心の叫びや願い苦しみや悲しみ、そしてそこからの救いを表しており、それが神ご自身が背後にあってそのような苦しみや嘆きを導かれていることが示されている。それは神ご自身のご意志や愛がそこに人間の作った詩のなかに刻みつけられているものなのである。
それゆえに、詩篇が人間の言葉であるにもかかわらず、神の言葉として聖書の重要な位置を占めているのである。神のご意志がこめられているゆえに、将来に起きる重要なできごとの預言をもその内容に含んでいるのである。
詩篇第一、二篇は個人的な感情を表すような叫びなどは書かれていない。内容を注意深く検討するとき、これらの二つの詩は全体の詩の言わばタイトルのように置かれていると言えよう。
「アシュレー」(いかに幸いなことか!)という言葉は、第一篇の最初にも出てきたヘブル語で第二篇にも最後にこの言葉が書かれている。このことからも第一篇と二篇はまとめて一つの内容であると感じることがができる。
詩篇第二篇は、普通に言われる詩らしくないし、たいていの人は、意味が分かりにくいと感じるであろう。
最初から「どうして国々は騒ぎ立つのか」「人々はむなしく声を上げるのか」と疑問形で始まっている。
目には見えないけれども、万能の神、正義の神はおられ、必ず悪に対しては裁きを行われる、というのをはっきりと知っている者にとっては、世の中の至る所でみられる動きは、実に不可解なものだからである。
「地上の王」と書かれているが、日本人には「王」と言うと、昔話に出てくる王様といったイメージを持つことが多い。
現在では、国家の代表者は、大統領や首相という選挙で選ばれる人たちが圧倒的に多く、世襲の「王」がいるのは世界でもほんのわずかである。このように、私たちにはあまりなじみのない言葉ゆえ、自分たちには関係なく思いがちだ。このようになんとなく分かりにくいものがどうして詩篇全体のタイトルのようにおかれているのだろうかという疑問が生じるであろう。
これはその一例であるが、聖書は、一般の人がそのまま読むとどうも分かりにくいことがしばしばある。
この詩はずっと昔にユダヤの王が位に就くときに実際に歌われたものであるという。そのときの現実の状況は、周りの国々が新しい王を打ち倒そうという動きがあった。このような支配の力を奪い合うということはどこの国でもあり、日本の歴史においてもしばしば見られたことである。
この詩は、単に国々の王の支配権の争いの状況を書いているのではない。新しい王の背後には、神がおられ、王を起こされたのは神ご自身なのだ、という明確な気持がここにある。
人間同士の争いの背後には、真実で正義の神に敵対しようとする本質があるのをこの詩の作者ははっきりと啓示されていたのがわかる。
なにゆえ、国々は騒ぎたち、人々は空しく声をあげるのか。
なにゆえ、地上の王、支配者たちは結束して、主に逆らい、主が油注がれた方に逆らうのか。
「我らは、枷をはずし縄を切って投げ捨てよう」と。
ここには、地上の王たちの考え方が書かれている。そこに住む人々、そして彼らを支配する者たちや国々は、本当の王である神と、神ご自身が立てられた王(油を注がれた王)に逆らうという事実がある。
これは今も昔もあることで、神という本当の王(支配者)は要らないと、自分たちから捨ててしまおうという動きがある。神は、自分たちを縛る存在でしかない、じゃまものだという考えなのである。
このことは、福音書の中でもあるようにイエスを捕まえた人々が集まり、騒ぎ「イエスを十字架につけてしまえ。」と叫んだ状態と似ている。神に等しいお方で、神の愛と真実を持っておられた主イエスに対しても人々は尊敬ではなく、よってたかって騒ぎ、逆らったのである。
この世の力は、結束して本当の王であるイエスに対して対抗し、なきものにしようとする。これは、まさに詩篇の第二篇のはじめで言われているのと同じことであるのがわかる。詩篇第二篇はこうしたこの世に本質的な動きを鋭く見抜いて預言的に言っているのである。
四節からは場面が大きく変わり、地上の混乱とは非常に対照的に天上の世界に変わる。そこでは、神や真実に逆らうあらゆる動きに対して神は笑い、嘲けられる。どんなに大きく神に敵対するような動きでも神は笑われるのだ。
すぐに壊れてしまう動きであり、無意味でなんとむなしいことをしているのかと神は見ておられる。
そうした人間世界の動きに対して神がなされたことは、神のご意志を実行するための王を新しく起こされたということである。「聖なる山シオンでわたしは自ら、王を即位させた。」(詩篇二・6)
七節以降に神がたてられた本当の王の性質について書かれている。
まず、第一に、その王は神の子である。旧約聖書では、モーセやエリヤ、ダビデ、あるいはエレミヤやイザヤといった大きなはたらきをした預言書であっても、「神の子」とは言われていない。
一部の新興宗教などで、人間みな神の子といわれたりするために、だれでも神の子だといった考えを持つ人もいるが、聖書の世界ではそのような誰でもが神の子である、といった考え方は全く見られない。
それゆえ、旧約聖書のなかでも、次のような言葉は異例のことなのである。
「お前は、私の子。今日、わたしはお前を生んだ。…」(七節)
神が特定の王に対して、私の子だ、神の子だと、言われたのである。それゆえ、この詩篇第二篇で言われている王とは、それまでのいかなる王とも異なる存在であって、神の権威、力を全面的に受けているという意味が込められている。その王に与えられた約束とは、次のようなものである。
…国々をお前の嗣業とし(*)
地の果てまで、お前の領土とする。
お前は鉄の杖で彼らを打ち、
陶工が器を砕くように砕く。(八~九節)
(*)嗣業とは、相続する土地のこと。新改訳では、「ゆずりの地」と訳されている。
とくに、神と神が立てた王に敵対するような闇の力を打ち砕き、滅ぼす力を与えると約束されている。
この世では至るところに憎しみやそれが原因となる争い、領土を求めての戦争等々が見られる。そして善とか愛や真理などといったようなことはそうしたこの世の悪の力によっていとも簡単に滅ぼされてしまうように見える。実際にこの世を見ても善の力、あるいは真実なものが勝利していく、といったことはわずかしか見られない。とくに国家間においては、勝利を与えるのは、武力や領土の広さ、政治的駆け引き、策略、富などだ、ということは常識のようになっている。
しかし、この詩篇第二篇では、そのようなこの世の常識を根底から打ち破る見方がある。人間の悩みや苦しみなどに対する神の愛を信じてそれを受け取ることの重要性とともに、個々の人間や民族を超えた世界的な視野で見るときには、この見方が不可欠となる。
この新しい王とは、世界の国々をもその所有とし、地の果て、全世界にその支配を及ぼすという。
この箇所は新約聖書でもいくつかの箇所で、イエスご自身を預言している神の言葉として引用されている。以下に、この詩篇と新約聖書との関わりについて記したい。
主イエスが、その伝道の出発点において、神からイエスの本質について啓示があった。それは、天が開いてイエスの上に聖なる霊が降ってきたこと、そして天より「これは、私の愛する子、私の心にかなう者」という声が響いてきたことであった。(マタイ三・16~17)
また、十字架で死なねばならぬ時期が近づいたとき、イエスが三人の弟子だけを伴って高い山に登った時、やはり同様に、「これは私の愛する子、私の心にかなう者。これに聞け」という神の声があった。(マタイ十七・5)
このように、イエスは神の愛する子である、ということは、この詩篇第二篇に現れる表現がそのまま用いられており、それはこの詩篇に言われている王は、イエスによって実現したということが示されている。
さらにこのことは、イエスの弟子たちも次の箇所によってこの王とはイエスご自身にほかならない、ということを啓示され、確信をもっていたことが記されている。
…神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩篇の第二篇にも、
『あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ』
と書いてあるとおりです。(使徒言行録十三・33)
さらに、別の箇所でもこの「あなたは私の子、私は今日、あなたを生んだ」という記述がイエスを預言していると記されている。(ヘブル書一・5)
このように、神の子、というのは、イエスに対して特別に用いられるほど、重要な意味を持っている。父なる神がイエスに対して「あなたは私の子である」と言われるとき、それは神と「ひとつである、神と同一の本質を持っている」という意味を含んでいる。
日本では親子関係は上下関係を意味していて、ひとつであるといったニュアンスは幼児のときは、母親とはひとつになっているように見えるが、同じ親であっても父親との関係は薄く、また少し大きくなると一日の大部分は保育所などにいて離れているし、さらに成長すると親からはどんどん離れていく。そのため、親と子が一つだというようなことを連想することはほとんどないと言えよう。
そのため、聖書にある父なる神と子なるキリストという意味を、間違って捉えがちだが、聖書には特別な使い方があり、ここで言う子というのは、神と全くひとつである、同じ本質を与えられているということなのである。(*)
(*)エホバの証人(「ものみの塔」に属する信者たち)は、「父と子供を比べたら父がずっと権威ある存在だ。だから、イエスは子なのだから、父と子が同じではありえない」といった説明の仕方で、子なるキリストの神性を否定する。これは、聖書における「神の子」という独特の意味のなかに、現代人が持っている聖書と無関係な通常のニュアンスを持ち込んで、聖書の真理を否定する考え方で、この間違いに多くの人たちが引き入れられて正しい聖書に基づく信仰から引き離されるという事態が生じた。
聖書では、神の子というのは、父なる神とひとつである、完全にひとつであるということ、イエスの神性を基本においているので(特にヨハネ福音書やヘブル書の第一章など参照)、このようなエホバの証人のとらえ方は、新約聖書の中心にある真理を否定するものであるゆえ、聖書を使う宗教ではあっても、キリスト教ではないとされるのである。
神が直接に神の力をすべて与えて王を立てたゆえ、この世の王、支配者たちが、神自ら立てられた王を滅ぼそうとしてもそれは不可能なことである。
目に見えないけれど、この世界には本当の王がおられ、地の果てまでも支配する力を持っている。そして神は日本にある偶像のようなものではなく、人間には到達できない正しいもの・愛そのものなのである。その愛に反するものが悪であり、その悪の力を打ち砕く。「お前は鉄の杖で彼らを打ち、陶工が器を砕くように砕く。」(詩篇二・9)
このように、非常にはっきりとこの世の王(支配者)と本当の王が対照的におかれていることが分かる。主イエスは、当時の宗教や政治的な支配者たちに捕えられ、処刑されてしまったことから非常に弱い者のように見えるが、神の力を持っておられた。
それゆえに、殺されたあといっそう大いなる力がイエスを信じる人たちに与えられ、現代に至るまで全世界の国々にその力が波及し続けてきた。例えば、中国のような広大な国、アフリカのような貧富の差の激しい国など全世界へと広まり、至る所で主イエスの力が見られる。
以前、ニュージーランドへ行く機会があり、教会の牧師や信徒の人たちとの生活を体験することができた。そのひとたちの心を動かしているものは紛れもなく主イエスであった。二千年も前に殺された主イエスが、今も力を持ち彼らを動かしていて、初めて訪れた私にとても真実な交わりを与えてくださった。このようなことは読んだり聞いたりして、知っていたことであるが、実際にそこへ泊めてもらい、彼らと共に過ごしたことを通して、主イエスは人々の心の深いところで生きておられるのだと実感したことであった。
このように主イエスは強力な方であり、その力により、必ず悪は滅ぼされて行く。イエスを滅ぼそうとする人は自分の方が滅んでいく。主イエスを神の子と信じる人は、社会的にどんなに弱い立場にあっても、不思議な力が与えられ、守られ支えられる。
主イエスが、この詩篇でも約束されているように、神の力を与えられ、悪の力を砕くことについて、イエスご自身もつぎのように言われた。
「この石に落ちるものは打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」(マタイの福音書二一・44)
「この石」とは支配者たちが十字架につけて捨てた石、主イエスのことである。
「家を建てるものの捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に思える。」(マタイの福音書二一・42)
イエスを、すなわちイエスが持っておられる愛や真実といった本質に敵対し、それを滅ぼそうとする者は、かえって自分が砕かれてしまうと警告されている。
私たちは二種類の王のどちらに頼るのか。さまざまの国家や社会の組織において、それらを支配している力を持っている者たちは、しばしばキリスト教で言われているような本当のあり方を捨て去ろうとする発想を持っている。現在も、機会があれば軍備を増強しようとか、憲法を改悪しようとして、神の力や神の正義などを信じないで、武力、経済力などに最大の力を認めようとする勢力がつねにある。私たちに問いかけられているのは、そのようなこの世の王(支配者たち)にすがっていこうと思うのか、神がたてた本当の王である主イエスにすがっていこうとするのかということである。
…すべての王よ、今や目覚めよ。
地を治める者よ、諭しを受けよ。
畏れ敬って、主に仕えよ。…
いかに幸いなことか
主を避けどころとする人はすべて。(10~12節より)
この詩の10節からは全ての人々に対するすすめが書かれている。全ての王、今や目覚めて畏れ敬って主に仕えよ。悪に従って行かないようにせよと言われている。神の無限の力を知るときには、畏れをもってその神に従うことが唯一の道であり、そこには大いなる幸いがある。
このように第一篇では主の教えを愛し、それをいつも心に持っている人こそ、本当の幸い、上よりの祝福があると約束され、第二篇の終わりでは主にいつもより頼む人は幸いだ、とある。
世のいたるところに悪の力があり、強い力を持っている。私たちの内にもそうした悪の力(罪)が入り込み、自分自身も罪を犯し、また他者の悪(罪)によって苦しめられる。さまざまの悲しみや痛みも生じる。
しかし、私たちを苦しめる悪の力は一篇に記されているように、時至れば風に吹き飛ばされるもみ殻のように簡単に消えてしまうものであり、二篇には神の鉄の杖でそうした悪の力が打ち砕かれるのだということを神からの言葉として確信をもって記されている。
しかも、この地上にそうした悪の力を砕く、真の王、王のなかの王(King of kings 黙示録十九・16)である、キリストが人類のために遣わされるという約束が記されてあり、そのとおりに実現し、そのことを信じる人たちが今まで無数に起こされ、現在もそのキリストの目に見えない支配の力は決して変ることなく続いているのである。