心の壊れるところから
人の心はもろい。どんな人でもただのひと言で動揺したり、その言葉が後々まで心にひっかかって相手に反発を感じてしまったりする。
また、悪の力に簡単に誘惑されて正しい道を踏み外したり、実際にそのような行動をしなくとも、心の中で罪を犯してしまうことがよくある。
何か正しいことを知ってそれを続けようとしても続かない。
人間の心から実にさまざまのよくないものが生じてくる。そして堅固な心であろうとしても壊れていく。
ことに信頼していた人間に裏切られたり、自分が取返しのつかない大きな罪を犯してしまったら心は引き裂かれ、砕けてしまうであろう。
とくに家族にそうした大きな問題が生じたりすれば、その問題から離れることもできず日夜そのことで悩まされ苦しむことになる。
聖書は最も人間を深く知っている書物であるから、そうした人間の心の弱さは随所で書かれている。そしてそこから道が開けていることもはっきりと書かれている。
…神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。(詩篇五一・19)
この詩が作られた当時の時代は、動物のいけにえを捧げることは重要な宗教上の儀式であった。人間の罪を清めるため、牛や山羊などの動物を殺してその血を注いで清めを受けたり、身を捧げることをあらわすために動物を焼いて捧げるなどが不可欠のこととなっていた。(旧約聖書
レビ記四章ほか)
しかし、この詩の作者は、そのような動物のいけにえなどは神が喜ばれないことをはっきりと示されていた。そして、ここに上げたように神が受けいれるいけにえとは、心であり、しかも砕けた心だということを啓示によって知らされていたのである。
ここで、「砕けた魂」と訳されている原語(ヘブライ語)は、シャーバル であり、これは「砕く、壊す」(*)という意味を持っている。
(*)この語は、次のように用いられている。戸を壊す(創世記19の9)、雹が野のすべての木々を打ち砕いた(出エジプト記9の25)、石柱を打ち砕く(出エジプト記23の24)、モーセは石の板を砕いた(出エジプト記32の19)、神の声は、レバノン杉を粉々にする(詩篇29の5)など。これは旧約聖書全体で二二三回使われているが、とくにエレミヤ書では哀歌も含めると51回も使われていて、創世記19回、サムエル記から列王記、歴代誌に至る多くの歴史書全部でも16回しか使われていないのと比べるとエレミヤ書にはとくに多く使われている。これは、エレミヤは彼の国ユダヤの国が壊れ、滅びるときに現れた預言者であったからであろう。
英語訳ではこの語に crush,break をあてている。この訳語は、原語のように、壊す、粉々にするという意味をもっている。
また、「悔いる心」と訳されている「悔いる」という原語は、ダーカーであり、これはこの同じ詩篇五十一篇の10節では、「砕かれた骨が喜び…」というように、「砕く」と訳されている。ほかの箇所においても、このダーカーは、「悔いる」というより、「立てないほど打ち砕かれ」(詩篇38の4)、「我々を打ちのめし」(詩篇44の20)と訳されるように、打ち砕くという意味をもっている。
このような言葉の意味を考えると、神が求めるいけにえのことを、この詩の作者は、打ち砕く、粉砕するという強い意味をもった言葉を二種類、三度も繰り返して使っていることになるのである。
それほど、この作者は、心が砕かれた、あるいは粉々になってしまった状態は、神に受けいれられるということを深く知っていたのがうかがえる。 私たちの生活において、また、毎日の新聞記事やニュースなどを見ても、心を強められるよりは壊されるようなことがずっと多い。
老年になってさまざまのことができなくなり、病気になり孤独も襲ってくるときさらにその状態はひどくなる。
若いときの希望は壊れ、これこそは頼れると思った人からも裏切られ、人間への信頼の心は壊れていく。老年はいろいろの病気が襲ってくるし身体は着実にあちこちが壊れていく。そして何もかも壊れ、砕かれて死を迎えるということが多いといえるだろう。
そうした状況をすべて見抜いているからこそ、このような壊れた心から、まっすぐ救いへの道が開かれていることを聖書は強調しているのである。
キリストの選んだ十二弟子のなかで、第一の弟子ともいえるペテロは、イエスから重んじられて自分をひとかどの者と思っていた。死んでもイエスに従っていく、と決断を示したりもした。しかし、イエスがとらわれてしまうと、女中からあなたもイエスの弟子だったと言われ、必死になって、イエスのことなど知らないと、主を否定するということを三度も繰り返してしまった。このことによって初めてペテロの心は砕かれた。文字通り粉々にされてしまったであろう。
しかし、そこから本当のキリストの弟子への道が開かれていた。
私たちにおいても、自分は○○ができる、といった自信、自負心をもっている限り、本当の道を歩くことができない。
一般の考え方では、心が壊れてしまったら絶望であり、救われない。だから自信を持て、希望を持て、と繰り返し言われる。だが、自分を知れば知るほど、そして年月が立つほどに年もとっていくほど自信とか希望とかが壊れていくのが実体である。
そのような現実のなかに、神は道を作って下さった。いくら心が壊れても、打ち砕かれても、救いから遠くなるのでなく、そこから神を仰ぐことこそ神が最も喜ばれることだというのである。そのような低くされた心こそ、神への最も価値ある献げものだとされている。
このような砕かれた心こそ、主イエスが言われたことであった。
…ああ、幸いだ。心の貧しい者。
なぜなら、神の国はその人たちのものであるから。(マタイ福音書五・3)
「心の貧しい者」とは、日本語の通常の意味のように、美しいもの清いものなどのことが分からない、教養がないとか心にうるおいがなく飲食や金のことしか念頭にない者
という意味ではない。
聖書においての心の貧しさとは、心砕かれ、粉々にされた状態、そこから神を幼な子のように仰ぐ心を意味している。
…言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい(と思っている)人についてよりも大きな喜びが天にある。
…言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(ルカ福音書十五・7、10節)
このように繰り返しルカ福音書で、悔い改める心の重要性が述べられ、そのような心こそ何よりも神が喜ばれると強調されているのも同じこと、砕かれた心のことを言おうとしているのである。
それに対して、この世が喜ぶこと、それは勉強やスポーツ、あるいは仕事の業績などで一番になったり、賞をもらったときであり、そのようなことはごく一部の人にしかできない。しかし、神の国で最も大きな喜びがあるとされていることは、だれにでも開かれたことなのである。