生きること、キリスト
このように、イエスの時代に近づくと、一部の書物には永遠の命とか復活ということが断片的に、あるいは暗示するような形で現れてくる。
これがキリストが来られてから、旧約聖書やその続編で言われていたすべてが完全な意味で実現していった。
新約聖書は、この創世記の最初の記述がキリストにおいて実現したことを、明確に記している。
…暗闇に住む民は、大きな光を見、
死の陰の谷に住む者に光が差し込んだ。(マタイ福音書四・11)
暗闇、死というのは生きることと逆のことである。そのただなかにキリストが光となって来てくださった。それによってはじめて暗闇と死という生きていく最大の妨げが取り払われたというのがここで言おうとしていることである。
事実、主イエスは、言われた。
…イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ八・12)
…イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ十四・6)
これらの言葉は、すべて生きることはキリストということを表している。目的もなく、ただ生きているというのなら、動物も植物も同様である。人間だけは、目的が与えられ、その目的に向かって歩む力が与えられないと生きていけない。
キリストは、「人はパンだけで生きるのでない、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と言われた。(マタイ福音書四・4)
これは、生きることは、神の言葉による、ということを意味している。
そして、神の言葉そのものであるお方が、キリストであるゆえに、生きることはキリストだということになる。
キリストが地上に来られてから、生きるということがこのように明確に定まったのである。
生きるということは、キリストに従うことであり、キリストのみ言葉に聞くことであり、従えないときに赦しを願うことである。そしてキリストの受けたように苦しみをも受けることである。その苦しみは私たちの罪のゆえでもあるが、また他人の罪をになう苦しみでもある。
そして、生きることは、キリストの持つ永遠の命を生きることであるゆえに、死んでも生きるものとされる。
信仰と希望と愛はキリスト
私たちが生きていく上で、最も重要なことは、信仰と希望と神の愛である。そして生きることはキリストであるゆえに、信仰、希望、愛もまたキリストである。
信仰はキリストである。信じる対象もキリスト、キリストが私たちの罪を赦し、キリストと本質を同じとする聖霊が私たちを導き、キリストによって私たちは命を与えられる。ここで信仰と訳された言葉は、ピスティス pistis であり、これは「真実」とも訳される言葉である。(ローマ三の3などでは、そのように訳されている。口語訳、新改訳では「真実」、新共同訳では「誠実」と訳されている)
それゆえ、この有名な言葉での、いつまでも続くものは、「主の真実」という意味にもとることができるし、じっさいパウロはそのような意味をも重ねていると考えられる。
新約聖書において、信仰とはキリストを信じることが前面に出されている。主ご自身が言われたように、キリストを信じることは神を信じることと同じなのである。
…私を受けいれる人は、私を遣わされた方(神)をも受けいれるのである。
…私を見た者は、父(神)を見たのだ。
(ヨハネ福音書十三の20、十四の9)
盲人やハンセン病の人たち、また七つの悪霊の取りついていたマグダラのマリア、十字架上の重罪人等々すべてはキリストを信じた。そして赦され、力を与えられ、あるいはパラダイスにいくという希望を与えられた。
そうした人間にかかわることだけではない。キリストは世界をも創造され、今も万物を支え、保ち、神の国へと持ち運んでいるのである。
…神は、御子(キリスト)によって世界を創造された。
御子は神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられるが(*)、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになった。
(ヘブル書一の2~3より)
(*)「支える」と訳された原語は、フェロー phero であって、この語は「持ち運ぶ、になう、支える」といった意味を持っている。なお、この語から、車を運ぶ船、ferry フェリーという語も生じた。
それゆえに、周囲の樹木や草花など、雲や空、星なども一つ一つがキリストの愛による創造物であり、またいまもその愛が支えているのである。それらもまたキリストによって支えられ、生きているのであって、ここにも、生きるはキリストであるということが見られる。
希望についても、キリストそのものが私たちの希望である。
「キリストぞわが望み、栄光とこしえに神にあれ」 という言葉にあるように、キリストは、日々の生活において絶えずいろいろな問題に直面する私たちに個々の人に最善となるようにしてくださるとの希望を与え、生きる力を与え、導いてくださる。真の希望を与える者こそ、永続的な力を与えることができる。
そればかりでない。この世の生活のかなたにあることに対しても、キリストは究極的な希望を与えて下さる。死んだらどうなるのか、私たちの最後はどうなるのか、そしてこの世界全体はどうなるのか、ということについても、復活と再臨という約束によってあらゆる闇の力に打ち勝つ希望を与えた下さるのがキリストなのである。
愛もキリストである。
キリストが私たちの罪をになって十字架につかれたからこそ、私たちは神の愛を知った。(ヨハネ第一の手紙三・16、四・10)
親子や友人、また男女の愛はどんなに深くとも、一時的であり、限定的であり、それゆえに神の愛へとつながっていない。逆にそうした人間同士の愛が深いほど、神のことなど当事者からかすんでしまう。
私自身も、キリストを知るまでは本当の愛というのをまったく知らなかったのがあとからはっきりと示されていった。
生きることとは、キリストのうちにあること。それはまたキリストの愛のうちに留まっていることである。
放蕩息子のたとえで示されているように、罪のゆえに迷い出た者をも探し出して下さる愛。莫大な罪の負債をも帳消しにしてくださる愛、それはただキリストのみが持っている。
また、 キリストは、十字架で処刑されたほどの苦しみを通って行かれた。生きるはキリストならば、私たちにもそのような道を通らねばならないことが有りうるし、事実長い歴史のなかで、生じた迫害の時代には、まさに生きるはキリストの十字架であったようなことが数多く生じた。
そして、現在でも、重い障害を持った人、事故や誤診あるいは自然災害や内乱、戦争といったことで、耐え難いような苦しみと悲しみのなかに投げ込まれている人たちも多くいる。生きるための食物さえまともにない人たちは、十億人を越えるという。(*)
(*)二〇〇九年六月、 国連食糧農業機関(FAO)は19日、十分な栄養が取れない状態にある飢餓人口が、今年には前年比で一億五〇〇万人増加し、過去最高の十億二〇〇〇万人になるとの予測を発表した。
そのような苦しみにある人たち、その現実を見るときにも、私たちはキリストを思い起こす。
キリストの愛はきっとそのような人をも見捨ててはいないと。じっさい、福音書には、食べ物もなく、金持ちの食卓から捨てられるもので辛うじて生きていようとしていた乞食のことが記されている。犬が彼のできものをなめていた、とも記され、この男が人間として最低限の生活をもできていない悲惨な状態であったのがわかる。
しかし、そのような人間に名前(ラザロ)が記されていることにも、イエスの愛はそのたった一人の絶望的な生活をしている人にも及んでいることを示す記述であり、事実、そのラザロが死ぬと、天使たちが来て、アブラハムのもとに連れていったとある。
このような悲惨な生活をせざるを得ない人たちは、古代から世界中で現在に至るまで、数知れず存在してきた。そうした人へのキリストの配慮をこのラザロの記事は暗示しているものである。
そして、死後の生活というのが存在しないなら、それはまったく不平等に満ちた、謎のような世界、闇の世界だということになる。しかし、人間の地上での生活は実は一瞬のようなものであり、死後の永遠の生活を視野に入れてはじめて正しく見ることができるのであって、キリストの愛のうちに、人間の死後の生活をも合わせ見るときに、初めて私たちはこの謎のような暗い世界に永遠の光を見出すのである。
さらに、キリストが全く不当な苦しみを受けたように、この世のたくさんの不当な苦しみを受けている人たちもまた、ほかの人たちの罪を何らかのかたちで身代わりに受けているとも考えられる。
私たちもまた、いつそのような苦しい事態が生じるかもわからない。重い病気や事故などによる障害、老年の苦しみ、人間関係の崩壊等々によって、絶えがたい苦しみに直面することも有りうるだろう。
しかし、そうしたあらゆる事態においても、生きることはキリスト、信仰と希望と愛はキリスト、という真理は輝き続ける。ただキリストだけが、そうしたいっさいの状況を乗り越え、勝利する力を与えてくださるからである。
…これらのことをなんじらに語りたるは、なんじら我に在りて平安を得んがためなり。
なんじら、世にありては艱難あり、されど、雄々しかれ。
我、すでに世に勝てり。
(ヨハネ福音書十六・33)