主の平安への道 ー 詩篇 第四篇ー
呼び求めるわたしに答えてください
わたしの正しさを認めてくださる神よ。
苦難から解き放ってください
憐れんで、祈りを聞いてください。…
詩篇の第一編は、詩篇全体の総括的・テーマのようなものであり、第二編は全世界の神のご支配という根本問題が示されており、第三編は個人的な「わたし」の問題について書かれていた。そして第四編は、答えてください!
憐れんで下さい! 聞いて下さい! 私の叫びに答えてくださいという切実な願いから始まっている。
このような切実な願いを神に訴えることができるということが、すでに大いなる恵みのもとにあるということである。私たちが苦しみや悲しみに打ちのめされるとき、もはや祈る気力もなく、また神に祈るよりは、神などいない、という気持になってしまうことも多い。
この詩の作者は、いかに苦しくとも、答えてくださる神を知っていた。もし彼が呼びかけている相手が全く答えることがない、と知っていたら、人間同士でもはじめから呼びかけたりしないものである。
神に向かって叫ぶという状況は誰にでもあることである。人間を苦しめる力はどんなところにいてもあることで、たとえ健康な人であっても身近な家族や友人との間で悩みを抱えたりする。
人間は、どこにいても悩み苦しめられることがある。第四編は、「わたし」という言葉が繰り返し現れる。個人的な苦しみ、悩みから生み出された詩なのである。
神からの答えがあるということは神の力が与えられることであるし、そんな時はどれだけ敵対する者があっても打ち勝つことができる。 しかし、もし神の答えもなにもないときには苦しみは耐えがたいものとなる。
旧約聖書のヨブ記はとても長い内容で、家族の多くが失われ、財産もなくなって、自分の健康も失われて全身の力をこめて叫んでいるのに神の答え、励ましが全く受けられないゆえに、彼の苦しみはどこまでも大きくなっていった。どこからも助けがないのでヨブは自分が生まれた日は呪われてしまえと叫ばずにはいられなくなったことが記されている。
このように、「応答してくださる神」を持っているかどうかは非常に重要なことになる。
私たちが、もし、答えてくださる神というのを思ったことがなく、単に一方的に信仰箇条などを信じているというだけで、生きた神からの応答を待とうとすることがないような姿勢であるなら、それは形だけのキリスト者になってしまうだろう。
しかし神からの語りかけを聞き取ったら、そういうことではいけない、あなた自身がどうなのかと神は問いかけてくるので、神との応対があれば高慢になったり、糾弾したりせず、相手の間違った点を、人間的な怒りや憎しみなどの感情でなく愛を持って接することができる。
私たちが祈る場合でもいつも神からの何らかの霊的な促し、つながりを絶えず期待してなされるのが本当のあり方となる。神が生きておられる神ならば、きっと応答があるはずだからである。
私たちがとくに、礼拝のとき、はじめや終わり、あるいは聖書の説き明かしを聞いたあとで、黙祷するのはそのような目的であり、自分の罪を思い起こし、それを告白し、その赦しのみ声を聞き取るためなのであり、また御言葉を主によって心に刻んでいただくためである。絶えず答えてくださる神からの、個人的な応答を期待して黙祷するのである。
「静まる」のにはさまざまな意味があって、私たちが犯した罪を赦してくださる神を知るために、罪と赦しを思い起こす。そのほかに、黙して神からの個人的な語りかけ、それは罪を指摘することであったり、私たちの沈んだ心を励ましてくださったりする。食前の祈りのような、一日に三度あるようなものでも、神の応答を期待しなければ、形式化するもととなる。このように、神に対する、「応答」をいつも思う信仰こそ、聖書に記されている信仰である。
聖書が私たちに伝えようとする神と人間の関係は、生きた神とのなまなましい応答だと言えよう。それが創世記から一貫して記されている。
この点が、一般の形式的な、儀式だけ行えばよい宗教とは大きく違うところだ。正月の初詣やお盆のさまざまな行事や、法事などは、拝む対象からの生きた応答といったものをほとんどあるいは全く期待しないで習慣的に、形式的に行っていると言えよう。
周りの者が、自分はそういうことをしていないのに、こうしただろう、ああしただろうと言う。そういう状況はいつもあるので、この詩を作った人も自分の正しさを認めてくださいと神に向かって叫ばずにはいられない状況にあった。
(3~6節)人の子らよ
いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか
むなしさを愛し、偽りを求めるのか。
主の慈しみに生きる人を主は見分けて
呼び求める声を聞いてくださると知れ。
おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り、
静まれ。
どうしてここから大きく内容が変わっているのか。この詩の最初の部分ではひたすら答えてくださいと、神への叫びが記されていた。
詩篇は説明的に記した文ではないので、苦しみに置かれていた状態の記述から次の平安が与えられるときの記述まで、どれだけ時間が経ったかは分からない。
詩篇では、苦しみの叫びがずっと続いて記されているのに、突然、大きな平安や感謝の記述へと変わっている場合もある。
この詩の作者の、神に対して、「聞いてください」という切実な祈りに答えて、実際に神は聞いてくださった経験を与えられたのである。
だから今まで押しつぶされそうになっていた人だけれども、このように周りの敵対している人たちに向かって、はっきりといつまで私の名誉を辱めにさらすのか、むなしさを求めるのかと、彼らに向かって、立ち上がって言う力を与えられたのである。
そして、さらに、「おそれをもって罪を離れよ、神は真剣に呼びもとめる声を聞いてくださることを知れ」と呼びかける心の余裕が与えられたのである。
ある期間の激しい苦しみと祈りの後に、このように神が自分の叫びを聞いてくださったという経験があったからこそ、周囲の人に対してこのように言うことができた。苦しめていた人たちに対して、彼ら自身が恐れを持って罪を離れないと、必ず大きな裁きが来るのだからと、神の語りかける愛と裁きの力をこの作者は大きな転機の中で知らされた。
だからこの詩の作者を攻撃し、中傷したりした周囲の人たちに対して、お前たちは裁かれてしまえという、憎しみをもって言ったりしないで、罪を離れよと呼びかけることができたのである。
夜になって床に就くときでも自分の心と語り、そして沈黙し神と祈りに入れと。
普通はこのように自分に悪いことを言ってくる人に対して、話したくない、会いたくないという気持ちになってしまうが、この人自身が救いを与えられた時には、相手に対して憎しみも消え、滅んでしまえという気持ちがなくなる。
それは、自分も同じように罪があり、相手にも罪があるので、罪から離れることが根本的な問題だと分かるので、この人は周囲の不正なことをしかけてくる人たちに対しても、罪を離れよと、そして神と正しい関係を持つようにと諭している。
これが、新約聖書の時代になって、主イエスの言った「あなたを苦しめる者のために祈りなさい」という言葉に通じている。
静まって主により頼むことで、自分が正しいあり方からどれだけ離れているか、自分が人間的な感情にどれだけ取り巻かれているかを、初めて分かることができる。人間的な感情は罪であるので、静まらないで物事を考えたり、行ったりすること自体が罪であることをこの詩人は知っていた。
(7節)誰がよきものを見せるだろうかと、多くの人は言っている。
Many are asking,"Who can show us any good ? "
この世で、本当によきものはない。人間であろうと神であろうと良きものを我々の前に示すことができるものなどいない、これはこの詩の作者の周囲で、多くの人が言っていることであった。
この世には至る所で戦争や憎しみがあり、どこに良いことがあるのかと疑問に思う。結局本当によいことなどないのだ、よいことがあってもすぐになくなる、悪がはびこる、災害、事件、人の病気や罪
等々、それらが、なにか良きものがあったとしても壊していくのだ。だから永続的な良いものなど、誰も与えることはできない、神も我々にそんな良いものなど与えてはくれないのだ、というのである。
そして、こうした漠然とした感じ方は、現代においても多数の人たちが持っている。
(英語訳でみられる進行形は、現在もこの問いかけがいつもなされていることを思わされる。)
この考え方、あるいは感情というのがだんだん人間の心に広がってくるとき、何をしても力が入らなくなり、今までの自分のやってきたことも空しいと感じてしまうようになる。良いことなど影のようなものだ、あると思っていたが、実は何もなかったのだ、という気持である。
このような虚無的な風潮に対して、この詩の作者はそれに押し流されないある実体験を与えられていた。
(7節後半~9節)
主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。
人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。
それにもまさる喜びを
(神は)わたしの心に与えて下さった。(*)
平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。
主よ、あなただけが、確かに
わたしをここに住まわせてくださるのです。
(*)新共同訳は、「私の心に与えて下さい」という祈願文に訳しているが、ヘブル語原文は、ナータン(与える)という動詞のカル完了形であり、新改訳、口語訳、関根訳などの日本語訳聖書も、また、各種の外国語訳もこの訳文のように「与えて下さった」と訳するのがほとんどすべてである。例えば、 You have filled my heart with greater joy than when their grain and new
wine abound.(NIV) You have put more joy in my heart.(RSV) You have put gladdness(NRS) You have given me greater joy.(NLT) 英語訳などのごく一部には、「与えて下さる」という現在形で訳しているのもあるが、新共同訳のように、祈願文として訳しているのは、私が調べた数十種の外国語訳でも..みられなかった。
何も良いものなどない、だれもそんなものは与えることはできない、そういう風潮のただ中にあって、この詩人の願いは、「わたしたちに御顔の光を向けてください。」ということであった。
神の光を向けられたら、良いものなどどこにもない、というような状況にあってもその中に、良いものを見ることができる。この詩人は表面的な良きものでなく、根源的な良きものー神の光ーを求め、祈っているのである。
神が私たちの願いに答えて、その光を与えてくだされば、様々なことが欠けていてもなお、最もよいものを与えられたということになる。これは創世記の最初に記されていること、闇の中に光あれと神が言われると、光があったことに通じることである。
ここにも書かれているように、生きるのに不可欠な、農産物ー麦やぶどうを豊かに与えられることも確かに大きな恵みである。しかし御顔の光が与えられるならば、物質的な幸福・幸い以上の喜びを与えてくださる。
この詩の最後の部分に、「平和のうちに身を横たえ、眠る」とある。平和とは、何にも争いがないという消極的状態を言うのでなく、シャーロームという原語(ヘブル語)の本来の意味は、「完成された」というニュアンスを持ち、霊的に全うされた状態が与えられたことを示している。
さまざまの苦しみや悲しみを通って、神に全存在をあげて求め、神だけがその窮地にある状況から救い出すことを知って求め続けていった。そのときには、周囲にむらがる悪の勢力に押し流されそうになっていたにもかかわらず、そのような危険な状況からどれほど時間が経ったか、あるときはっきりした神の声を聞いて、そこから立ち上がることができ、かえってその周囲の闇の力に対して霊的な戦いに勝利することができた一つの魂の歩みがここにある。
自分に敵対してくる人たちに対しても、憎んだり、嫌ったりせず、静まって罪を離れよ、と祈りの気持ちで呼びかけるようになった。そしてこの世にはどこに良いものがあるのかと、絶望的になっている人たちのただ中で、神の光を受け、そこに豊かな平安を与えられていく。
神からの答えと光を与えられた時には全ての疑いや無気力を超えていくことができるので、心は非常に違った状況になり平安を与えられる。そういう「平安への道」というのがこの短い詩の中で書かれている。
私たちもこの詩の作者と同様に、毎日の生活の中で、「主の平和(シャローム)の内に身を横たえ、眠ることができる」(9節)ことをこの詩は指し示している。
この詩の作者に与えられた確信は、この詩の最後に置かれた言葉、「主よ、ただあなただけがこの平安を持って住まわせてくださる。」であった。
人間は、こうした神からの平和を与えられるのでなかったら、絶えず日常のできごとに不満や闇の力を感じるばかりとなるし、人間関係でも動揺させられる。そうした状況は、他人のせいではなく、私たち自身が赦されない罪を持っていることが根本にあることをこの詩の作者は知っていた。(5節)
そのときには、神に心から祈ることができず、神からの答えも受けられないため、平安をもたらすみ言葉もみ声も受けることができない。聖書で一貫して言っているように、人間は罪を離れない限り、動揺して黒い雲が漂う。
主イエスが、最後の夕食のときに約束されたこと、「私の平和をあなた方に与える」ということが私たちの究極的な目標となる。この詩の作者はそのような主にある平和を、数千年前にすでに神から啓示され、その深い霊的な体験が書き記され、それ以後の世界の人たちにその揺るぎない魂の平和の世界を私たちに提示してくれたのである。
現代の私たちも、地上のさまざまの暗いできごとに満ちた歩みのただ中において、この詩で言われている「主の平和」の内に魂を横たえて眠れるようにと願うものである。
生きること、信・望・愛はキリスト
生きるとはどういうことか、このことを理性的に考えたりするのはある程度成長してからであるが、生きることそのことに困難を覚え、生きられない、生きていたくないという気持になるのはすでに子供のときから一部には見られる。
陰湿ないじめに会ったとき、親にも教師にも友人にも言えないような根深い苦しみを持って、さらなるいじめ、辱めを受けるとき、生きていられなくなる。それほどでなくとも、ちょっとしたひと言で、学校にいけなくなり、その後重い心をもって生きていかねばならなくなる人もいる。
私もかつて、二〇歳になる前後に重い心と苦しみが生じて生きていけないかと思うほどに苦しんだことがある。それはだれにも言えず、ノートにその苦しみを書き綴っていった。いつになったらこの苦しみから逃れられるのだろうか?と呻きつつ書いたその文字は今も残してあるが、それを見るとかつてのあの生きていけない、というほどの苦しみがよみがえってくる。
ダンテはその大著である神曲の最初に、次のように書いている。
人生の道の半ばで
正しい道を失い、
暗い森の中に迷い込んでいた。
ああ、その森のすごさ、荒涼とした状況を語ることは何と困難なことか
思い返すだけでも、そのときの恐ろしさがよみがえってくる!(神曲・地獄篇第一歌)
この世において生きることの困難さをダンテ自身が深く魂に刻まれることになったがそれが神曲という、キリストの真理を主題とした詩では比類のない深さと広さをたたえ、かつ詩的構成の完璧さをも併せ持った作品として人類をうるおし続けることになった。
生きていたくない、もう生きられないという絶望的な気持が日本人に広がっていることは、自殺する人が、年間三万人を越えていることからもうかがえる。(*)
(*)これは、世界の百国ほどの統計をとった中では、八番目に多い。一番目から七番まで、リトアニア、ベラルーシ、ロシア、スロベニア、ハンガリー、ラトビアなどの旧ソ連の国々がほとんどを占めている。それらの国に次いで日本となる。アメリカやカナダは、四十位程度、イギリスは六五位である。
なぜ、このように、旧ソ連系の国々を除けば、ヨーロッパ、アメリカ大陸、アジア全体をとっても一番多いほどなのだろうか。
日本の文学と生きること
このことに関連して思いだされることがある。日本の代表的な文学者といわれる夏目漱石の作品のなかで、岩波文庫としては最もよく読まれてきたのが「こころ」という作品で、これは自殺した人の書き残した文が主体となっている。私は高校時代にこれを読んで、複雑な暗い気持になったのを覚えている。このような生きる力を与えることもない、光のない小説がなぜ、最もよく読まれてきたのか、ずっと以前から不可解であった。
また、太宰治、三島由紀夫、有島武郎、芥川龍之介といった日本の代表的な作家とされている人たちや、ノーベル賞まで受けた川端康成もみずからの命を断っている。日本人の自殺が非常に多いということは、このように、大作家といわれる人たちそのものが、絶望して生きていられなくなったという人たちが多いことと関連が感じられる。
日本で最も知られている歌人の一人である石川啄木の代表的歌集、「一握の砂」に次のようなものがある。
一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと
どんよりと
くもれる空を見てゐしに
人を殺したくなりにけるかな
はたらけどはたらけど
猶わが生活 楽にならざり
ぢっと手を見る
このうち、最後の歌は、とくに教科書にも取り入れられて高校などで学習した人も多いだろう。この有名な歌の少し手前に、二番目の歌がある。私は「一握の砂」という歌集そのものを初めて読んだとき驚かされた。文学者の代表的な人間のように言われている人が、その内面ではこんな暗いものを持っていたのか、と強い印象を受けたことを思いだす。
このように、教科書にも出て誰でも知っているような有名な文学者たちが、生きるということは何なのか、について確信を得ることができず、暗闇にさまよっていたのがうかがえる。
そしてそれは多くの日本人が本当の光を知らない状況を映し出しているものでもあった。
生きることと旧約聖書
こうした闇の世界が現実のこの世であるということは、聖書ではその巻頭から書いてある。神が天地創造をされたときには、闇と混沌が覆っていたのである。しかし、そのただなかに光あれ、という神の言葉によって光が存在をはじめたということも最初から書いてある。
闇であれば生きていくことができない。何が正しいのか、揺るがない善悪の根本などないと思うときには、すべてが混沌としてくる。そのような中に神からの光が与えられてはじめて、闇と混沌のただなかにおいて生きていくことができるようになる。
旧約聖書の時代にも、生きることが何であるかはすでに創世記の人間についての最初の記述の中に暗示されている。それはエデンの園の記述において、まわりのすべての木の実を食べてもよいが、真ん中の木の実だけは食べてはならない。食べると必ず死ぬと予告されていた。それは、あらゆることを(神との結びつきなしで)知るという木であった。
ここにすでに、生きるとは何か、死とは何かという人間にとって根本問題が一見子供でも分るような記述で示されている。
生きることは、神の言葉に従うことであり、死ということは、神の言葉に背いて自分の考えや知識を中心に体験し、知り、自分に取り入れようとすることである。
人間が労苦することなく、気づいたときにはすでにまわりには、食べるによく、見ても美しい数々の樹木で満たされていたし、水も流れていた。それは神の深い配慮を象徴するものであった。そのような愛に満ちた状況にありながら、その神に従うことなく、自分の考えで万事を体験し、知ろうとすることが死に至るという驚くべきことなのである。
それゆえ、生きることはキリストという言葉、この言葉に込められた真理は、この創世記にある死に至る道の対極にあるものなのである。
命の源泉である神を知らないならば、一般の動物のように、生きることは食べることだという考えも出てくる。あるいは、悩み苦しむこと、重荷を背負って歩むこと、人間同士が愛することだ、戦うこと等々、人によっていろいろなかたちが思い浮かぶであろう。
しかし、聖書においては、生きることは神の言葉に従うことだ、というのは、数千年も昔から繰り返し言われている。
… 見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。
わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。
もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、
わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。(申命記三十・15~18)
そして、主イエスがサタンに試みられたときに出した有名な言葉、「人はパンだけで生きるのでない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」という言葉もこの申命記に記されているのである。(同八の3)
神の言葉に従うことによって力を与えられ、前進し、生きるということを深く体験した人であってもなお、ときにはそのみ言葉がわからなくなる。聞こえなくなることがある。そのとき、たちまち生きることが重く苦しいことになり、生きていたくない、死を望むということがおきる。
このようなことは、深い信仰を持った人なら起こらないと思われがちだが、聖書は人間のリアルな姿を鋭く記している。ながい旧約聖書の中でも、特別な預言者であって、イエスのさきがけとして現れるとまで言われていたエリヤは、天から火を呼び寄せることができたほどに、神の特別な力を受けていた。そして間違った宗教を追い払うために大いに力を発揮した。
しかし、そのようなエリヤすら、国王の妃の悪魔的な力によって殺されそうになったとき、耐えきれずに荒野にむかって逃げていき、そこで従者をも残して、一人一日の道のり、おそらく数十㎞をも歩き続きけた。そして一本の木の下に来て眠り、自分の命が絶えるのを願って言った。
「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。…」(列王記上十九・3~4より)
このような生きることへの絶望的を気持は、旧約聖書のヨブ記においても現れる。
信仰を持って正しく生きていたヨブという人が、突然家族も多くが死に、財産は奪われてしまうという悲劇に直面した。そのような苦しみに対しても信仰によって、神が与えたのだから、神が取られたのだ、と受けいれることができていながら、さらに自分自身も恐ろしい病気となり、日夜苦しみあえぐようになったとき、妻からさえも、神をのろって死んだほうがましだ、と言われるようになった。
そのような状況でさらに孤独と病気の苦しみがつのってきたとき、ヨブは次のように叫んだ。
私の生まれた日は消え失せよ。…
なぜ、私は母の胎にいるうちに
死んでしまわなかったのか。
せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。…
なぜ、労苦するものに光を与え、
悩み嘆く者を生かしておかれるのか。
彼らは死を待っているが、死は来ない。…(旧約聖書 ヨブ記3章より)
このような記述はこれが信仰の強かった人なのかと驚かされるような強い表現である。
こうした信仰者であっても、襲いかかってくる苦しみは、詩篇にもたくさん見られる。
…神よ、私を救ってください。
大水がのどもとに達し
私は深い沼にはまり込み
足掛かりもない。
大水の深い底にまで沈み
激流が私を押し流す。…(詩篇六九の2~3より)
…わが神、わが神
なぜ、私を見捨てたのか
なぜ、私を遠く離れて、救おうとせず
呻きも言葉も聞いて下さらないのか。…(詩篇二二篇1~2)
このように、神を信じる人が出会う苦しみは、聖書に記されているほかにも、歴史を見ても、最初の主イエスへの迫害からはじまり、弟子たちへの迫害、殉教といったことは、イエスの死後からすぐにはじまって、後のローマ帝国からの大規模な迫害へと続いていった。
このような苦しみは、旧約聖書の時代には、どのようにしてそれを受け止めただろうか。詩篇では、神がそのような苦しみに応えて救い、力と喜びを与えて下さったということが多く記されている。
前述の詩篇二二篇も、主イエスご自身が十字架の上にて同じように、叫びをあげられたのであったが、その詩篇二二篇の後半では、次のように大いなる救いが与えられたことが記されている。
…私は兄弟たちに御名を語り伝え
集会のなかであなたを賛美します。
主をおそれる人々よ、主を賛美せよ。…
主は、圧迫された人の苦しみを
決してあなどらず、さげすまれない。
み顔を隠すことなく、
助けを求める叫びを聞いて下さる。(詩篇二二篇23~25より)
たとえ神を信じていても、ときには絶えがたい苦しみとなり、絶望的とすらなる。しかし、生きることを神に置いておくときには、詩篇二二篇がそうであったように、必ず最終的には神が聞いて下さったという実感をもって終わることができる。それは、地上の生活だけでなく、死の後にまでその人の魂の世界を延長していくときはっきりする。
旧約聖書にも、こうして「生きることは神を信じ、愛の神に希望をかけ、神を待ち望むことである」という事実が深く刻まれている。
さらに、人間の根本問題である心の問題、どうしても正しいこと、愛にかなうこと、真実なことができない、という罪の問題についてもこれこそが、人間を最も苦しめ、国家民族の存亡にかかわる重大なことであるということは、旧約聖書にも数多く記されているが、その苦しみは詩篇にとくにありありと記されている。
いかに幸いなことか
背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
私は黙し続けて、絶え間ない呻きにからだが朽ち果てた。
神の手は昼も夜も私の上に重く置かれ
私の力は夏の日照りにあったように衰えた。
私は言った、
「主にわたしの罪を告白しよう」と。
そのとき、あなたは私の罪を赦して下さった。(詩篇三二・1~5より)
こうした旧約聖書からはじまった霊的な流れにあって、それを決定的にしたのがキリストであった。
生きることは神である、という言い方は旧約聖書にはない。しかし、生きることは神に従うことである、言い換えると神の言葉を中心にすることである、また、生きることは、神の愛と真実によって導かれることである等々さまざまの表現がなされている。
しかし、旧約聖書において一つ決定的に重要なことが欠けていた。
それが、復活ということである。復活ということは、旧約聖書にはほとんど記されていないが、年代的に後期に書かれたものである、ヨブ記やダニエル書に復活を指し示すような箇所が若干見られる。
また、イエスの生まれる一七〇年近く前の時代の歴史書であるマカバイ記には、アンティオコス・エピファネス四世の激しい迫害のときに拷問のすえに殺されることになった人が、次のように答えた。
…息を引き取る間際に、彼は言った。「邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王(神)は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命によみがえらせて下さるのだ。」(旧約聖書・続編
マカバイ記Ⅱの七の9)