分かち合うために
使徒パウロは、ローマという当時の世界の中心とされていた大都市にいるキリスト者たちと会うことを強く願っていた。それは人間的な感情で単に会いたい、というのではなかった。彼が会いたいというのは、次のような理由であった。
…わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。
あなたがたにぜひ会いたいのは、霊の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなた方のところで、あなた方と私が互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。(ローマ一の九~十二)
このように、会って楽しく話しがしたい、といった気持ちでなく、パウロが受けている神からの霊的なよきものを少しでも分かちたい、それによって相手の人が力を与えられるようにということであり、またパウロ自身も彼らの信仰によってよきものを受け、互いに励まし合いたい、ということであった。
パウロが与えられていたもの、それは福音であり、聖なる霊であり、神の力であった。すでにローマにいる信徒たちは信仰を与えられていた。それは名も知れない人たちの働きによって福音が伝えられていたのである。彼らは、「神に愛され、召されて聖なる者(*)となったローマの人たち」と言われているとおりである。
(*)聖なる者、とは、ギリシャ語の ハギオイ hagioi の訳語で、ハギオス hagios の複数形。ハギオスとは、ハギアゾー(聖とする)の形容詞形。ギリシャ語では、形容詞もあとに続く名詞を略して名詞としても使われることがしばしばある。ここでも、形容詞であるが、「聖なる者」と訳されている。
旧約聖書の創世記の一章に 第七日を「聖別」した とある。「聖とする」と訳されるヘブル語 カーダシュは、「分ける」という意味を持っているために、この創世記の箇所では、聖別した、と訳されている。
新共同訳での「聖なる者」という訳語は、日本語の「聖人」といった言葉が持っている完全な人というようなイメージを抱かせるが、そういう意味ではない。キリストの福音を信じて、神のために分けられた人たち、という意味であるから、まだ信仰をもってまもない人たちも、さまざまの信仰的欠点や人間的な罪を持った状態の人も、信仰によって神のために分かたれた人という意味で、そうした人たちも
聖なる者 といわれる。コリントの教会の信徒たちは、さまざまな混乱した生活をもまだ続いていたので、到底聖人などではなかったが、それでも、このような意味のゆえに、聖なる者と訳されている。なお、
口語訳などでは、聖徒と訳されている。まだ、クリスチャン(キリスト者)という呼称が定着していなかったゆえに、この呼称が用いられた。
パウロは自分にたしかに神からの賜物が与えられていることがはっきりとわかっていた。そしてそれを他者に分かつのが自分に課せられた使命であることを知っていた。まず自分に与えられているものをはっきりと実感し、それを分かつ、というのが第一にあって、それに次いで、相手が与えられているものをも受けよう、という気持ちなのである。
ローマの人たちは福音を知らされている。しかし、それはまだまだ不十分なものであるから、福音の真理を深く広く、かつ正しく知らせたい、そしてその福音から力を与えられ、導きを与えられるようになって欲しい、というのが願いであった。
こうしたパウロの主にあっての願いは、ローマの信徒への手紙の最後の部分でも再び繰り返されている。
…兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストにより、かつ御霊の愛によって、あなたがたにお願いする。どうか、共に力をつくして、わたしのために神に祈ってほしい。
すなわち、わたしがユダヤにおる不信の徒から救われ、そしてエルサレムに対するわたしの奉仕が聖徒たちに受けいれられるものとなるように、
また、神の御旨により、喜びをもってあなたがたの所に行き、共になぐさめ合う(*)ことができるように祈ってもらいたい。(ローマ15の30~32、口語訳)
(*)原語のギリシャ語では、シュナナパウオマイ(synanapauomai)であり、これは syn +anapauo から成る語で、「共に休む、共に元気付けられる、共に励まされ、リフレッシュされる」という意味を持つ。 シュン synとは 共に という意味を持った接頭語。アナパウオー とは、アナ(強調の意味をもつ接頭語) とパウオー(休ませる) の合成語。この語から、英語の pause(休止する)という語が派生した。
それゆえ英語訳では、…so that by God's will I may come to you with joy and together with you
be refreshed.(NIV)(神のご意志によって喜びをもってあなた方のところに行けるように、そして、あなた方とともにリフレッシュされるようにと… (この英語訳では、原語のニュアンスを生かして「あなた方と共に」together with youという言葉が強調されて先に出されている。)
また、… we will be an encouragement to each other.(互いに励ましとなるように…)(NLT)と訳しているのもある。新共同訳では「あなた方のもとで憩うことができるように」となっていて、原文の「共に」という意味が乏しく、この訳文では、パウロが自分の気持ちとして、人々のもとで憩いを与えられたいと願っているように受け取られる可能性がある。
パウロのような歴史上で最大の賜物を神から与えられ、その書いたものが聖書として新約聖書の相当部分を占めるほどの人であっても、自分の祈りだけで十分とは決して考えなかった。他者に祈って欲しい、と願うことをまったくしないキリスト者もいる。しかしそれは聖書的なあり方ではない。
祈りという重要な霊的な領域では、無限の深みがあり、そこではだれも自分は十分なのだなどとは言うことはできない。パウロは自分が土の器だと実感していればこそ、その弱く汚れた器に神の賜物を満たしていただきたいとのあつい願いを持っていた。そのために、この引用箇所であるように、悪に打ち勝つ力と奉仕を実行するための守り、そしてローマの信徒たちと共に慰め合うことができるように祈ってほしいと願っているのである。
パウロの心に常にあったのは、自分だけの祈りで終始するというのでなく、祈りの共同体、互いの励まし合いを具体的になす共同体なのであった。
自分は何も他者に与えるものを持っていない、という人もいるかも知れない。また人から受けるものもない、という気持ちの人もいる。 そうしたことが重なってくるとき、人のなかに入っていくことに気がすすまなくなる。
しかし、キリスト者ならだれでも持っているものがある。それが福音であり、信仰である。神の言葉である。福音を信じたからこそ、キリスト者となったのであり、福音とは神の言葉であるからである。
それゆえに、それらの目には見えない持ち物を少しでも分かちたいという気持ちはだれにでも生じる。すでに信仰を与えられている人同士が祈りをもって会うことによって、それぞれが与えられている賜物をともに分かち合うことができる。
これは、「祈の友」が生まれた理由でもあった。「祈の友」(*)の集まりは、今から八〇年近く前の、一九三二年に結核で苦しんでいた一人の青年、内田 正規(まさのり)によって始まった。
(*)正確には、「午後三時祈の友会」という。四国でもこの「祈の友」の集まりは続いており、今年九月二十三日(木)の休日に、香川県坂出市の大浜教会にて四国グループ集会が行われる予定。
「病苦を背負わされ、貧苦に閉じ込められ、人には見捨てられ、自分にもまた絶望…こうした涙と呻き苦しみのなかにあるとき、私の身代わりに死んで下さったというキリスト、私が永遠の祝福を受け継ぐために復活されたというキリストの福音は実に驚くべき歓喜の音信(おとずれ)であった。私は初めて真実の愛というものを知った。…」
(一九四〇年 「午後三時の祈り」内田 正規著 15頁)
この福音の力を同じように結核で死の苦しみと孤独、見捨てられた悲しみの淵にある人たちに分かち合いたいというただ一つの願いから、彼は病床にあってもできることを始めた。それが祈りであった。ともに祈りあう友を求めての呼びかけに応じる人たちが次々と現れ、それが「祈の友」という超教派の集まりとなっていった。病気の自分自身も含め、死の苦しみにある人たちのために、互いに祈り合う祈りは、教派の別あるいは教義や議論、論争などとも無関係である。
戦前の結核患者は、死の病として恐れられていた。家族や親族からも友人からもまた仕事からも見放されていた。
私は両親や親族の一部の人たちからもその恐ろしさの一端を子供のときから聞かされていた。私は、敗戦の年の十一月に、満州の奉天で生まれた。そのときすでに、八月九日以来、ロシア軍が大挙して満州一帯に攻め込み、日本人への略奪やさまざまの悪行をなし、ある者は捕らわれ、女性はひどい辱めを受け、大混乱に陥った。そのなかから日本への帰国を目指して逃げていく途中に私は生まれた。帰国はそれから十カ月も後になったがその間の困難は非常なものであったであろう。私が生まれてそうした危機的状況であったために母は体をこわし、帰国後もなれない労働をすることになって重い結核となった。
そのために、療養所に入り死ぬと思われていたが大きな手術によって命をとりとめた。そのようなことがあったから私の記憶の中では、四歳のときに初めて母に出会った。
そのような中で、結核という病気の恐ろしさを子供のときから知らされていた。その後、母と療養所時代に同室であった人が私たちの徳島聖書キリスト集会の古い会員であったことが判明し、写真もその人が持っていた。
当時は、よく療養所のある山にはいって自らの命を断ったり、近くの大きな川に身投げをする若い患者がしばしばみられたとのことで、当時の結核の人たちの苦しみや悲しみを深く思わされた。
そのような暗い絶望的状況のなかで、ほとんどの人達は自分のことが精一杯であったが、内田 正規はキリストによって点火された聖なる霊の情熱によって、他者のために祈る心を起こされたのである。
…かつての私と同じように、今なおやるせない病床に身もだえする三百万同胞者の呻吟が聞こえて、私がこの病苦によって神の福音に接したごとく、彼ら一人一人が神の子の生涯に新生させられるようにと祈らずにおれない。「祈の友」はこの祈りを使命とするものと考える。…
もとより、生来の人間には、神の愛を実行する力がなく、それはまったく不可能なことである。しかし、心を神に向けることだけはできる。せねばならぬ。人が人であって動物でない以上、自分の力では実行はできなくとも、心だけは、気持ちだけは、祈りだけは清き高き神の子の生涯を目標とすべきである。… (「午後三時の祈り 」16頁)
他者に、祈りをささげることができるということは、キリスト者に与えられた大きな賜物だと言える。そして、その祈りによって、神からの賜物が相手に注がれることをも期待できる。
み言葉を持ち続けることはいつでもできる。死の近づいたときであっても、そのみ言葉にすがり、また「主よ、憐れんで下さい!」という心の叫びをもち続けることができるであろう。この、「主よ憐れみたまえ!」という叫びそのものが詩篇にもあり、福音書にもあるように、これもみ言葉のうちに含まれるものなのである。
十字架で処刑された重罪人の一人は、その激しい苦しみのなか、死を迎えようとするときに、「主よ、あなたが御国に帰るとき、私を思いだして下さい!」という叫びにも似た祈りをイエスに向かって捧げた。その短い祈りを主は聞かれた。そして
今日パラダイスに入るのだとの約束をされたのであった。
そしてステパノもまた、その死のときに、自分に石を投げつけて敵意を燃え立たせているユダヤ人たちのために祈って、「主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい」と大声で叫んだと記されている。
ここでも、祈りは最期のときまで携えていけるものだということが示されている。神の言葉、祈り、そして聖なる霊といった賜物、信仰、希望、神の愛はいつまでも続くといわれているとおりである。
「祈の友」には、祈られ、祈る という言葉がある。祈られている、祈ってもらいたい、それによって神からの力を与えられたい、主の祝福を受けたい、と願う人たちは多くいる。自分はまだ十分に祈れないから、祈りの力のある人たちに祈ってもらいたいという自然な願いがある。
祈られるということの背後には、誰かがまず祈ろうとする意志を持っているということで、それは神にうながされてそのようなこころが生まれる。そうした祈りを受け取り、主の力をいくらかでも与えられたと実感した人は、あらたに他者のために祈りを始める。他者に祈りを分かとうとする心が芽生え、そうすることで、祈られ、祈る集まりとなっていく。
神のこうした祈りへと励ますご意志は、自然界にも満ちている。野山や渓流、大空や雲、星、そして野草や樹木たち、といった自然の世界はそのまま神のご意志の現れである。それゆえ、神は愛をもっての交流、祈りの交流を励ましておられるのであって、それらの自然のすがたも確かに祈りへと勧めるものである。
樹木の沈黙のなかにたたずむ姿は、とくに大きな樹木の側にたたずむと祈りのすがたとして実感されてくる。それは神の祈りへのご意志をその樹木に込めているのだと感じる。野草の花の繊細な美しさ、それは人が見るかどうかに関係なく、神のよきものを周囲に与え続けている姿である。
自然の姿、色合い、たたずまいなどそれらはすべて神の清さ、力、いのち、美しさ等々を私たちに分かとうとする神のご意志に他ならない。
とくに夜空の星は、神の永遠の光を表し、神の私たちを見つめる愛のまなざしを象徴し、いかなる雲が妨げようと決して失われることのない神の一貫したご意志をも象徴している。それはまた、私たちへの主イエスの祈りをも感じさせる。主は夜を徹して祈られた。
星々が夜をとおして光続け、見つめ続けているのも、私たちの心の受け止めかた一つでそのような主イエスの祈りを実感させるものとしても受け取ることができる。
自然のさまざまのものが、神の私たちへの祈りの一端を表し、私たちの祈りを呼び覚ますものとなっている。私たちもそこから祈りが起こされ、星のような清いものを受けたい、花のような美しさを与えられたい、山々のような力を授けられたい…と祈りが生まれる。
次のような言葉も山という自然に触発されて救いの根源へと祈りを深め得た作者の信仰が表れている。
…わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。
わが助けは、天と地を造られた主から来る。(詩篇一二一の1~2)
人間の分かち合いのためには、まず自分自身が分かつべきものを持っていなければならない。それゆえにヨハネの手紙ではそのことを第一に記している。
…わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。
わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。(Ⅰヨハネ1の3)
他のところにいる信徒たちと、私たちとの交わりを持つようにと願い、私たちの交わりとは父なる神とキリストとの交わりであると言って、神とキリストとの交わりこそが根底にあり、そのことを通して他の人達との交わり(分かち合い)が生まれていくことを願っている。
祈りや祈りをもって他者と出会うこと、働くことなどは、神とキリストとの交わりのなかにあってなされることであり、それによっていっそう神に祝福される交わりが広がっていく。ここにこそ、何にも揺るがせられない本当の分かち合いが生まれる。