リストボタン世界のキリスト教の状況特に中国について

日本のキリスト者は、一%程度というのが長く続いてきた目安であるから、百三十万人ほどだということになる。日本でいると、これは何も不思議なことはなく、学校や社会でもまた政治の世界においても、キリスト教人口が一%程度であることが、なにも問題ではない、ごく当たり前のように思われている。
しかし、一度、世界に目を向けるとどうであろうか。
日本の隣国である、韓国では人口の三十%ほどがキリスト教であり、外国への伝道活動も活発に行われている。
インドネシアは、世界一のイスラム教信徒を有する国であるが、それでもキリスト教人口は、十三%もある。
やはりイスラム教国として、その国のキリスト教などほとんど話題にもならないパキスタンにおいても、キリスト教人口は、280万人であり、二・五%ということだから、日本の二倍以上もあることになる。
また、インドについては、ヒンズー教やイスラム教ばかりで、キリスト者などいるのだろうかと思う人もいるかも知れない。しかし、インドのキリスト者の数は、人口の二・三%ほどになり、その数は約千九百万人ということになる。日本が百三十万人ほどしかいないことを考えると、キリスト者の数は日本の十倍をはるかに越える数である。
エジプトについても、日本人はキリスト教などごく少ないと考えがちであるが、実はエジプトには古い時代からキリスト教が伝わっている。それは新約聖書に はやくも記されている。(使徒言行録八章)
エジプトでは、イスラム教国ではあってもキリスト者は人口の十%に達する。
また、ほかのアフリカ諸国ではキリスト教人口は、日本人がなんとなく思っているよりはるかに多い。
例えば、ナイジェリア 67%、ウガンダ80%、タンザニア47%、南アフリカ52%などである。人口の70%、(*)。
このように、アフリカはキリスト教の信仰を持つ人が、多くいることにたいていの日本人は驚くであろう。アフリカに関しては、クーデターなど政変とかエイズ患者の多さ、あるいは一部の国々の大統領の起こした事件や問題点など、サッカーの大会とかに関しては報道されても、アフリカのキリスト教といったことについては、まったくといってよいほど報道されていない。

*)これらのデータは、インターネット辞書ウィキペディアなどによる。最後にあげたアフリカのデータは「世界60カ国価値観データブック」による。これは世界の数十か国の大学、研究機関のグループが参加して国民の意識を調査して90年から5年おきに行われている。各国18歳以上千人ほどのサンプルをもとにした数字。

こうしたアフリカにおけるキリスト教の広がりは、今から30年近く前からすでに予見されていた。
1982年に オックスフォード大学出版部から発行された、世界キリスト教百科事典(*)がある。 この事典の日本語版序文には、こうした内容を全体として把握したうえで、今後のキリスト教世界の展望として次のように記されている。

今世紀のはじめには、キリスト教徒の85%は、ヨーロッパにいたが、一九八〇年には、38・2%となった。その変わりに増加したのが、第三世界(アジア、アフリカ、ラテンアメリカなど発展途上国)である。
この第三世界の国々のキリスト教徒の人口は、今世紀はじめは、全世界のキリスト教徒の15・6%にすぎなかったが、1980年には、44・3%と大きく増加している。
アフリカ人のキリスト教徒は、1980年には、14・2%となり、2000年には19・5%になることが予測されている。
またラテンアメリカでは、1900年には、11・1%であったキリスト教徒が、1980年には24・3%となり、2000年には、28・3%になると予想されている。

*)これは、全世界223か国のキリスト教の実態・歴史を精密に記述した他に類のない百科事典とされていて、そこには各国のキリスト教の最初の歴史から現状を詳しく記述し、キリスト教とそれ以外のその国の宗教について1900年、1970年、1975年、1980年にわたって、その数の変遷など数量的にも克明に記されている。さらにキリスト教については、その国の教派を網羅して、その創設年とともに教会の数、成人信徒、教会員の数などに分けて詳しく記述されている。原題は、World Christian Encyclopedia Oxford University Press 1982 日本語版は、教文館発行で大型本で小さな活字で千頁を越える大冊である。

このように見てくればわかるが、世界的に見て、日本のキリスト者の人口が一%程度というのがいかに低いかがよくわかる。
さらに、唯一の神を信じる、ということになれば、それはさらに日本の特殊性が際立ってくる。
イスラム教も旧約聖書から分かれた宗教とも言えるから(旧約聖書をも教典に含めている)当然、唯一の神を信じる。だから、イスラム国である、インドネシアやパキスタン、イラン、エジプト等々も圧倒的多数が、唯一の神を信じることになる。 インドネシアでは、イスラム教とキリスト教をあわせると九十%であり、唯一の神を信じる人が九割ということになる。
また、エジプトでは九十%がイスラム教、残り十%がキリスト教であるから、国民のほぼ全部が唯一の神を信じていることになる。

現代において最大のキリスト教国、キリスト者の多い国はどこであろうか。それはアメリカである。人口三億人以上あるが、キリスト者は、その八割程度というから、約二億四千万人となる。
それに次いでキリスト教人口が多いのは、どこであろうか。たいていの人の予想では、キリスト教というとヨーロッパ、というイメージがあるから、ドイツやイギリスなどを思いだすかも知れない。
しかし、アメリカに次いで多いキリスト教大国は、ヨーロッパでもロシアなど旧ソ連圏の国々でもない。
それは、中国である。中国では、キリスト教人口は、次のように、一億人を越えていると報道されている。数十年前までは、中国が世界第二のキリスト教の大国になるとは、だれも想像できなかったであろう。
中国のキリスト教事情については、ほとんど日本のマスコミでも報道されない。中国のことどころか、日本におけるキリスト教の実態も大多数の人はほとんど知らない。日本人はキリスト教そのもの、聖書の真理、さらにキリスト者の活動に関することは、ごくわずかしか知らないほどであるから、中国のキリスト教のことについて知らないのも無理はない。
後に引用する、現代中国のキリスト教資料集のまえがきで、中国キリスト教現代資料編纂研究会の責任者である、竹内謙太郎氏も次のように書いている。

否定的であれ、肯定的であれ、特に中国の歴史状況への無理解と誤解は絶望的といってよいほどです。
私たちの教会においても、中国にキリスト教会が存在することを知らない人々が多いのに驚かされます。ましてや、諸教会の中国での活動の状況を熟知することはほとんどありません。」

このような、マスコミや知識人たちの知識、関心の空白地帯といえる現代中国のキリスト教について近年では初めて短いながらも報道したのは、朝日新聞であった。

政府非公認の地下教会。病人を見舞って祈り、貧しい人には集めたお金を渡す。活動に魅力を感じた信者が80年代末から激増、地区住民約三千の三割に達した。
責任者は「共産党は口先だけで何もしない。不公正な社会に希望は見いだせない」。49年の建国時に400万人だったキリスト教徒は今、政府公認団体では、2100万人、地下教会を含めれば1億人以上とみられ、7500万人の共産党員をしのぐ。中国は屈指のキリスト教国である。(「朝日新聞」二〇〇九年九月三十日)

朝日新聞では、このように紹介して、中国におけるキリスト者の増大は、キリスト者の弱者に寄り添おうとする姿勢によるという書き方であるが、そうした社会的活動に惹かれるだけでは決してキリスト者とはならない。
十字架の福音や復活の真理が渇いた魂に水がしみこむように入っていくからこそキリスト信徒となっていく。
共産党支配のもと、人々は神などいない、宗教は阿片だといった考え方を子供のときから徹底して教え込まれて、魂の平安を与えられなかった。そこに、目には見えない愛の神が存在し、私たちの心の深いところの汚れたもの、罪を清め赦して下さるといったことは、聞いたことのない斬新な真理として感じ取られたのがうかがえる。 まさに干天の慈雨として受け取られていったのであろう。

また、中国のキリスト教については、次のように記されている。

「中国には古くからキリスト教が伝来しているが、長い間イデオロギーの締め付けを主な目的とした宗教活動の制限や監視がされている状態が継続していた。しかし、改革開放政策の進展による経済格差や情報通信の発達などにより共産主義イデオロギーの絶対性が崩壊し、それに代わる精神のバックボーンとしてのキリスト教への帰依が都市部を中心に急速に進展しはじめた。
そして、国策に擦り寄る姿勢の仏教(政府から弾圧を受けているチベット仏教を除く)の不人気とは対照的に爆発的な浸透を農村部の深部や辺境地まで広げつつ教勢を増している最中であると伝えられている。
在米の中国人人権活動家や在日本の中国人ジャーナリストなどの知識人が把握している直近の状況では当局の監督下にある国家公認教会と非公認教会の合計が人口の10%を超える段階に達しており一億三千万人を超えているという情報が有力である。」(「ウィキペディア」による)

ヨーロッパの代表的な国である、イギリス、フランス、ドイツなどは人口は六千万~八千万人余であり、キリスト教は七十%前後であるから、それらの国のキリスト教人口は、大体四五〇〇万~五六〇〇万人ということになる。
ロシア、ウクライナ、ベラルーシなど旧ソ連圏の国々のキリスト者人口をあわせると、約九千万人だという。(キリスト教ハンドブック 三省堂)
このように、中国のキリスト教人口が一億数千万人というのは、確かに、世界第二のキリスト教大国だということになる。
中国のキリスト教徒の数は、最初に中国にキリスト教が伝来した一八〇七年から、一九四九年の中華人民共和国の成立までの一五〇年ほどかかって、信徒の数は四〇〇万人となった。
しかし、それから六〇年たった現在、信徒の数は、一億三〇〇〇万を越えているという。六〇年間で三十数倍にも信徒が増大したということになる。
しかも、中華人民共和国成立後は、徹底した無神論思想こそが真理だとされたから、毛沢東の死の一九七六年のころまでは、キリスト教の信仰の広がりは相当困難があったと考えられる。それゆえに、実質的にキリスト教が急激に広がり始めたのは、それ以降、一九八〇年頃からと考えられるから、なおさら、この現代中国のキリスト教の広がりの速さは驚異的だということになる。このような急激な増大は、長いキリスト教の歴史においてもほかではみられなかったほどであろう。
富坂キリスト教センター編によって出版された、現代中国のキリスト教資料集からもこうしたいちじるしい増大に触れられている。
一九八〇年代以降、中国のキリスト教では、毎年六〇〇箇所前後の教会堂が再建、新築されており、今まで(一九九八年まで)の累計ですでに一万二千箇所を越えている。
これに加えて全国各地、主に農村地区に分布する二万五千の集会所がある。
中国キリスト教会は、一九八〇年から一九八七年までの七年間で、三〇〇万冊の聖書を発行しているが、さらに八〇年~八八年までの累計では、二〇〇〇万冊に達して、中国キリスト教会は、今や、世界で聖書の年間印刷数が最も多い教会となった。(富坂キリスト教センター編「原典 現代中国キリスト教資料集」新教出版社 二〇〇八年刊 六九六頁)

こうした中国のキリスト教の状況に実際に触れた人からの報告に触れてみたい。
これは、「いのちの水」誌 一九九九年十二月号に掲載した、中国のキリスト教事情についての小文であるが、ここにその一部を再度掲載しておきたい。
これは、その頃、河野正道氏(関西学院大学経済学部教授)から、筆者(吉村孝雄)に宛てた個人的な手紙に書かれていたことであるが、中国のキリスト教の実態については、この手紙を受けてから十年以上を経た現在でもきわめて情報が乏しいからである。
河野さんは、中国の大学への出張講義で出向いたおりに、中国の教会に実際に参加し、そこで見聞きしたこと、牧師から話しを聞いたりしたことを書き送って下さった。

私がまず訪問したのは、遼寧省瀋陽市の朝鮮族の教会、西塔教会でした。そこの牧師さんは、以前、関西学院に講演のために来訪されたことがあったからです。その教会は説教も聖書も賛美歌もすべて朝鮮語であり、私には説教は「ハノニム(神様)」という言葉以外は全く分かりませんでした。しかし、賛美は力強く活き活きとしていました。
 その教会の現在の会員数は千五百人であり、十五年前には五百人でした。かなりのスピードで成長しています。また、瀋陽市内の漢民族中心の教会の出席者数を合計すると十万人になるとのこと。瀋陽の人口は二百万ですから、人口の十%、これはかなりの数と言えるでしょう。なお、この教会の牧師さんは数名おられるようですが、私がお話をさせて頂いたのは女性の牧師さんで大変に流ちょうで正確な英語を話す方でした。
 今年の春、関西学院を訪問された中国キリスト教協議会の韓文藻会長はその講演の中で、「中国にはたくさんの聖書があるから密輸しないように」、と言われました。確かに、中国で聖書はふんだんに売られており、その価格は、中国語の聖書が十二元(百八十円)、朝鮮語の聖書が二十元(三百円)でした。なお、聖書は、一般の書店には並べられておらず、教会の売店で売られています。しかしそれは、教会員だけに販売するのではなく、一般の外部の人にも販売しています。そのとき氏名や住所を尋ねるということはありません。だから誰でも気軽に買うことができるとのこと。
 この十二元、二十元というのがどれほどの金額であるかというと、市内のバス代が二元、タクシーの初乗り料金が五元、ホテルのご飯一杯が.五元です。一方、所得の方は、大学教授の給料を例にとれば、これは地域によって数倍の開きがあるのですが、私が訪問した吉林大学では、教授の給料は月に二千元+ボーナス(専門分野によって異なりボーナスがない分野もある)とのことですから、聖書はかなり安い値段で売られていると言えるでしょう。
 次に訪問したのが、吉林省長春市の長春市キリスト教会です。ここは漢民族の教会であり、長春市では一番大きな教会です。なお、同じ名称で朝鮮族の教会も別にありました。この漢民族の長春市キリスト教会も急速に会員数が増えています。文化大革命前は百~二百人でしたが、(文革中はゼロ、教会堂は印刷工場として接収されていた)文革後の新宗教政策の下で千人に増えて、現在では一万二千人となっております。最近の特徴としては、若い人が増えたこと、高学歴の人が増えたことです。九七年には四千人が同時に礼拝できる巨大な会堂を建設しました。
 日曜日の礼拝は四千人ずつの三部礼拝です。訪問した翌週の日曜日まで長春に留まり、礼拝に出席した私の同僚から聞いた話によりますと、その日は聖餐式を行い、会堂に入りきれない人が外の階段まで溢れ、聖餐のパンを配り、盃を回収するまで一時間かかったとのこと。その間、四千人の賛美が続いていたそうです。その教会には牧師さんが五人おりました。

このように、文中で引用されている長春市の教会は、この五十年ほどで百倍ほどにもキリスト者が増えたということになること、四千人も同時に礼拝できる巨大な教会が建設され、四千人ずつ三回も礼拝しているなど、日本では考えられないキリスト教の広がりの力がそこに現れている。

また、ふとしたことから中国人キリスト者と親しい関係を持つようになったある女性が、インターネットに次のような記事を載せている。前述の河野さんが書いているのは実際に中国に行っての体験であるが、これは、日本にいる中国人のキリスト者との関わりから知り得たこととして書かれている。(これは、日本キリスト教団佐世保教会で、二〇〇八年の六月に話された内容である。)

結局私は、もといた教会から彼らの教会に移り、たくさんの中国人キリスト者の友人を与えられることになりました。そしてそれと同時に、聖書に触れる機会も増え、迷いに迷っていた私の心にも、ある種の確信が与えられるようになりました。
またあの当時、イエス・キリストや聖書について熱く語り、行動していた彼らの信仰は、今でも忘れられない、強い印象を私に残しています。祖国に帰れば教会で礼拝するどころか、迫害される危険性を孕んでいるにもかかわらず、いや、だからこそ、彼らの信仰は熱く、強いものとなっているように感じました。
彼らの情熱は、日本で生まれ育ち、自由な生活を満喫している私には、到底及びもつかないほどの力をもって、私に迫ってきました。幼い頃からマルクス主義や唯物論を学んでいる彼らが、その理論に失望し、なおも熱心に(キリスト教の)真理を追い求める姿には、強く心を揺さぶられました。
その教会は中国大陸にも分教会がありましたが、中国当局に認可されていない、地下教会というものでした。陳さんたちを通じて、私も地下教会に所属するキリスト者とも交流しましたが、彼らは逮捕や拘留されたこともあった、と話してくれました。その人の話では、地下教会の宗教活動は公にはできないので、個々の家庭に集まって礼拝を守っており、伝道もなかなかできないということでした。彼らとのインターネット上のメールのやりとりでも、一時は中国当局による検閲のため、用いる単語にも配慮するなど、気を遣うこともありました
中国当局の宗教に対する姿勢についてご説明したいと思います。
1954年に公布された中華人民共和国憲法では、信教の自由を規定してはいました。しかしその後の文化大革命によって、大迫害を受けたのは先に述べた通りです。その後、1982年に憲法が改正された際に、改めて信教の自由について認められるようになりました。
しかし、これには中国共産党による「認可」が必要となります。まず現在、中国で公認されている宗教は道教、仏教、イスラム教、キリスト教・プロテスタント、キリスト教・カトリックの五つの宗教です。公認宗教は公開の礼拝所での礼拝を許されており、共産党の愛国主義的な指導を受け、国家宗教事務局という機構により管理されています。
そして、実際に教会堂の建設を行ったり、宗教活動を行ったりすることが可能なのは、政府に登録して認可を受けた教会のみで、それぞれの宗教の活動は、この国家宗教事務局が認定した場所と時間に、認定された聖職者によって執り行われなければならないそうです。
公認教会で作成された信徒名簿は政府に提出され、すべての信徒が把握されているとのことでした。また、未成年者への宗教教育は禁止されており、幼児洗礼も禁止であるそうです。中国の国民は幼稚園から大学まで、みっちりマルクス主義の唯物論を学ぶのだそうです。
法律上での信教の自由とは、先に述べた公認宗教及び教会のみについての自由であり、それ以外の非公認宗教及び教会は「邪教」とされ、弾圧が正当化されています。この弾圧の対象となるものの中には、中国と国交を断絶している、バチカンに追従するカトリック組織も含まれています。弾圧というのは、公安当局に逮捕や拘留されたりするほか、「法輪功」のような政府に批判的な団体などには、投獄、拷問、処刑も行われたりしているようです。
しかし、先ほど述べたように、現在ではこの状況も地域によっては若干変わってきているそうです。
四年ほど前から、上海に住んでいる陳さんからの話です。上海の地下鉄の車中、大勢の他人の目がある中で、キリスト者たちが聖書を開いて話し合ったり、賛美歌を練習したりしている様子を見たことがある。
日本人向けのフリーペーパーで、日本語での家庭礼拝のメンバーを堂々と募集する広告がある。また彼女は、今通っている国家公認のプロテスタント教会の説教で、浙江省温州という人口約800万人の都市に、イエスを信じる人が80万人もいるという話も聞いたことがあるそうです。
それ以外にも、今まで書店では販売を許されず、教会内でしか手に入らなかった聖書も、上海ではキリスト教専門書店がオープンして、そこでも販売されているようでした。
(中国語翻訳者 福田彩子さんのブログから、本人の許可を得て引用。)

河野さんの報告や直接に話しを聞いたときにも、中国のキリスト者たちの熱心が伝わってきた。そして日本における中国人キリスト者たちの真理を愛し求めていく熱心とその力は、このブログの著者の心にも強い影響を与えたという。
日本のような異国にあって、しかも周囲は豊かな生活をしている人たちが多いなかであっても、そこに押し流されず、かつ、祖国に帰ってもその信仰は苦難を伴う可能性が高い状況にあったからこそ、かれらの内に信仰の熱心、主に従って生きようとする心が強められていると考えられる。
キリスト教の真理は、ゆたかな恵まれた生活、危険のない生活においては十分に染み渡っていかない。初代のキリスト者たちのあの燃えるような熱情は、たえざる危険と困難がすぐ身近にあったことと結びついていた。今日のヨーロッパが制度的に恵まれ、生活の安全が保証されている社会になっている国々が多く、そうした安全かつ豊かな生活においては、燃えるような信仰の熱は減少していく。そして次第に物質的な満足への熱心へと傾いていく。
こうした世界の状況に接してあらためて知らされるのは、神の力である。すでに二千年前に主イエスが言われたように、「神の力は弱いところに現れる。」(コリント十二の九)
物質的な豊かさ、安全の保証、法律や制度の充実というものが整えられてくるとき、人間は切実な叫びを神に向かって捧げることが少なくなっていく。政治や施設に要求し、それらの目に見えるものを何でも手に入れる力を持つ金に頼ろうとする傾向が強まる。それとと共に、神に頼ることが少なくなっていく。
ダビデは今から三千年ほども昔の王であった。彼は子供のときから勇猛果敢、竪琴を弾く、詩作にも特別に恵まれている、武将として人々を率いて戦うすぐれた能力もあった。その才能ゆえに王に用いられるが、次第に王のねたみを受けて命までねらわれることになる。しかし、ダビデはそのような理不尽な王の追跡や迫害にもかかわらず一切武力をもって反撃しようとしなかった。そしてただ逃げるだけであった。そのような苦難は、詩篇の一部からも窺い知ることができる。
そのように弱さがあるときに、神の力が注がれ、その神への切実な叫び、祈りは詩篇の中にもくみ取ることができる。
しかし、彼を迫害して殺そうとした王が戦死し、ダビデが王となって国々を支配して豊かさと安定がもたらされたとき、ダビデに決定的な出来事が生じた。それは重い罪であり、死罪となるほどのものであったが、彼はその重さに気付かず、一年ほども経ってから預言者に指摘されて初めて気付くという状態であった。
みずからがどれほど神から離れてしまっているか、言いかえればいかに罪深いか、を知ることがなければ、その罪の赦しを乞うこともないゆえに、そこから神の祝福や力も与えられることも期待できない。
アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの発展途上国において、キリスト者が増大してきたこと、それは、キリスト教信仰の力は、さまざまな意味の弱さのあるところに現れるということをこの世界の広範な領域でも示していることである。
旧約聖書においても、その信仰の力は、詩篇によくみられる。「主よ、憐れんで下さい!、助けて下さい!」と全身の力を込めて叫ばざるをえないような心、そこには自分の力に誇るところがまったくない。まさに主イエスが言われた「ああ、幸いだ、心の貧しい者たちは!」ということにあてはまる。
新約聖書においても、主イエスのところに、全身を投げ出し、心からの信頼をもって来たのは、精神的に「持たない人たち」すなわち、放蕩息子のように自分の罪を深くしらされ、立ち返ろうとした人たちであったし、また、健康や幸せな家庭、経済的安定等々を持たない、ハンセン病、全盲、ろうあ者、病人あるいは、そうした苦しむ人を身近に持っている人たちであった。
こうしてみるとき、神の力は、たった一人の病める心の人、孤独に苦しむ人という弱い人のところに与えられるし、世界的に貧しく、弱い人たちの国々にも現れるということが分る。
現代の混沌とした世界にあって、世界の無数の人々はこうした弱さに苦しんでいる。豊かな国々においては精神的な闇が立ち込めている。
この私たちの心に、また家庭や職場の至るところにある弱さのただなかに、そして世界のさまざまの地域の貧しく苦しむところに、神の力が来て欲しいと願うものである。そしてそのためにこそ、一人一人にさらなる神の力が注がれ、その力をもって、周囲の人たちに神とキリストを紹介していきたいと思う。


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