詩の中から
一、泉のように
人が私をほめてくれる
それが何だろう
泉のように湧いてくるたのしみのほうがよい
(八木重吉 「八木重吉とキリスト教」教文館発行 158頁)
・人から認めてもらい、あるいはほめてもらったときの喜びも大きいだろう。逆に人からけなされ、否定されたために性格がゆがんでしまうことも多いのだから。
けれども、それはどこか浅く、またうつろう喜びでしかない。すぐまた、人から批判され、認めてもらえないことが生じるだろうから。
そうした外からくるたのしみや喜びと違って、内から湧いてくる喜びがある。
主イエスが言われたように、聖なる霊が与えられると、魂の内奥から泉のようにあふれてくるものが生じる。 それこそ、周囲によっては動かされない喜びである。
そしてまた、この世にあって、泉のように湧いているものを見出したときも…。
二、主にゆだねよ
主の御手から 苦しみも喜びも
安んじて受け、決して気を落としてはならない
主はあなたの運命をすみやかに変えて下さる
しかし、それを悪くするのは、あなたの嘆きだ
いたずらにあなたを苦しめるために
苦難が与えられたのではない
ただ信ぜよ、まことのいのちは
悲しみの日に植えられることを(ヒルティ「眠られぬ夜のために上3月15日」)
Leid und Freud aus seinen Handen
Nimm getrosst; versage nimmer;
Rasch kan er dein Schicksal wenden;
Doch dein Klagen macht es schlimmer
Leiden ist dir nicht gegeben
Um dich ohne Not zu plagen;
Glaube nur ,ein wahres Leben
Wird gepflanzt in truben Tagen.
三、ひとつになることの祝福
見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、
なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。
それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。
それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。
それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。
主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。(詩篇百三十三)
この詩は何を言おうとしているのか、特に後半は一見あまりにも私たちとは無関係のように見える。
油が注がれてひげにしたたるととか、ヘルモンにおく露などといってもおよそなじみのない世界である。
これは、神を信じる人々が心を一つにして住んでいることに対する祝福を告げている詩である。
それはともに一つの共通の神を見つめているからこそ可能であり、そこから来る霊的共同体のすばらしさを歌っている。
これははるか後に主イエスが、私の名によって二人、三人集まるところには私はいる、と約束されたことを思い起こす。 主によって一つにされた人たちは必ず祝福を豊かに受ける。この詩は、そのすばらしさの実体験なのであり、また神がそのことを喜ばれるのである。
使徒ヨハネも、互いに愛し合え、その愛のなかに神はいます、と強調した。
そのような共同体にこそ、天よりの賜物、ここではかぐわしい油とかヘルモン山におく露とたとえられている。油とはもともと王や大祭司に注がれる特別に調整されたもので神の本質が注がれることを意味する。
ヘルモン山にしたたる露は、神の山シオンにも注がれ、渇ききった植物たちを生き返らせる。そのように、兄弟たちが主にあって愛をもって住んでいるところには、いのちの露が注がれるというのである。
人間は自分というのにこだわるからこそ、主にあって一つとはなかなかなれない。だからこそ、ここでこのようにそれが主の力により克服されたときに現れる霊的な新しい世界、祝福豊かな世界が描かれているのである。