リストボタン権威を与えられるということ

現代において、何をするにも権威(資格)がいる。会社に就職するにしても、高卒の資格を必要とするところは非常に多いし、教員や医者になるとか、はりやマッサージをする、パイロットになるなど、当然資格が必要である。会社に入社するにしても、試験を受けて一定の評価を与えられないと入れない。
イエスの時代にも、資格、権威ということが大きな問題となることがあった。
イエスが神殿の境内で教えていると、祭司長や民の長老たちが、「何の権威でこのようなことをしているのか、誰がその権威(資格)を与えたのか」と詰問した。イエスの当時も、神殿で語るには、当時の議会での承認を受ける必要があり、その議会のメンバーとは、祭司長や長老、律法学者たちであった。権威者たちから認められて初めて神殿で教えたりすることができたのである。
イエスはそのような認定や資格を得ることなしに、教え語っていた。
宗教の世界でも、例えばキリスト教でも、一般の教会では、牧師や神父になるためにはそれなりの資格が必要とされる。
この世はそのような資格や権威ある組織や人間によって認めてもらわねばいろいろなことができない。
このイエスの当時も同様であった。そのとき、イエスは、自分が人々を教えているのは神から直接にその権威を与えられているからだということをあえて言われなかった。
真理に耳を傾けようとするのでなく、イエスをわなにかけようとするような悪しき意図をもって近づいてくる心のかたくなな人たちには、イエスは真理を語らなかった。
このことは、私たちにおいてもあてはまる。自分の考えにこだわっていて、それが正しいと信じているかぎり、神の国の真理は入ってこない。主イエスが「幼な子(*)のような心で神の国を受けいれるのでなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ十の十五)と強い表現で言われたとおりである。

(*)この幼な子と訳された言葉(ギリシャ語でパイディオン)、生後八日の乳児にも使われている。(ルカ福音書一の五九)

イエスが言われたように、幼な子のように真っ直ぐに仰ぎみることによって神の国に入る、すなわち神が実際に支配されている目には見えない世界に入ることが許される。それによって権威が与えられる。神の国に入らない者には、神の国にだけあるそのような価値あるものは与えられないということになる。
キリスト教の中心にある真理は、キリストの十字架の死は私たちの罪を身代わりに負って下さった、ということであり、そのことを信じるだけで実際に赦しの実感を与えられ、感謝が湧いてくる。
また、ペテロたちによる最初の福音伝道は、キリストは死の力にも勝利して復活したということを証言することであった。キリストの復活を信じるという、ただそれだけで、福音を宣べ伝える権威(資格)が与えられた。真のキリスト教はきわめて単純なのである。
これは誰かの個人的な意見とか考え方、特定の教派だけのものということではない。あらゆるキリスト教の教派が生まれた根源である聖書そのものに記されていることである。
キリスト教は、キリストが殺されてしばらくしてから突然強力な力をもって福音が伝えられていくようになった。ふつうの人間なら、そのリーダーが殺されたりすればそれでその運動は消滅していくというのが実に多い。
だが、キリスト教は逆であった。リーダーであったキリストが殺されたにもかかわらず、全世界に向かってめざましい福音伝道の働きが生じていったのである。
その弟子たちが聖霊によって力を与えられ、キリストの復活を宣べ伝えはじめたときも、イエスの時と同様に、議会の議員たち長老、律法学者たちが次のように非難した。

「お前たちは、何の権威によって、誰の名によってああいうことをしたのか」(使徒言行録四の7)

弟子たちは、十二人のうち、四人までは漁師であったし、ユダヤ人から憎まれ、差別されていた徴税人、ローマ帝国の支配に武力闘争を企てるような人も含まれていたのであって、そういう人たちが、ユダヤ人の議会から宗教上のことを他人に教える資格が与えられるなど、考えられないことであった。
そのような全くの無資格者が突然宗教上の主張、証言をたくさんの人々の前ではじめたのであるから、当時の支配者たちが驚き、怒ったのも当然のことだと言えよう。人々の上に立っていた祭司などの指導者たちは、弟子たちを逮捕し、牢に入れた。翌日弟子たちを引き出して問いただした。何の権威によってそのようなことをするのかと。
弟子たちは、そうした支配階級の人たちの詰問に対してどのように答えただろうか。答え方によっては牢から出してもらえずに、暗く汚い牢で病気になるか、厳しい処罰などを受けて生きていけない、家族もどうなるか分からない…といった状況があった。将来のことを考えたら、到底安心できない不安や恐れがあった。
しかし、弟子たちは、そうした人間的なものを見つめず、真っ直ぐに神を見つめ、神のなさったわざ、すなわちキリストの復活ということを見つめていた。
その姿勢こそは、主イエスが言われたこと、幼な子のような心であり、神のわざたる復活の事実をのみしっかりと見つめていたのである。そのような姿勢はすでに真理を宣べ伝える資格、権威が与えられていたことを示すものである。
彼らが主イエスの復活を信じたとき、その資格は与えられ、それからしばらく後にみんなで集まって真剣な祈りの日々を重ねていたときに与えられた聖なる霊こそは、その資格を実行に移していく力を与えることになった。
イエスとともに十字架にて処刑された重い犯罪人も、死のまぎわにイエスが、殺されてもなお復活し、神のもとに行くことを信じていた。弟子たちすらキリストの復活をなかなか信じられなかったのに、この重い罪人はいかにしてそのような信仰に達したのか、記されてはいない。それは、神ご自身がその犯罪人の魂に直接に触れたからであった。
また使徒パウロも、キリストの真理を迫害して撲滅しようと全力をあげていた。そのさなかにキリストの光を受けて突然キリスト者に変えられた。そしてただちに、キリストの復活を証しし、十字架の死が人々を罪から救い出すためであったことを宣べ伝えはじめた。
ここでも、ただ信仰によって、また神からの一方的な光によって福音を伝える資格、権威、そして力が与えられたのがわかる。
このように、キリストの十二人の弟子たち、そして最大の使徒といえるパウロも共通しているのは、キリストから直接に権威を与えられたということである。
これは現代の私たちにとっても重要な結論を与えるものとなっている。
私たちもキリストの福音を宣べ伝えるためには、何等人間や人間の作った組織による承認などは不要であるということである。直接に神(キリスト)からの光を受けること、信じること、そして聖なる霊を受けることによって誰でもが、福音を伝える権威(資格、力)を与えられるということなのである。
これは特定の教派とか、だれかの個人的考えということでなく、聖書そのものが語っていることであり、ペテロやパウロたち使徒自身が経験してきたことなのである。
わたしも、ただ主イエスが私たちの罪を身代わりに担って死んで下さった、と信じるだけで全く新たな世界、目には見えない世界へと導かれた。そして福音を伝える力(資格)を与えられた。
万人祭司というのはプロテスタントの特徴だというが、そしてあたかもルターの考え方だと言われたりするが、それは実はルターの個人的意見というものでなく、聖書そのものが次のような箇所において述べていることなのである。

…あなた方は、選ばれた民、王の系統をひく祭司、聖なる国民、神のものとなった民である。 (ペテロ前書二の九)
…わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように。 (黙示録一の六)

このような聖書の箇所をそれまでは軽視していたが、ルターがその箇所の重要性に気付いた、あるいはその重要性を特に啓示されたということなのである。万人祭司ということは、キリストを救い主として信じて受けいれた人は、みな祭司、すなわち神と人とを橋渡しする存在になる、ということなのである。

神とキリストを信じた者には、ある権威(資格、力)が与えられる。それはすでに述べたように福音を説くということである。そしてさらに、病をいやし、死んだような者に新たな命を与え、悪の力を追いだす権威をも与えられた。これらの力(権威)は、多くのキリスト者にとっては与えられていない、と考えられがちである。
しかし、信仰を与えられた者が病気に悩む者に福音を伝えたことにより、その病気の人が新たな力を与えられて、心に光を得、その病気の重荷がずっと軽くなっていく、ということは一般のキリスト者にも経験されることである。死んだような絶望的な人にもやはり福音を伝えることによって生き返ったようになって新たな生活をはじめていくということもある。また、悪しき習慣からどうしても抜け出せない人がそこから解放されたということもある。
このように、イエスが、生前に弟子たちに与えた特別な権威は、やはり現代でも与えられている。
さらにヨハネ福音書においては、罪を赦すことさえも与えられると記している。

…そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
(ヨハネ二〇の二二〜二三)

罪を赦すということは、魂の最も奥深いところのことであって、人間には決してできないはずのことである。しかし、ここでは、重要な条件がある。それは聖霊を受けるということである。聖霊とは神やキリストご自身の霊であり、その聖霊が深く留まるなら、その聖霊が他者の罪を赦す力を発揮するということである。
別の箇所で、次ぎのようにも言われている。

…あなたがたに真実を告げよう。わたしを信じる者は、わたしのしている働きをする。そればかりか、もっと大きい働きをする。 (ヨハネ十四の十二)

このようなことは、普通に考えると到底ありえないことである。イエスは神の子であり、神と等しい力を与えられているのであって、我々人間は罪深く、少しのことでも動揺し、決心してもなかなか実行できないような弱いものにすぎない。それなのにどうしてこのようなことが言われているのか、だれしも不可解に思うところである。
これも、イエスを本当に深く信じるとき、そして同じヨハネ福音書で言われているように、イエスのうちに留まり、イエスが私たちのうちに留まるならば、何でも求めよ、そうすれば与えられる。という約束に含まれることである。相手の罪の赦しさえ求めると、赦されるということである。 それは弱い人間がすることでなく、私たちのうちに留まっておられるキリストがなされるのである。先のキリストの言葉も、イエスの生前の働きは、肉体を持っていて、イスラエルの失われた羊のところに行くという限定された働きであったが、弟子たちが豊かに聖霊を受けてからは、広くローマ帝国全体に伝えられた。弟子たちが祈って聖霊を待ち望んでいたとき、突然大きな風の音のように聖霊が注がれ、ペテロたちは力強くイエスのことを証言をした。それによって信じるようになった人は、三千人にも及んだという。(使徒言行録二の四十一)またそこから全世界へと伝える働きがなされていった。それはたしかに、生前のイエスよりも大きな働きをしていったということになる。
このように、神の本質である聖なる霊を受けるとき、人間は到底予想もできなかったようなことをなすようになる。
これは、神の子になる権威(資格、力)を与えられたからである。
このように、汚れた弱い者であるにもかかわらず、神の子供たち(*)としていただける。

(*)「神の子」と訳されているが、原文は、テクナ セウー tekna theou であって、神の子供たち である。英語訳では children of God となり、ドイツ語、フランス語など他の外国語訳でも、すべて複数形として訳している。日本語には複数形がないために、単数のように受け取られ、イエスが「神の子」であるのと同様に神の子となるのか、とまちがって受け取られる可能性がある。イエスは神の子である、というとき、原文の表現は、ヒュイオス セウー であって「子」という原語が異なる。

人間はだれでも神の子(子供)であるのに、なぜイエスを信じた人だけが神の子供たちになるのか、しかも神の子となる権威(力)を与えられる、と書いてあるのだろうか。
たしかに神が創造したという点では、どの人間も神の子供たちだと言えよう。だがそのように神の子を広く考えるなら、動物も植物も無生物もみな、神の子供たちだ、ということになる。
聖書では人間は誰でも生まれつき神の子供だ、という表現はどこにも見られない。神が創造されたゆえにある意味では神の子供たちである。しかし、子供であるなら創造した神を「お父さん」と呼ぶはずであるが、自然のままの人間にはそのようなことはない。
 特に日本人は大多数の人がそのように呼ぶことはない。唯一の神そのものを存在しないと考えているからこのことは当然であろう。
 生涯のあるときに、何らかの啓示を受けるのでなければそのように目に見えない方に心を注ぎ、魂の父親と慕うようにはならない。
だが、イエスを信じたときから、私たちはイエスと共にあり、イエスを派遣された神を魂の父親として感じるようになり、神様に対して、「お父様」と言えるようになる。
そのとき初めて神の子供たちの一員となったわけである。普通の親子でも、子供が親を親と思わず、暴言や暴力をはたらくなら、そのような子供は形式的には親子であっても、心のなかではつながりが断たれている関係である。 逆にたとえ血縁はなくとも、貰い子であっても、その育ての親を敬愛して心からお父さんと呼ぶことができているなら、その関係は本当の親子の関係だと言える。
神と私たち人間との関係も同様であって、神が真に父であるなら、神をお父様と呼び、神の側からも私たちを愛する子供として扱って下さり、父親が子供の願いに応じてよいものを与えるように、神も必ず慕い求める子供の願いを聞いて下さっていると信じることができる。

…あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。(ルカ十一の十一〜十三)

ヨハネ福音書において、全内容の要約といえる第一章に、とくにこのイエスを信じる者には、神の子供となる権威(力、資格)を与えると記されているのは、このように生きた親子の関係として、たえず良きものを与えられるという特別な地位にして下さるということを非常に重要なこととしているからである。
しかも、このような地位になるための資格は、特別な修行とか能力、経験も不要である。それどころか過去にどんな重い罪を犯した者でもただ、悔い改めてイエスを信じるだけで、神の愛する子供としていただけるというのである。
十字架上でイエスとともに処刑された重罪人も、ただ悔い改めてイエスが神と同じような存在であることを信じ、死んでもよみがえって神のもとに帰ることを啓示されていた。
彼はただ主イエスを信じるというだけで、―もちろん水の洗礼や組織に入るなどはなく、直接にイエスから、「あなたは今日、パラダイスに入る」という救いの約束を与えられた。神の子供となるのだ、という宣言であった。これは最悪の人間とされた人でも、ただ信じるだけでただちに神の愛を受ける子供とされる特権(資格)が与えられるということをはっきりと示すものである。
この世が与える資格を何一つ取れないような病気の人、体に重い障害のある人、また罪深い生活をして牢獄に入れられた人、また、老年になってこの世の資格ももはや役に立たなくなった人でも、神の子供としていただき、神の国に入れていただくための資格を失うことはないのである。

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