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主の平和に向かって
旧約聖書のサムエル記というのがある。今から三千年ほども昔のことを記している書物である。それは上下に別れていて百ページほどもあるかなり内容の多い書物である。サムエルは上巻の半分ほどにしか現れず、サムエル記の多くの部分はダビデが中心の記述となっている。にもかかわらず、書名がダビデ記でなく、サムエル記となっていることのなかにも、サムエルの歴史的重要性が古くから人々のなかに刻まれていたからであろう。
サムエルという預言者の重要性、それは王のいなかったイスラエルに、王という存在を導いた人物であり、そこからダビデ王も現れ、その子孫としてキリストが現れることになった。このことから考えても、サムエルは歴史の流れのなかで神の言葉に従い、大きな分岐点を作った人物ということになる。
そのような重要な役割を果たしたサムエルは、ハンナという一人の女性の苦しみと悲しみから生まれた。ハンナの夫は妻が二人いたが、そのうちの一人は子供が生まれたが、もう一人の妻ハンナには子供が生まれなかった。そのために大きな苦しみを受けていた。
子供が生まれないということは、古代にあって非常な恥とされ、大きな苦しみとなっていた。
当時は女に子供が生まれないということは神の罰を受けているという見方をされたこともあり、大きな苦しみであった。その上に同居している家族(夫のもう一人の妻)から見下され、敵視され、ハンナは耐えがたい苦しみを持つことになった。
普通なら、ハンナはその苦しみを相手にぶつけて憎むとか絶望してしまうところである。しかし、ハンナは相手がひどく自分をいじめ、苦しめても相手を憎んだり、仕返しをすることなく、ただひたすら祈って、神に自分の重荷、苦しみを投げかけた。
そうした日々のたたかいのなかで、家族が神殿に礼拝のために行く機会が訪れた。
神殿で当時の宗教的儀式を受け持っていた祭司は職業的な宗教家であり、祈りは日常的なことであった。しかし、祭司の祈りは、毎日のことで真剣なものではなくなり、単に習慣的に形式的に祈っている状態であったと考えられる。
このような状態であったから、祭司の霊的状態は低かった。
ハンナはそうした職業的な宗教家とは全く異なるふつうの女性であった。ハンナが必死で祈っている姿には、そこに彼女の非常な苦しみや悲しみが当然刻まれていたはずであったが、それに祭司は全く気付くことなく、食事が終わったのになお、酒に酔っているのだと勘違いするほどであった。
このように、その祭司は、人の苦しみを見抜くことができず、共感することもできない状態であった。
しかし、ハンナの祈りがそれほどに激しいものであったことを知って、そのような祭司ではあったが、これほどの真剣さと持続した祈りを神は聞いて下さっていると分ったのである。その部分を次に引用する。
…ハンナは答えた。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。
はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」
そこで祭司エリは、
「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と答えた。
ハンナは、「はしためが御厚意を得ますように」と言ってそこを離れた。それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった。
(Tサムエル一の十五〜十八)
このように非常な苦しみのなかから主に向かって叫び、祈り続ける、それによって時至って神からのはっきりした応答を受けて、新たな力を与えられ、前進することができるようになったという例は、旧約聖書の詩篇に多くみられる。
ここではそのうちの一つを部分的に引用する。
…死の綱がわたしにからみつき、
陰府の脅威にさらされ、
苦しみと嘆きを前にして
主の御名をわたしは呼ぶ。
「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」
主は憐れみ深く、正義を行われる。
わたしたちの神は情け深い。
哀れな人を守ってくださる主は
弱り果てたわたしを救ってくださる。
わたしの魂よ、再び安らうがよい。
主はお前に報いてくださる。
あなたはわたしの魂を死から
わたしの目を涙から
わたしの足を突き落とそうとする者から助け出してくださった。
私は主の御前に歩み続けよう。
わたしは信じる、「激しい苦しみに襲われている」と言うときも、 不安がつのるときも。
主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。
救いの杯を上げて主の御名を呼び
献げ物を主にささげよう
あなたに感謝のいけにえをささげよう
主の御名を呼び、 主に献げ物をささげよう (詩篇一一六より)
ハンナが受けてきた耐えがたい苦しみ、そこから彼女の真剣な祈りが生まれた。そしてこの詩にあるように、弱り果て、死んだようになっていた状態から救い出されたのである。
この詩の作者の体験してきた苦しみと救いの事実は、あらゆる世代の人たちにおいて同じように体験されてきたと言えよう。
この詩篇の作者は最終的には、精一杯の感謝の心を捧げるということができるようになった。
ハンナの場合においても、神は老齢化して霊的には衰えてきた祭司エリを用いて、ハンナに深い安心を与えられた。ここではそのときのハンナが受けた言葉に注目したい。
祭司がハンナに言った「安心して帰りなさい」と訳された箇所は、ヘブル語文の直訳では「平安へと行け」。
であり、そのギリシャ語訳も、「平安に向かって行け」、「平安の方向を目指して行け」 といった意味を持つ。(*)
(*)平安(平和)という言葉の前に置かれた前置詞は、方向を表す エイス eisが使われている。これは英語で言えば、 to あるいは toward
にあたる前置詞である。
そのため、英語訳のなかには、そうした原語の意味を生かして、 Be going on to peace!(平安へと歩み続けよ!)と訳しているのもある。
この言葉は、そのまま新約聖書のイエスの言葉に見られる。
人々から罪の女として見下され汚れているとされていた一人の女性が、高価な香油をイエスに注ぎだした。それは自分の内なる最も重要な心の部分を注ぎだしたのと同じである。
そのとき、周囲の人たちはその女を非難し、イエスをも非難した。しかし、主イエスはその女性に言われた。「あなたの信仰があなたを救った。平安に向かって行け。(平安の内へと行け!)と。(*)(ルカ七の三六〜五〇)
(*)この箇所は、日本語訳では「安心して行きなさい」となっていて、ごく普通の言葉以上のものは感じられない訳文である。しかし、原文はすでに書いたように、「平安の中へと行け」であり、depart
into peace である。
(International Critical Commentary St. Luke 214p)
ここでも、原文では、サムエル記の箇所のギリシャ語訳と同じ表現が用いられている。平和の中に、平安に向かって行け という意味である。
さらに、この箇所以外にも 次の記事がある。十二年間も、出血の病気で悩まされ、さんざん費用も使い果たし、しかもそのような病気は当時は宗教的に汚れているとされて、一般の人たちとの交際もできないような見放された立場に置かれていた女性のことである。
その間、深い苦しみのなかから医者や祭司などに頼ってもどうにもならなかったが、どこからともなく聞いたイエスのことから彼女はイエスこそ自分をいやす力のあるお方だと確信するにいたった。
そこでひそかに群衆の中にまぎれこんで、必死の思いでイエスの服にさえ触れたらいやされると信じて触れた。そのとき、不思議な力が伝わってきてその女の病気はいやされた。イエスはそれを敏感に感じ取って、誰が自分に触れたのかと問われた。女は見つかってしまったと知り、群衆たちの前でさらしものとなって責められるのではないかと恐れおののいた。
しかし、その女に対してイエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
ここにも、同じ表現がある。平安の中へ行け! である。たしかに今救われ、長い間実感することのなかったたとえようのない平安が与えられた。しかし、それで終わるのでない。彼女の前途はさらにかぎりない平安を目指す日々となり、人生となったのである。(ルカ八の四八)
主イエスは、十字架の上から、汝の罪、赦されたり と私たちに語りかけて下さっている。そしてその言葉を信じた者は、たしかに赦された実感を与えられる。
そして、さらに「主の平安のうちにあって、平安の中へ行け(主の平和、平安を目的地として)」という声を聞く。
私たちが日頃の生活で必要としているのは、主イエスからのこのひと言である。多くは要らない。私たちの一人一人に、この闇と混乱の世ではあるが、主はこのひと言を投げかけておられる。
私たちの前途には、不安や闇でなく、主の平和がある。すべてが解決されている世界がある。そこに向かって私たちは進んでいくのである。主イエスが、最後の夕食のときに、約束されたあの主の平和がそこにある。