リストボタン神の手

チリの落盤事故から69日ぶりに救出された人が、「地下には神と悪魔がいた。私は神の手を握った」と言った。
私は、かなり注意深く見てきたが、最近20年ほどをとっても、毎日新聞は、仏教関係のことは以前から多く掲載するけれども、キリスト教関係のことはほとんど載せない状況であった。その点では、朝日新聞がずっと多くキリスト教関係のことをも掲載してきたと言える。
中国のキリスト教が一億人を越えていて、世界屈指のキリスト教大国であるという記事を去年掲載していたのも朝日新聞であった。
しかし、今回の事故に関して、毎日新聞は、一面トップの最上段に「チリ落盤 私は神の手を握った」というタイトルを置いていた。 このように第一面トップに「神」にかかわるタイトルを入れたのは、この新聞では初めてのことではないかと思う。
言いかえると、このような世界を注目させた出来事にあった人が、「神の手を握ったから救われた」という発言をしたことが日本人にとって、毎日新聞の編集スタッフにとってもまったく意表をつく言葉であったのをうかがわせるものである。
最年少の19歳の若者は、「神は、僕の人生にチェンジを与えるために坑内に閉じ込めたのだ」と語ったという。
このような、キリスト教関係の本や印刷物でよく見る表現が、日本の全国紙にしかも、第一面や社会面のトップに記されるということはごく稀なことである。
この事故のあった坑内に取り残された人のなかに、牧師であってこのような作業員の仕事をしていた人がいて、人々の精神的な支えともなったという。
日本人がもしこのような事故から救出されたときに、何というであろうか。神の手を握ったから助かった、とか、神は人生にチェンジを与えるために坑内に閉じ込めた、といったような考え方は到底できないだろう。人間を導き最善に導く神などいないと思い込んでいる場合には、こうした事故も、単に偶然としかあるいは運がわるかったとしか思わないからである。
しかし、神の手と悪魔の手、それはこのような特殊な事故にだけあるのではない。私たちの日々の生活において至る所で、私たちに差し伸べられているこの二つの手があると言えよう。
そして実に多くの人たちが、神の御手を握らず、闇の手を握ってしまったゆえに、深い動揺と混乱、そして希望のない人生を歩くことになってしまう。
そして信仰を与えられている者であっても、油断しているとユダのように悪魔の手を握ってしまう。
とくに今回のような苦難のとき、生きるか死ぬかというときに、いずれの手をつかもうとするかによって決定的な違いが生まれる。
主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者はだれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである。」(マタイ11の28)と言われ、常に御手が差し伸べられていることを示された。
しかし、祈りの心がなければ、神の御手は見えない。それゆえに、主イエスは、つねに目覚めていなさい、と教えたのである。


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