リストボタンキリスト者の成長とはどういうことか

子供を見ていると、半年や一年の間に随分と成長するのは驚くばかりである。容姿や表情、話し方、考え方や判断力などあらゆる点においてぐんぐんと成長していくようにみえる。
しかし、年齢とともに成長していかないものがある。それは他者への愛や真実、あるいは正義に向かって踏み出す力(勇気)、清い喜び、心の平和、希望…等々である。
これらは、いくら、背丈が伸び、知識、考え方が成長していったとしても、それに伴って成長していくことがない。かえって、真実さとか思いやり、心の清さ、勇気などは年齢とともに後退していく者が実に多い。
清らかさなど、幼な子のほうがずっとゆたかに持っていると思われるほどである。
キリストが復活して天に上ったのも、すべてのものを満たすため、であったという。(エペソ書4の10)
 何で満たすのか。それはキリストの賜物で満たすのである。キリストの賜物とは、あらゆる良きもの、すなわち愛、平和、喜び、神の力等々である。
天に上ってそれで終わるのでない、そこから聖霊というかたちになって、この世に再び来られた。はじめは神とともに在り、神であったキリストは、イスラエルの救いのためにこの地上に降りてこられた。しかし、イスラエルの多くの人たちは受けいれず、殺してしまった。
当時の人々は、弟子たちも含めてすべてが終わってしまったと思ったが、決してそうでなかった。
キリストは殺されて後に復活し、聖霊となって全世界、宇宙を満たすために地上に注がれるようになった。
満たす、成長するということは、新約聖書に深く刻まれている。福音書の最後に書かれたヨハネ福音書ではこのことがとくに明確に示され、著者みずからもその体験を豊かに与えられたのがうかがえる。
「この方(キリスト)の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けた。」(ヨハネ1の16)
成長するということは、このキリストの豊かさを受け取っていくことなのである。
 だから、いくら成績がよくとも、自分で判断できても、またスポーツや芸術、会社運営、政治の世界などで活躍しているとしても、このキリストの豊かさが与えられていくのでなかったら、霊的に成長しているとは言えない。
キリストの豊かさとは、その真実、愛、正義、清さ、永遠の命…等々であり、そうしたものを持っているほど精神的には成長しているということは、多くの人が実感していると思われる。
 というのは、嘘を言う、愛がなく人を見下す、金が第一で正義感もない…といったことでは、成長した人間だとは誰も思わないであろう。
キリストに向かっていくこと、そして主の豊かさが与えられていることが成長していることなのである。
このような意味においては、死に近づくまで、限りなく成長していくことができる。 しかし、多くの人は、定年退職したのち、何も仕事がなくなると急速に老化していく。
生きる目標を失うことは、老化を引き起こす。
しかし、キリスト者は、神の国というはっきりとした目標が与えられている。キリストに向かっていくこと、キリストの豊かさを受けることが成長であるならば、いつまでも可能だということになる。死を前にしていても、主に希望を置いている人はキリストに近づいているのだから、成長を続けていると言えよう。
そしてこの地球、そして宇宙も、キリストの再臨による新しい天と地への根本的変革に近づきつつあるということのゆえに、成長を続けているのである。


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