リストボタン触媒のはたらき

私たちの身近にあるものは、ほとんどみな化学反応を利用している。衣服やさまざまの家具、電気製品、あるいは紙や、食器やいろいろの製品に含まれる金属製品、プラスチック等々の製品で私たちの生活は包まれている。身近な機械である車一つとっても、自動車そのもの、そしてそのなかにあるものなど、みな何らかの化学反応によって造られている。
そうした無数の化学反応において、二種の薬品を加えるだけで激しく反応するのもある。例えば、酸とアルカリの反応は、ただ両者を混ぜるとたちまち反応するし、ナトリウムと水などもこの二つを合わせるだけで激しく反応する。
しかし、ふつうの温度ではほとんど反応しないか速度がきわめて遅い化学反応も多い。そのような場合、重要になるのが、微量であって化学反応を早くするが、自身は変化しないとみなされる物質である。それは触媒と言われている。私たちのまわりにあるおびただしい石油製品などはほとんど触媒を用いた反応により合成されていると言われるほどである。
水素と酸素が化学反応をして水となる反応は、ふつうの温度では生じない。しかし、温度を700度ほどに上げると、瞬間的に反応して、水となる。ナトリウムを水に入れると激しく発熱して水素を発生する。それが熱によって酸素と反応して爆発的に燃焼して水になるのは、試験管ででも簡単に実験できる。
この反応は、温度が低くとも、触媒があると反応させられる。水素と酸素の反応は、温度が低くても白金やパラジウムを触媒として用いると生じる。
このように、それ自身は変化しないが、反応の速さを変えるはたらきをするのが触媒である。
今年、ノーベル化学賞を受賞した研究も、パラジウムという触媒を用いて、本来なら生じない有機反応を起こさせるものであった。パラジウムというのは一般的には見たことのない人がほとんどだと思われる。白金のなかまであり、貴金属ともされる。
自然のままの状態では、このような貴金属が触媒としてかかわる化学反応などは起こっていなかった。
しかし、人間が見出して使い始めた。これは、さまざまの有用な化学反応に用いられている。
そのような有益なものが造られているとはいえ、他方ではそのために多くの環境破壊もより促進されていくという側面を持っている。触媒によって作られた石油製品は、プラスチックの器具や容器、ガソリンなどごく身近にあるし、衣服や住居、薬品など至る所で用いられている。こうした石油製品が多数の有用なものを生み出した反面では、さまざまの環境破壊、汚染も進行していった。
また、自動車の性能がよくなり、車内も快適になれば、いっそう多くの人たちが車を使う。しかしそれによって交通事故の危険性は世界的に見れば全体として多くなり、多数の人たちが命を落とし、また生涯を破壊されているし、静かな田園地帯が高速道路によってまったく環境が一変して自然が破壊されていくことも多い。 便利な化学繊維によって、その地域の産物を用いた伝統的な手作りの衣服はなくなり、新建材などの普及によって、伝統的な住居は次第になくなっていく。
よいものも造られるが、他方そのよいものがまた害を与えるものにもなっているのは、科学技術の必然的な運命なのである。目の前の紙ひとつとっても、昔は植物の繊維を合わせて造っていた。そこには何ら害は生じない。しかし、それを木材を用いて化学薬品を大量に使い、不純物を取り去って現在のような安価で強い紙ができるようになってきわめて便利になった。しかしそのために、森林破壊が起こり、得られた木材を運ぶための道路建設による自然破壊、排気ガスの増大、製紙工場からは有害な物質が排出されるということ、また、その紙によって数知れない有害な情報も出版されていくようになった。
化学反応を速める、それはまた、人間に害のあるものの生産速度も速めることにもなる。
そして、貴重な触媒というのが、地上にどこにでもある、酸素や珪素、アルミニウム、あるいはそれらより少ないが多くある鉄や銅などではなく、白金やパラジウムという、きわめてわずかしかない、従って高価な金属類である場合には、新たな問題が生じる。資源の有限性や、産出がきわめて限られた地域であることから、それらを巡って争いや経済問題が生じる。そしてそれらが有限でありだんだんなくなっていくとどうなるのか、それに対しては答えを持っていない。またなんとかなるだろうという希望的な観測をするだけである。しかし、地上の資源は確実に減少していきつつあるのであって、今後、だれも予測できないような事態も生じる可能性がある。
これに対して人間など生物体のうちにある触媒は、酵素と言われ、体内で造られる。それらの酵素は、食物として取り入れたタンパク質をもとにして合成される。それがさまざまの体内において用いられている。
食べたものが口に入ったときから、触媒である酵素がはたらきはじめ、胃や小腸などに入っていくときも絶えず各種の酵素によって分解され、体内に吸収される。
また、食物として取り入れたデンプンや糖分などを酵素によって分解し、生じたブドウ糖を用いて細胞内にてそのブドウ糖からエネルギーを生み出すときにも各種の複雑な化学反応の過程を経ているがそこにも酵素がつねに働いている。
私たちの体内で常に働いている各種の神経による伝達にはその神経の末端で特別な物質が造られ、それが刺激を伝達するとすぐそれは酵素によって分解されたり吸収される。 運動神経の末端から放出されるアセチルコリンは放出されたのちすぐに酵素によって分解されるが、その酵素が働かなかったら刺激がずっと続いて有害な症状が止まらなくなる。
このように、生物体内の触媒である酵素のはたらきがなかったら生物は生きていけないのである。

見えない世界における触媒
このような、触媒のように本来は起こり得ないことを起こすもの、そしてそれ自身は変化をしない。それは、目に見えない世界においても存在する。しかも、それは、特別な能力がなくても生じる。
それが、生きてはたらくキリストであり、言いかえれば聖霊のはたらきだといえる。
疲労して弱り、かつ空腹をかかえた多数の人たちを前に、五つのパンと二匹の魚しかなかった。しかし、主イエスの祝福によって幾千もの人たちが満たされた。それは主イエスの祝福こそ、触媒のはたらきをしているといえよう。
本来なら、遠く離れた町に買いに出かけ、しかもそのようなたくさんの人たちの分はないから、そのときから新たにつくり直していかねばならず、すでに夕方であるから仕事もあまりできず、翌日にパンを焼いていくということになる、そのような遅いことでは間に合わない。
常温ではごくわずかしかあるいはまったく生じない反応が、触媒を使うと低い温度でもたちまち生じる。
同様に、ふつうの人間にはきわめてわずかしかできない、あるいは不可能なことが、主イエスの力によるなら、たちまちできてしまうのである。例えば、自分に何か悪口を言われた、それがどうしても気になって仕方がない、とくにありもしないことを言われたというときには怒りが収まらないということもあるだろう。そして言い返すとか何か復讐のようなことをしようとすら考えるようになることもある。
そうした心に、聖霊の風が吹いてきて、いのちの水が魂からあふれるときにはそのような不快な感情はたちまち消え去っていく。使徒パウロはユダヤ人から激しく迫害されたことが使徒言行録に記されているが、それにもかかわらず、ユダヤ人たちのために、深い祈りを持ち続け、彼らのためには私がのろわれてもかまわないとまで言っている。
ステパノも、怒り狂った人々から石を投げつけられてもなお、平安を保ちかえって彼らのために祈って息を引き取った。それはまさに聖霊の力であった。
私たち人生は乗り越えることのできない高い障壁がある。その壁をいちじるしく低くし、だれもが乗り越えられるようにしてくれるのが、人生の触媒というべきものであり、それこそキリストであり、聖霊なのである。
旧約聖書における神ももちろんそのようなお方であったが、旧約聖書の時代には、イスラエル民族が圧倒的に中心となっていて、彼らのことがとくに記されている。
詩篇などは、この世のさまざまの困難を、神の力によって乗り越えようとする切実な願いであり、悪の力との戦いが赤裸々に記されている。 そして実際に神の力によって不可能と思われた病気や敵対する人間、あるいは自分の罪との戦いに敗れることなく、勝利して歩んでいったことが多くその内容となっている。
新約聖書の時代、キリストが現れてからは、それが全世界のあらゆる状況における人に与えられることとなった。
ユダヤ人においては民族的な高い壁があった。割礼というユダヤ人特有の処置をしなければ救われないなど、数々の複雑な規定、律法を守らねば救われないのであった。
しかし、キリストはそれらをすべてを、神を愛し、隣人を愛する、ということに集約された。それによって私たちとしてせねばならないことは、ただ主を信じ、十字架のキリストを仰ぐだけでよいこととなった。そうすれば聖なる霊が注がれ、隣人への愛も自ずから生まれるようにしてくださった。
この世に生きることはいたるところで、毎日、私たちはいろいろな壁があることを知らされる。それを乗り越えていかねば、落ちていく。逆戻りしてしまう。
聖霊は、そして生きて働くキリストは、私たちの毎日の生活において導いて下さるばかりでない。本来は越えられない壁を目に見えない翼を与えて乗り越えさせてくださる。最終的には死というだれもが越えられない無限に高い障壁をも、ただ信じるだけで、越えていくことができるようにして下さるのである。


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