ダンテ 神曲 煉獄篇第27歌(その2) ―浄めを終えた魂のすがた
煉獄の山の最後の環状の道を通り、そこから山の頂上に至る登りの道を上がるためには、その環道に燃えている火を潜っていかねばならなかった。それは非常な苦痛を予想させたため、ダンテはその火を到底くぐっていけないと感じた。
しかし、ひるむ彼に力を与えて火の中を潜らせたのは、その火を潜って初めてベアトリーチェに会えるという希望であった。ベアトリーチェとは、神の愛の象徴である。その希望を生き生きと保つようにと、導き手のウェルギリウスは、ベアトリーチェのことを語り続けた。
そして、その向こうから響いてくる賛美の歌声によっても導かれて、ついに非常な苦しみを覚えつつも、炎のなかを通って出ることができた。そして、頂上に至る最後の登りへとさしかかった。
そのとき、日は沈み暗くなった。煉獄においては、日が沈むと、一歩も上に向かって昇ることができないのである。
夜の闇になるとたちまち一歩も昇ることはできない。
このことは、いかに、意志が強く、知識や能力があっても、なお、霊的に前進すること、高みに昇ることは、できないことをダンテが深く知っていたことを示している。
それは、目に見えることがどんなにできるかといった表面的なことにとらわれないで内奥を洞察する眼力が必要とされる。
ダンテにこうした見通す力を与えたのは、一つには、彼の経験していった苦難であり、苦悩であり、孤独であったと考えられる。神は、特別に深い見抜く目を与えようとする人には、また特別な苦しみや悲しみを与えて鍛えようとされる。
光を受けていなければ私たちは上っていくことはできない。 知識や技術などをいくら習得しても、それは、平面的にひろがるだけであって、より高くは昇ることはできない。
幼い子供には知識や技術、経験もない。それに対して、大学を卒業するまでには多くの知識、技術、経験を与えられる。しかしそのような人たちの心は、より高くなっただろうか。すなわち、より清い思いを抱き、より純粋な愛がふくらみ、より敵対する者たちへの祈りは深まったりしただろうか。
そういうことはない。すなわち、高きへ昇ることは、そうしたものによってはできないのである。
すでに第七歌にあったように、太陽の光がなかったら、彼らは、横に動くか、下に降っていくしかできない。
… いいですか。この線ですら、
日没後は越えることはできないのです。
上へ登るのを妨げるものは何もないが、
夜の闇だけは、山に登るのを不可能にして
気力を失わせるのです。
地平線の下に日が沈んでいる間は、
夜の闇とともに下に降り
山の麓をさまよい歩くことしかできないのです。(煉獄篇第7歌53〜60行)
これは、地上の人間の精神的なすがたを指し示している。 いくら知識や学問を増やし、また経験や年齢が増大しても、上よりの光がなければ、横に動くか、下に降ってしまうことでしかないということなのである。
世界大戦など、知識や普通の意味の能力に恵まれた人たちがやり始めたことである。 また、物理学の知識は増えたが核兵器など人類に重大な脅威を与えるものを造ってしまったという意味では、下に降ってしまったものだともいえる。
「闇に追いつかれないように、光あるうちに、光の中を歩め」(ヨハネ12の35)という言葉は、現代の私たちにとっても常に真理である。光のうちに留まるのでなければ、私たちは闇に追いつかれ、闇の支配下に移されてしまうからである。
… 私のうちに留まれ、そうすれば私もあなた方のうちに留まる。私のうちに留まっていないと、あなた方は実を結ぶことができない。(ヨハネ15章4)
こうしたことはみな同じことを述べている。
夜になって上れなくなったダンテとウェルギリウスたちは、上に登る石段の途中で夜を過ごすことになった。
昼の間は活発に動き回っていた山羊は反芻するときにはおとなしくなり、暑い日中には木陰で休む。また、羊たちも夜になると、羊飼いたちに見守られて眠る。それと同じように、ダンテもウェルギリウスという羊飼いに見守られて夜を過ごすことになった。
左右の岸壁は彼らを取り囲んでいるために、そこからは少ししか外が見えなかった。そこで、いつもよりもっと大きく明るい星を見た。
ダンテは、いろいろと考え(羊や山羊が反芻するように)、星を見つめているうちに、眠りに入った。それは重要なことが起きる前にそれを予告する眠りであった。その星とは金星であり、明けの明星なのである。それは「たえまなく愛の火に燃えている」と表現されている。
金星のことを、英語でビーナスというが、もとは、ギリシャ神話で菜園の女神であったが、のちに美と愛の女神とされるようになった。
キリスト教においては、神の愛によって万物は創造されたゆえに、自然界の事物は何らかの意味で神の愛が込められている。星も同様で、神の愛によって輝いている、燃えているということができる。
とくにここで、ダンテが山羊や羊の反芻することを取り上げているのも、人間にはものを考えるということ、あるいは霊的な意味を深く知るためにも、過去に生じてきた出来事をいろいろと思いめぐらすことが重要となる。それは霊的な反芻と言える。
山羊は、餌を求めて活発に活動する。そして日が高く登ったときには、木陰にて休み、反芻する。この情景描写は、ダンテ自身のことをも含めて書いている。彼もたえず行動的であった。しかし、つねにそれとともに、自分がなしたこと、周囲の人間の動向などを詳しく黙想する。神の守りのこと、またなすべきことをも黙する祈りのなかで、霊的な反芻を繰り返すのである。
夜は、羊たちは牧者に守られてゆったりと過ごすが、牧者は、群れの近くに野宿し、羊たちを見守り、育てていく。
この記述は、完全な牧者であるキリストを思い起こさせる。主イエスは、夜通し祈ったほど、周囲の助けなく絶望的になっている魂の救いのために愛を注いだお方であった。
イエスの母マリアについては聖書全体ではごくわずかの記述しかない。福音書でも、ルカ福音書とマタイ福音書に少しマリアのことが記されているだけであり、ヨハネ福音書にはまったく記述もない。むしろ七つの悪霊を追いだしてもらったマグダラのマリアの方はすべての福音書に記されており、十字架の処刑のときも、復活のときにも第一に記されているほどの重要な位置づけがなされていて、イエスの母マリアよりも重きが置かれているほどである。
また、パウロやペテロ、ヨハネの手紙などにもイエスの母マリアのことは出てこない。そのようなわずかな記述のなかで、次の言葉はマリアの特質をあらわすものとして受け取られてきた。
「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」(ルカ福音書2の19)
これは、ダンテが書いている「反芻」だと言える。聖書の言葉、礼拝で学んだこと、あるいは自分が受けたこと罪、恵み、不可解な出来事、思いがけない出来事等々、どんなことであれ、自分が歩んだあとを思いめぐらし、反芻することは新たな恵みを受けるためにも重要なことである。
絶えず目新しいこと、珍しいことを追いかけていくのは、それと逆であり、そこには祝福がない。
ダンテが星を見つつ、いままでのことを思い返してその意味などを考え反芻していたとき、眠りに入ったがそこで夢に現れたのは、二人の若くて美しい女性であった。
…私の名はレア、花輪を編もうとして美しい手を動かしながら私は行きます。
鏡をながめて、みずから喜ぶことができるように。ここで我が身を飾るのです。
私の妹のラケルは、その鏡の前を離れずに、終日そこに座っています。
私が手で私の身を飾るのを喜ぶように
彼女はその美しい目を見ることを喜ぶのです。
妹は見ることに、私は、行うことに満足を覚える。(煉獄篇第27歌100〜108行)
(*)以下に、この箇所の「私の妹のラケルは…」の部分に関して、英訳の代表的なものである、ケアリ訳と、ロングフェロー訳を参考のために引用しておく。
But my sister Rachel, she
Before her glass abides the livelong day,
Her radiant eyes beholding, charm'd no less,
Than I with this delightful task. Her joy In contemplation, as in labour
mine. (ケアリ訳)
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But never does my sister Rachel leave
Her looking-glass, and sitteth all day long.
To see her beauteous eyes as eager is she,
As I am to adorn me with my hands;
Her, seeing, and me, doing satisfies.(ロングフェロー訳)
ここには、創世記にでてくるヤコブの妻となったレアとラケルに託して、人間のあり方の二つが象徴的に描かれている。
鏡とは、中世においては、瞑想、観想(contemplation)の象徴であった。鏡にうつった目を見つめるとは、自分のそうした観想の力を深く知ろうとすることであり、またその自分の目の背後にいます神を見つめるということでもあった。
レアは行動することによって、満たされる。だがラケルは、見ること、観想的な生き方によって満たされ、喜びを感じる。
この二つは、煉獄篇28歌以降にあらわれる、マチルダとベアトリーチェという二人の女性を暗示するものである。
レアは花を摘んで花輪にするため、手を休める暇もない。よき行動をすることによって、次々と霊的な花輪を増やしていく。それは現代も同様である。 私たちのよきわざは、主イエスによって覚えられ、花輪に託されていることであろう。
もう一つのタイプである、ラケル、それは黙想である。 レアは、行動的、ラケルは瞑想的、反芻的である。キリストは、この双方を完全なかたちで併せ持っていた。夜を徹して祈り続け、また他方、日中はきわめて行動的であられた。
聖書において、ヨハネ福音書はここで言われているラケル的側面を他の福音書よりも強くもっている。例えば一章においては、見る、という意味の言葉が、ギリシャ語で4種類、13回も用いられている。こうした点においても、ヨハネ福音書がほかの三つと異なって、「見る」ということの重要性を示しているのがわかる。
そして、この二つの型に近いあり方は、新約聖書において、マルタとマリアの記事にも見られる。主イエスが彼女たちの家を訪れたときに、マルタは接待に忙しくしていたが、妹のマリアはじっとイエスのもとで話しに聞き入っていた。マルタは、マリアが何も自分を手伝おうとしないのを見て、イエスに向かって、妹に手伝ってくれるように言って欲しいと、不満をあらわした。しかし主イエスは、必要なことはただ一つ、マリアはよい方を選んだのだ。それを取り上げてはいけない。(ルカ10の38〜42)と言われた。
このような主イエスの言葉によって、私たちはまず、み言葉に聞き入ること、み言葉を魂に深く受け取ることが求められているということがわかる。そうでなければ、マルタのように、平安を失い、だれかを非難したり裁いたりする心が生まれてしまう。
このことは、旧約聖書においても繰り返し現れる。
例えば、詩篇において、詩篇全体の巻頭言といった役割を果たしている詩篇第一篇では、次のように記されている。
…いかに幸いなことか
主の教えを愛し、その教えを昼も夜も心に深く思う人は。
その人は流れのほとりに植えられた木。
時がくれば実を結び、
葉もしおれることがない。
主の教えとは神の言葉である。まず神の言葉を深く受けいれることによって私たちの魂に神の国からの水が流れ、それによって実をつけることができる。すなわち、現実の行動においてもよきものを生み出すことができると言われている。
み言葉に聞き入り、受け取ることが出発点なのである。
ラケル的な「観ること」、真理にかかわるもの、霊的なものを見つめることによって究極的な幸いがあるということは、すでにギリシャ哲学の代表的存在であるプラトンやアリストテレスもとくに重要なこととして書いている。
…真実在を観ることがどのような喜びをもたらすかということは、真理を愛する人を除いては他の誰も味わうことはできない。(プラトン著「国家」582C 岩波文庫版では下巻272頁)
また、アリストテレスも、次のように述べている。
…人間のうちで最善の部分(理性・ヌース)を働かせる活動こそ、究極的な幸いであり、それが「観る」(テオーリア)という活動である。それは常にどのような状況においても持続できるからである。
(「ニコマコス倫理学第10巻第7章」河出書房版 日本の大思想U223頁)
この点においては、聖書と共通しているところがある。
しかし、こうしたギリシャ哲学者の深い洞察にもかかわらず、重要な点で聖書の内容と大きく異なるものがある。それは、プラトンもはっきりと述べているが、そのような真理愛、真実在を観るということは、そのための能力が必要であり、思索するための時間、ゆとりが必要となる。
しかし、聖書の世界においては、どのような人でも学問的なこと、哲学的な思索もできない人であっても、みずからの弱さを知り、ただ神を仰ぐだけで、神との交わりの生活へと導き入れていただけるのである。
福音書のなかでも、最後に書かれたヨハネ福音書は、深遠な霊的な内容をたたえているが、その著者として伝えられたヨハネは漁師であったし、キリストの弟子の代表的な存在であったペテロもまったく学問もない漁師であった。
そして罪深い者であっても、十字架のキリストを仰ぎ、罪を赦して下さったと信じるだけで、私たちは清めを受けて、神を見ることへと導かれる。
…心の清い者は幸いだ。その人は神を見るからである。
(マタイ福音書5の8)
ギリシャ哲学で究極的な幸いといわれていること、神を観ることと、聖書に言う神を見ることとはもちろん同じではない。ギリシャ哲学にいう神の観想は神との深い霊的な一体感にとどまるが、聖書においては神を見るという幸いを与えられた者は、また神からの生きた語りかけを受ける。旧約聖書の預言者などそれははっきりと記されているし、キリストを霊の目で見ることを与えられた者は、生きたキリストとの交流が与えられ、聖霊による導きを受けるようになるなどが大きな違いである。
しかし、肉眼では見えない真理を見ることの大いなる価値、幸いを指し示している点においては共通したものを持っている。
主イエスは、「聖霊によって喜びあふれた」と記されている。(ルカ10の21)使徒パウロも、しばしば聖霊による喜びについて触れている。
…神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びである。(ローマ 14の17)
…そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、私たちに倣う者、そして主に倣う者となり…(Tテサロニケ 1の6)
こうした聖なる霊による喜びとは、神を観る喜びに通じるものである。そしてそれは、ギリシャ哲学では、哲学的エリートにしか与えられなかった神を観る喜びが、この引用聖句にあるように、信じる人たちには苦しみのただ中にあっても与えられたものである。
私たちは、キリストを信じること、十字架を仰ぐことによって罪赦され、清められ、主と出会い、聖霊によって導かれて実を結ぶようになること、それが日々の目標となる。
…旅行者が帰路につき、わが家に近く
宿るにしたがって、ますますいとおしく
おもわれる暁の光は、
すでに四方から闇をおいはらい、それと同時に
私の眠りをも逐(お)った。そこで私が起きあがると
偉大な教師たちはすでに起きていた。
「人が多くの枝をかきわけて
懸命に探し求める甘い果実は
今日きみのすべての飢餓をしずめるであろう」
ウェルギリウスは私にむかってこのような言葉をもちいたが、 この言葉のように
多くの喜びを与える贈り物はなかった。(煉獄篇27歌109〜117)
夜明けとともに、ダンテは一時の眠りから目覚め、いままで地獄、煉獄をずっと導いてきたウェルギリウスが、ようやく奪われることなき真の幸いを与えられるところに達したことをダンテに告げた。
一夜の眠りによってこのように、より高い世界へと導かれているのがわかる、そのような日々の歩みができたらどんなによいことであろう。夜明けとともに、私たちはより高きへと導かれていくようでありたいと願われる。
あらゆる人間は、幸福を求める。しかし、まちがったものに求めてしまうからさまざまの悲劇や苦しみが生じる。ダンテはウェルギリウスに導かれてきたゆえに、ようやく長い浄めの道を終えて祝福された場所、真の幸いを与えられる地上楽園に着いた。
…高きへ登りたいとの望みの上に願いが加わって、
一歩一歩と登るうちに
私は上に行きたいという願いが次々と湧き出て、
羽が生えて飛ぶかのように感じた。
私たちがすべての階段を登りおえていちばん上段に立ったときに、
ウェルギリウスは目を私にそそいでいった。
「わが子よ、一時的の火と久遠の火を眺め、
これからさきは私自身が
知らないところへきみはついたのだ。
私は知恵と技術をもちいてきみをここへ導いた、
いまから後はきみの意志を案内者とし給え、
険しい道を出て、狭い道を離れたのだから。(同121〜131)
上への登りは、ふつうの登山にあっても、精神的な上りであっても、普通は苦痛を伴う。それゆえに人は安易な道、下への道、落ちていく道へとはまりこんでしまうことが多い。
ところが、ここに至ってダンテは、上に登る願いはますます強まり、羽が生えたかと思われたほどであった。
それは、清めを受けた魂のすがたを象徴するものであった。清めを受け、神の恵みを受けることによって自然に上に登る力も意志も与えられる。つばさのある魂となるのである。
そしてダンテはそれまで、地獄のさばきの永遠の火と、浄めの一時的な火をともに経験し、ようやく目的の煉獄の山の頂上に着いた。そこから先は、理性を象徴するウェルギリウスは導くことができない。意志が清められたゆえに、ダンテ自身の意志によって歩んでいける、というのである。
自分の意志が神の意志に一致するとき、私たちもそのようにされることであろう。
…きみの顔を照らす太陽を見よ、
地面がみずからここに生じる若草や木々を見よ。
涙を流して私をおまえのもとへつかわした
美しい目がよろこんで来てくれるまで
おまえは、座っていてもよいし、歩いていてもよい。
今後は、私の言葉や私の合図に期待してはならない。
おまえの自由意志は正しく、健やかなのであるから、
その命じるままに行わないのは誤りとなる。
それゆえ、私はおまえの上に、王冠と法冠(*)を授けよう。(煉獄篇27歌109行〜終行)
(*)王冠と法冠とは、原文では、corono e mitrio 英訳では、crown and mitre 。法冠と訳された語は、司教冠のことで僧帽とも訳される。
ダンテがこのように導かれて、地獄と煉獄を歩み、ついに頂上に達することができたのは、ウェルギリウスの導きによる。そしてそのウェルギリウスは、どうしてそのようにダンテを導くようになったかといえば、天上にいたベアトリーチェという女性が、涙を流して、その愛によって、ダンテの導きを依頼したからであった。
ダンテは、暗く峻厳な森、思い返すだけでも生きた心地がしないほどの闇の森を人生の半ばほどにようやく出ることができた。そしてそこから光の射す山に上ろうとした。けれども、たちまち彼の前途をはばむ強力な敵が現れて、ダンテは登ることを断念し、ふたたび滅びの中へと落ち込もうとしていた。それを知ったベアトリーチェが、天から降ってウェルギリウスにとくにダンテを導いて地獄、煉獄を導いてくるようにと依頼したのであった。自分の力で光射す山に登ることができない、導かれていくのでなかったら、人は、どんなに意志が強固であっても、願いがあっても上っていくことはできないということをダンテは自らの体験でも深く知らされたゆえに、この神曲にもそうした構成を取っている。
煉獄の山の頂きにおいて、ウェルギリウスは、ダンテに冠を与えた。それは、ダンテがまったき意志の自由、行動の自由を得たゆえであった。
煉獄篇において、ながくダンテを導いてきたウェルギリウスがダンテに与えた最後のものは、王冠であった。それは彼が神とむすびついた自由な意志を妨げるさまざまの罪を清められたゆえである。
私たちは小さきもの、罪深いものであるが、それにもかかわらず、神の力によって罪きよめられるときには、あたかも王であるかのように、扱って下さるということは、次のように新約聖書にも記されている。
…あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。(Tペテロ 2の9)
…憐れみ豊かな神は、私たちをこの上なく愛して下さり、その愛によって罪のために死んでいた私たちをキリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。(エペソ2の4〜6)
この神曲の煉獄篇27歌で言われていることもまたそれと同様のことであり、ダンテは煉獄の清めを終えて、一人の王となり、戴冠式というべきものを受けたのである。そして私たちもまたそのようなことが約束されている。
罪が清められないあいだは、私たちは内なる罪の奴隷となっており、悪の力によってひきまわされ、罪が支配している。しかし、それらが清められたときには、私たちは神(キリスト)と結びつくゆえに、自由となり、神以外のいかなるものにも支配されないものと変えられる。言いかえれば、小さいながらも王となる。これが、エペソ書に言われている意味である。
…あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。(ヨハネ 8の32)
王とは、いかなるものにも束縛されない自由な存在である。
このような「王」とされるのは、権力や武力、あるいは策略や学識、生まれつきによるのでもない。真の自由とは、ただ信仰によって与えられるからである。ここに万人が霊的な「王」となる道が開かれているのである。