リストボタン命の水の川―現代の心の砂漠をうるおすもの

聖書の一貫して流れるメッセージは、この世の闇のなかに輝く「光」と「いのち」であり、命を支える「水」である。
それゆえ、聖書にはその冒頭から、光が記され、その第二章には、いのちをもたらす水の流れが記されている。

…地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。…しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。
主なる神は、土で人を形づくり、命の息を吹き入れられた。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせた。…
エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。
第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。
第二の川の名はギホンで、クシュ地方全域を巡っていた。
第三の川の名はチグリスで、第四の川はユーフラテスであった。(創世記2の5〜14より)

この創世記2章においては、エデンから流れ出る4つの川(*)が、全世界をその水でうるおしていたと言おうとしているのがわかる。

(*)古代においては、四という数は、全地方、世界を意味することがあった。黙示録においても、「大地の四隅に四人の天使が立つっているのを見た。彼らは、大地の四隅から吹く風をしっかり抑えて…」(黙示録7の1)とある。

このように、この一見神話的に見える記述が、実は、後にキリストによっていのちの水が全世界に流れていくということを暗示し、預言するものとなっている。
このように、聖書は旧約聖書の冒頭からすでに、人間の永遠の課題である、光といのちを指し示す内容を記しているのは、まさに啓示により、聖霊によって導かれて書かれたものだからである。
しかし、このようないのちの水によってうるおされる状態は、最初から人間には与えられなかった。それは、アダムとエバの記述にあるように、神の言葉に背いてしまったから、言いかえると罪を犯してしまったからである。
神の愛と真実に背を向けるならよいことは何も期待できないのは当然のことになる。神とはこの世の人間がもっている愛や力、真実などと比べものにならない、完全なよきものをもっておられるのであり、それに逆らうならば、そうしたよきものが自分からなくなってしまうのは当然のことになる。
はるか昔から、このように、人間の心は光を受け、いのちの水でうるおされる、というのが本来の姿なのだと言われているのである。
このあとの長い時代においても、人は魂にうるおいの与えられる道を知らされていたのに、それを敬うことなくかえって踏みつけてしまい、長い歴史にそこからくるさばきが数多く記されることになった。
しかし、旧約聖書では、罪深い人間たちの混乱や滅びのただなかにあっても、つねにそこからの解放と解放された魂には何が約束されているか、ということが繰り返し書かれている。
水にうるおされる状態、それこそは人間のあるべき姿である。それは次のように、旧約聖書のハートとも言われる詩篇全体の主題にもなっている。
人間そのものをうるおすのは、神の言葉である。神の言葉を愛し、喜ぶときには、魂がうるおされる。

…いかに幸いなことか、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。(詩篇1の1〜3より)

神の言葉とは、愛なる神のお心から出るものであるゆえに、神の言葉もまた愛である。
そこから、人をうるおすもの、それは、愛であるということがいえる。
どんな人でも、だれかから愛されていることを知れば、何か心地よいものを感じるが、誰かから憎まれたり、無視されたり、見下されたりするときには、不快な感情が生じるであろう。
人の心をうるおすものは、愛だ、ということは、言葉で表現できなくとも、小さな子供や動物すら愛には反応することからもうかがえる。植物すら育てる人の愛が注がれるときには、よく育つといえるだろう。
愛は霊的なもの、目には見えないものだから数えることができない。数量化できない。教育がどんなにすすんでも、科学技術がいかに進展しても、またこの世の学問が進んでも愛はふやすことができない。
かえって、教育が進んで、昔に比べると圧倒的な時間を教育を受ける時間としているが、愛はまったく子供たちの心に増大していることはないばかりか、むしろ昔よりも互いの関係が疎遠になっていることもうかがえる。
また、人間関係においても、昔はとなりだけでなくかなり広範囲に関わりがあったが、現在ではとなりの人さえどんな人か分からないということが多くなっている。
このように見てくると、心をうるおす愛は、教育によっても、経済的な豊かさによっても、また社会的な制度によってももたらされないのが分る。
貧しい人が、すぐにもらったわずかの食物を家に持ち帰って家族と分け合っているのを見たということ、また知人から、東南アジアに行っていたとき、食べ物の一部を投げ込んだら、すぐに海に飛び込んでそれを得て、廻りのものとともに分け合ったというのを聞いたことがあった。
テレビやパソコン、自動車、快適な住家、そのようなものもまた、愛をふやすことはできない。
戦争は愛と正反対の憎しみが国家的に、大規模に増殖したものである。それゆえに戦争を廃絶するということは、人類の永遠の課題である。
しかし、戦争がなくなっても、愛は増大しないのは、日本の現状を見ても分る。日本はもう六十五年ほども戦争をしてこなかった。しかし、それでも愛は増えてはいかない。
いや、愛はあるではないか、親子愛、男女の愛、友人同士の愛は、現在でもたくさんあるではないかと、いう人がいるかもしれない。
しかし、そうしただれでもよく知っている愛は致命的な欠点を持つ。
それは、そうした愛は、特定の人にしか及ばないということ、しかも何かの誤解とか、当事者のいずれかが裏切ったり、罪を犯すとたちまち消失し、あるいは憎しみにまで変容してしまうということである。
それゆえに、スイスのキリスト教思想家ヒルティはこうした自然の人間が持つ愛を「愛の影」でしかないと言っている。
もっとも激しい愛だと思われる男女の愛は、映画、小説、ドラマなどのテーマにたえず取り上げられる、それらの内容は罪深いものが圧倒的に多い。
そしてそのような間違った愛は、毎年何十万件というおびただしい妊娠中絶を生み出し、あらたな生命を抹殺してきた。
このように、自然のままの人間が持つ「愛の影」は、真によきものを永続的に生み出すことができない。
このようにどんな方法をもってしても増大させることのできない愛を地上にもたらそうとして来られたのが主イエスであった。
真のうるおいをもたらすことがキリストの使命なのであった。
悔い改めよ、神の国は近づいた。この簡潔なメッセージがキリストの福音である。悔い改めるとは、あらゆる人間的なものから真実で清い存在、しかも永遠の存在である神に魂の方向を転換せよということである。神の国は近づいてそこにある、神の国とは神のよき王としての御支配である。その御支配のうちにこそ、愛があり、正義があり真実がある。
すでにアリストテレスも指摘しているように(*)、正義があってもなお足りない、友愛があってはじめて全うされる。

(*)正義の人々が友愛(フィリア philia)を持っているなら、まったく正義を必要としない。 しかし、たとえ正義の人であっても、なお、愛を必要とする。
まことに、正義の最も高い姿は、愛をその内に有しているものなのである。
(アリストテレス著 「ニコマコス倫理学」第八巻第一章25〜30 河出書房版 世界の大思想U167頁)
なお、アリストテレス( BC384〜322)は、 ソクラテス、プラトンなどとともに西洋哲学で最も影響力の大きかった哲学者。晩学の祖と言われる。


この神の国にあるものすべて、神の国そのものがキリストであるということができる。
そしてそのキリストの愛、神の愛とは、人間の魂の最も深いところに触れるものであるが、あらゆる教育や科学技術、医療がどうすることもできない領域である。
愛なきこと、そこからあらゆる人間の問題が生じている。
そのことを罪といっている。その心の問題の解決に来てくださったのがキリストである。だれも触れることもできず、いかなる経験も、学問も医療もどうすることもできない一人一人の魂の奥深い問題、そこにメスを入れて汚れたものをえぐりだして、捨て、清めるということこそ、人間の根本問題の解決なのである。
それこそ、キリストが来て成就した。
川が流れるように、神からの愛は流れて行ってうるおす。
キリストの愛によってこの世はうるおされてきた。
例えば、生まれつきの盲人がいかにひどい目に会わされてきたか、まさに盲人であることはあらゆる心のうるおいを奪われることであった。
あるいは、ハンセン病の人たちも、世間から隔離され肉親からも邪魔者扱いされ、周囲の人たちに会うこともできず、家にいるのに、遠いところへ行ったと周囲の人たちには嘘を言って、ハンセン病の人たちの存在はこの世からいないものだとされてしまう状態であった。
このような恐ろしい差別と圧迫、そして孤独、そしてこの悲しむべき運命を変えるものは何一つなかった。そうした渇ききった魂に潤いを与えるもの、それがキリストであった。
旧約聖書に現れるエゼキエルという預言者は、日本人にはほとんどなじみがない。
今から二千五百年以上も昔の預言者である。
新聞とかTVなどで取り上げられるということはまったくといってよいほどない。キリスト者においても、エゼキエル書のことはほとんど知らないという人が多数を占めているだろう。
しかし、そのエゼキエルは、神の霊こそが、決定的だということを強調した預言者なのである。死した大量の骨のごときものになっていても、なお神の霊がそこに吹きつけるときには、それらがよみがえるという啓示をそのエゼキエル書の三十七章で述べている。
そこに徹底的に枯れてしまった骨が大量にある場面が現れる。 ただ骨というだけでも、死んだものであり枯れたものであるのに、ここではとくにそれが強調されている。それほどに回復不可能と見える状態にあるにもかかわらず、そこに神の風(息、霊)が吹き込まれるときには、それは生き返ったという驚くべきことが記されている。
それは枯れはてていたものが、命でうるおうようになったということである。
このように、キリストよりも500年以上も昔に、人間の枯れた状態、死して命のない状態を生かすのは、人間の努力とかお金、政治等々ではないこと、ただ神の霊によることが記されている。
また、同じ旧約聖書の詩篇の中にも、 ここにも、憩いのみぎわに導いてくださる主、すなわち魂に新しいいのちを与え、うるおいを与えてくださる主の姿がある。

…主はわたしの牧者、わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。(詩篇23篇より)

主が私の牧者である、すなわち導き手となってくださり、目には見えないよき賜物を与えてくださるゆえに、魂が満たされ、乏しいことがない、といえる。そしてその満たされた状態こそ、静かな水際(みぎわ)にある状態であり、そこで魂がリフレッシュされる。
この有名な詩は、それが無数の人たちにとっての魂の経験をあらわしたものであり、この世の渇ききった荒れ地、砂漠的なところから、しずかな水の流れへと導いてくださる神の愛の実感がある。

旧約聖書の代表的な預言書であるイザヤ書においても、彼が受けた啓示には、水によってうるおされる状況が次のように詩的表現によって記されている。

…荒れ野よ、荒れ地よ、
喜び躍れ、
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ、 野ばらの花を一面に咲かせよ。…
そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。
荒れ野に水が湧きいで、
荒れ地に川が流れる。
(イザヤ書 35の1、6)

…見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。
わたしは荒野に道を設け、
さばくに川を流れさせる。(同 43の19)

イザヤ書に含まれる預言の時代は、大国のアッシリアが攻撃してきて北のイスラエル王国は滅びようとしていた状況にあり、さらに、イザヤ書の後半部分はバビロン捕囚からの解放のころだとされている。
その双方にこうした荒野に流れる川というメッセージがある。 国家の動乱期、民が大いなる混乱と動揺のなかにあるとき、この預言者は、一人神と向かい合い、はるかな未来に通じる深遠な内容をもった神の言葉を受けたのであった。

心がうるおされる、その状態は言いかえると、魂の平安、平和をもっている状態である。これは、しかし、普通に言われる平和とか心の安らぎというのとは異なる。だれでも、キリスト教信仰とかに関わりなく、心を平静に保っている人は多くいる。
しかし、その平和がどれほど強固であるかという点において、それが神からくる平安か、それとも人間的なものかが分けられる。普通の人がもっている心の平静、平安というものは、自分を非難するひと言によっても破られる。また、人から誤解されたり、中傷されたり、また自分がしたことを評価してもらえなかったりしてもたちまち失われる。
聖書に約束している心の平和とは、一時的に動揺することはあっても、じきに元の平安に戻ることができる、さらにその平安の度合いが深いときには、自分への攻撃がはげしく、命が危ないようなときですらも、平安を保つことができるということである。
…イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。(ヨハネ 8の12)
この主イエスの言葉は、イエスご自身が、まさに創世記にある最も重要なもの、闇に輝く光と、命を与える水そのものであることを意味している。

…しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。
わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ 4の14)


このような完全な平安、平和をキリストはもっておられた。このことは、湖において嵐が吹きすさび、船が転覆しそうになって弟子たちが動転していたにもかかわらず、キリストは眠っておられたという記述にも現れている。
そして、弟子たちが「溺れて死にそうだ!」という必死の叫びによって目覚めたイエスは、風や海をそのお言葉によって静めたと記されている。イエスの言葉には絶大な力があること、そして人間とその世界にはこうした絶え間なき動乱、嵐、混乱があるが、イエスはただ一人完全な平安を保っておられるという象徴的な出来事である。
最初の殉教者であったステパノも、周囲の人たちからの憎しみに満ちた攻撃で石で打ち倒されてしまうときですら、平安を保つことができ、そこに天が開けて神とキリストがおられるのが見えた。
そして、周囲の荒れ狂う人たちのために祈って息を引き取った。
ここにこの世の平安とは本質的に異なる岩のような平安の世界があるのを知らされる。
こうした平安(平和)を、神からくる平和であるので、主の平和と言われる。これは、主イエスが、最後の夕食のときに語った言葉である。
「私は平和をあなた方に残し、私の平和を与える。
私はこれを、世が与えるように与えるのではない。
私は去っていくが、また、あなた方のところに戻ってくると言ったのをあなた方は聞いた。」 (ヨハネ14の27〜28)
戻ってくる、それは聖なる霊となって弟子たちのところに来るということである。
この主の平和が与えられるという約束を告げる直前に、聖なる霊が与えられるという約束が繰り返し強調されている。
主の平和は、聖霊と深く結びついているゆえにこの二つが並べて言われているのである。
このように、魂に水がながれること、荒れた地、砂漠のような心に流れるものは聖霊であり、目に見えないいのちの水なのである。
このことをヨハネが実際に体験し、それによって日々満たされ、さらに導かれてきたゆえに、その福音書ではとくに強調されているのであろう。
そして聖書の最後の書である黙示録にも、ふたたび、いのちの水の祝福が現れる。
私たちがさまざまのこの世の悪の力から解放され、罪の赦しを主イエスから受けるとき、その魂の状態は、あらゆる悲しみはぬぐわれ、詩篇23にあったように、水のほとりへと導かれる。

… 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、
神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。 (黙示録 7の17)

…また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。
渇いている者には、命の泉から価なしに飲ませよう。」
(黙示録 21の6 )

…天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。
川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。
(黙示録 22の1〜2)


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