造り上げる力をもつ言葉

人間と動物を分ける決定的な違いの一つは、言葉である。高等な動物と思われているサルや、犬、馬たちも、キーキーとか、ワンワン、ウーッ、ヒヒーンといったきわめて単純な発声しかもっていない。それに比べて人間は、きわめて複雑な言葉を生み出し、それを自由自在に使っている。
ギリシャ語、ヘブル語、ラテン語、サンスクリット語といった古代から使われていた言語は、驚くほど多様な変化をする。英語では、過去形では -ed、三人称単数では s、進行形では ing といったわずかしか変化しない。
ギリシャ語を初めて学び出したころ、一つの動詞が、二百通り以上にも変化すると知って、驚いたものである。(*)

(*)ギリシャ語では、動詞は直接法、接続法、命令法などに分かれて変化する。直接法では、現在形の他、過去形にも現在完了、不定過去、未完了過去、過去完了等々、さまざまのかたちがあるし、それらがまた人称や単数、複数などによって複雑な変化をする。分詞にしても英語なら現在分詞と過去分詞しかないが、ギリシャ語では、現在形の能動分詞だけでも24通りも変化する。さらに、アオリスト、現在完了の形にまたそのように24通り、さらに、受動態・中動態でも同じように変化する…等々、実に多様な変化をする。

そのような複雑極まりない文法がいかにして形成されたのか、まったく謎である。だれがいったいそのような複雑な文法を作ったのか、ひとりでにできたのか、そして古代のある時期をすぎるとそうした複雑な文法は、より単純化されていく。
日本でも同様である。平安時代の複雑な、それゆえに微妙な意味の違いをも表現できる言葉は、時代があとになるほど、単純化されていく傾向がみられる。例えば、「あはれ」という古語は、さまざまの意味をもっているが、現代語では、かわいそうだ、といった単純な意味になってしまっている。(*)

(*)あわれ(アハレ・憐れ、哀れ)という言葉は、国語辞典によれば、「ものに対して感じるしみじみとした趣。もの悲しさを伴った情趣・風情ふぜい。ものの哀れ。また、しみじみともの悲しく思うさま。」などの意味をもち、対象が美的な感動を誘うものとみなして言われる。

こうした言葉の変化は何を意味するのか、しばしば考えさせられる。複雑で微妙な意味をあらわすために、言葉はきわめて多様な変化をする。それが歴史の流れとともにだんだん単純化されていった。
最も複雑で精密な内容を持っていた時期は、古代にある。しかし、そのような複雑多様な言語がこの世に生まれたころには最初からそのような複雑な変化形を持つ言語であったとは考えられない。
もし最初から現在のような複雑なままの言葉であったとすると、天から降ってきたようにいきなり複雑極まりない文法を持つ言語が人間に与えられたという不思議なことになる。
 とすれば、こうしたギリシャ語やヘブル語などの言語の誕生はより単純な形であってそこから次第に複雑精緻な言語となり、それがやがて単純化していったのではないかと考えられる。
 豊かな内容を持つ言語が単純化していく、それは何を意味しているのであろうか。かつて言語が、複雑多様に分かれたのは、神への背信、人間のたかぶりへの裁きのゆえだと記されている。 (創世記11の1〜7)
言語は、ふたたび単純化される傾向にあるが、その最終的な方向は、一つの言葉になるということであろう。福音が伝えられることによって世界の人たちが真理を知り、神の愛に目覚める。
一つの言葉とは、愛の言葉である。私たちがキリストの愛を内に宿すときには、その愛から出る言葉が生まれるだろう。そしてそのときこそ、最も単純な言葉となり、万人が通じる言葉となるであろう。

言語が重要なはたらきを持つということは、福音書のなかでも暗示されている。
主イエスが十字架で処刑されたとき、総督ピラトはわざわざ三つの言語でその罪状書きを書かせた。

…彼らはイエスを十字架につけた。…
ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。
イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
(ヨハネ19の18〜20)
このように、特に重要な三つの言語で書かれたことが記されている。
この三つの言語はたしかに世界史で最も重要なはたらきをしてきたと言える。
ヘブル語は旧約聖書の言語であって、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教をも生み出すことになり、全世界にその影響を今も及ぼしているという点で、比類なき重要性を持ってきた言語と言える。
また、ギリシャ語はホメロスの詩、ソクラテス、プラトン、アリストテレスらの哲学の言語であるだけでも世界にその大きな影響を与えてきたが、さらに旧約聖書のギリシャ語訳、そして新約聖書の原語ともなったゆえに、全世界に決定的な影響を及ぼしてきた。
また、ラテン語は、長く中世ではラテン語の聖書が標準的に使用されてきたという点では大きな影響をやはり持ってきたといえるし、ラテン語から派生したフランス語、イタリア語、ルーマニア語など、さらに今日の中央アメリカ、ラテンアメリカ(南アメリカ)では、その名のようにラテン語から派生したスペイン語やポルトガル語が言語となっているという点でもその影響は大きい。
このように、この三つの言語は、世界の歴史においてほかの原語、例えば中国語やロシア語、ヒンズー語や日本語、あるいは他の様々な言語などと比べても圧倒的な影響力の差がある。
イエスこそが王である、本当の支配者であるということがこのように世界歴史で最も重要なはたらきをしてきた言語で伝えられるのだということが、ヨハネ福音書では総督ピラトの行為によって本人が知らない内に、その影響の大きさを預言することになっていたのである。
さまざまの言葉を用いて、キリストの真理は伝えられる。このことは、十字架のイエスの処刑された罪状書きによっても預言されるという驚くべき神の御計画がこのようなことによっても示されている。
使徒言行録において、聖霊が歴史上で初めて驚くべき豊かさで使徒たちやキリストを信じる人たちに注がれた。それによって、人々はさまざまの言語で福音を語り始めたという。
このことは、後になって次々とさまざまの言語で聖書が翻訳され、実際にきわめて多様な言語で福音が語られていくようになることの預言でもあった。
キリストの十字架の罪状書で書かれたヘブル語、ギリシャ語、ラテン語が世界の言語で伝えられるということの預言ともなったように、使徒言行録の最初に聖霊が注がれたこともまた、多様な言語が福音伝達に用いられることの預言的出来事となった。
このように、言葉は福音伝道にきわめて重要であった。
江戸時代の末期(一八五九年)から、アメリカから宣教師が少しずつ命がけで日本に渡ってきた。彼らがまず手がけたことは、ことばを理解することであった。
 とくにその中で日本語から英語への和英辞書を手がけ、七年七カ月もかかって完成したのが、ヘボンであった。ヘボンは眼科医として医療をしながらキリスト教伝道を秘かに行うという目的で遠くアメリカから危険な船旅をして来日した。
そのようにして日本語を習得した目的は、聖書の日本語訳である。そして五年半をかけて一八八〇年に新約聖書の日本語訳が完成した。その中心的役割を果たしたのがヘボンであって、彼が四福音書、ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙、ヘブル書、テサロニケ書などを訳している。
このようにして、現在日本で広く行き渡っている新約聖書の最初の翻訳が完成された。その後七年あまりの歳月をかけて旧約聖書の日本語訳も完成した。(一八八七年)
こうした先人の大変な労苦によって完成した日本語訳聖書がその後どれほど多くの魂の救いに用いられたことであろう。
 またその聖書が、日本の思想や、音楽、文学、あるいは教育、福祉、政治などにきわめて大きな影響を与えていくことになった。
そうした出発点に、日本語への聖書の翻訳という「ことば」への深い取り組みがあったのである。
福音伝道と言葉の重要性は、すでに使徒言行録において、聖霊の最初のはたらきとして記されている。

…一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
「…どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
わたしたちの中には、パルティア、メディアなどからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、…、エジプト、リビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 (使徒言行録二の4〜11より)
使徒言行録において、このように、神の偉大なはたらきがさまざまの言葉で告げられたとあるが、それは二千年を経て、ようやく日本においても実現し、日本語で神の言葉が語られるようになった。(*)

(*)それより以前、一五四九年に来日したザビエルは日本語訳の聖書の一部(マタイ福音書)を持ってきていたと推測されている。それは、やじろう(弥次郎、アンジロウとも)によって訳されたと言われている。ヤジロウは、日本人最初のキリシタンとされ、マラッカ(マレー半島南西部の海岸にある都市)でザビエルと出会って、キリスト者となったという。しかし、それは残っていないし、キリシタン時代に訳された可能性のある部分訳なども存在していない。

このように、キリストの真理が伝えられていく過程で、言葉の重要性は大地の下を流れる地下水のように目立たないが非常に重要なものである。
そしてこうしたさまざまの言語で翻訳されていくのは、それが神の言葉であるからだ。
どんなに言葉の壁があって困難であっても、真理の言葉、神の言葉はそうした壁を乗り越えていく。
聖書の最初に、闇のなかに光あれ!という神の言葉によって実際に光があったと記されているがそれはさまざまのことを預言し、また象徴していると言えよう。
神の言葉は、まったく通じない言語という大きな壁をも乗り越えて真理をはばむ闇の世界に光として伝わっていったからである。
このように、神の言葉は実際にさまざまの言語をとおして伝わっていったが、他方では、こうした言語なしに伝わっていくのだということを啓示されていた人もあった。

…天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。(詩篇19篇より)

この詩にあるように、とくに神の霊を受けたこの作者は、天体や大空などによってとくに神の真理を開かれ、そこに神の言葉のはたらきを実感していた。
 作者は、人間の耳に聞こえるような言葉とは別に、神の言葉が伝わっていくということを霊的に知らされ、そのことを実感していたのがこの詩からうかがえる。
彼は、天の星々、大空の青い広がり、真っ白く浮かぶ雲、目には見えないが強い力を発揮する風々、それらは、人間の使う言語とはまったくことなる言葉、耳には聞こえないことばをもって神の真理を伝えているのだと知らされ、しかもそれは特定の人や地域でなく、全世界にむかって伝わっているということを啓示されたのである。
 神の言葉は、たしかに世界に向かって送り続けられている。
神の言葉は、どんな所にもただちに送られていく。自然界のさまざまの変化、現象は、神の言葉が、世界のどこであってもただちに働くということなのである。
次の詩は、そうした神の言葉が自然のさまざまの動きや変化の原動力となっているという実感が表されている。

主はその言葉を地に送られる。御言葉は速やかに走る。
主は、羊の毛のような雪を降らせ、灰のような霜をまき散らされる。
主は、雹(ひょう)を小石のように投げられる。
御言葉を送られると、それは溶ける。
主が風を吹かせると、水は流れる。(詩篇147の15〜18より)

このように、聖書においては、神の言葉というものは実にさまざまのはたらきをするものとして現れる。私たちが生きているのも、歴史の動きも、自然のさまざまの動きも、生成も一切は神の言葉のはたらきなのである。
私たちはそうした神の言葉を知らされ、その神の言葉がすべて込められた存在としてキリストを知らされている。そしてそのキリストが私たちの内にまで来てくださって、住んで下さる。
そしてさきほどあげた詩篇19篇の言葉のように、世界に音もなく神の言葉は伝わり続けている。
それは聖霊の風が吹き続けているゆえである。
そのような神の言葉の大いなる力の一端を与えられたのが、キリスト者だと言えよう。
それゆえに、キリスト者が持つことのできる最上の言葉とは、造り上げるはたらきをする言葉、その力を持った言葉である。
それは、聖書の最初から告げられている。光あれ!という言葉によって実際に闇に光が生じた。
人間の言葉はいかにあるべきかがこの短い聖句のなかに込められている。
私たちの言葉は、しばしば闇を深めるものでしかない。しかし、私たちが動物と異なるきわめて変化のある言葉、無限の内容を持つことのできる言葉を与えられているのは、その言葉をもって、闇に光を与えるような言葉を出すことが期待されているからである。
聖書において、アブラハムがはっきりと聞き取った言葉、 「生まれ故郷を離れ、親族からも離れて、私が示す地に行け!」という神の言葉は、まさしく光なきこの世に生きていたアブラハムに対して、光がどこにあるかを示した言葉であった。
神の言葉に従うこと、それが闇のなかで光を見続けることなのである。
後にあらわれたモーセとかれに導かれた人々は、神の言葉に従ったゆえに、実際に未知の砂漠地帯を進むにあたって、ふつうなら滅んでしまうその荒野、死の闇の立ち込める中を、光を与えられて進むことができた。 そして、その神の言葉に背いたとき、滅んでいった。
闇に光をもたらす言葉、それは言い換えると神の愛をたたえた言葉だと言える。人間の心には自然のままでは神の愛を持っていないゆえに、どうしても他者に光をもたらすことはできない。
私たちの言葉は、造り上げるどころか、しばしば壊してしまう。相手のよき思いを壊し、また不要な言葉や、何らかの冷たい言葉、疑いの言葉などによって人間関係を壊してしまうこともよくある。黙っていれば壊れなかったものが、感情に動かされて言ってしまった言葉が取返しのつかないことになったりするほどである。
しかし、私たちも神の愛を受けるとき、闇のなかに光をもたらす言葉を持つことができる。
神の言葉は、常に造り上げる。それは最初から、闇のただなかに光を創造し、地球も含めた天体を創造し、さらにはさまざまの地上の動物、植物をも創造された。当然それは私たちをもよりよいものへと造り上げる力を持っている。
 それゆえに、次のように言われている。

…だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。
 そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。
 この言葉は、あなたがたを造り上げ(*)、聖徒(キリスト者)とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。(使徒20の31〜32)

 そのよう力をもつ神の言葉であるゆえ、私たちが神の言葉を受けるときに、やはりその言葉がよく働くときには、その程度は小さくとも、造り上げるという力を持つことになる。

…悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。 (エペソ書4の29)

(*)造り上げると訳された原語(ギリシャ語)は、オイコドメオー oikodomeo であって、家(オイコス oikos)という言葉がもとにあり、「家を建て上げる」というのが原意。後に上げたエペソ書では、その名詞形 オイコドメー(建てあげること、建築)が使われている。

こうした造り上げる言葉、それは私たちが知識や経験を与えられ、教養を身につけてもなおそれはできない。そのようなものがあると、かえって、それをひそかに自慢したり、得意がり、それらを持たない人を心のうちで見下すということが生じることが多い。
それゆえに、さきにあげた聖書の言葉が語っているように、神の「恵みの言葉」を受けるのでなかったらできないのである。
その神よりの恵みの言葉とは、キリストの言葉とも言える。キリストの言葉が私たちのうちに宿っているときには、私たちの言葉は造り上げるはたらきを持つことになる。
そしてキリストの言葉が留まっているということは、主ご自身が私たちのうちにおられるということであるから、私たちの望むことも主が望まれることと一つになる。
それゆえに、私たちの望むことはかなえられる。

…わたしの言葉があなた方のうちにいつも留まっているなら、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 (ヨハネ15の7)

私たちの願いがかなえられないのは、主イエスの言葉が留まっておらず、人間的なものが留まっているからだということになる。
主イエスの言葉が私たちの内にあり、キリストの霊が私たちのうちにいて下さるとき、私たちの言葉は初めて、愛にかなったものとなり、それによって万人が一つになる道へと通じていく。
そのときこそ、創世記のバベルの塔の記事にあるように、一度は言葉が数知れないほどに多く生まれて互いに思いが通じなくなったという事態から解放される。そして、初めて本当の一致、一つの言葉になる。それは、キリストの愛に結ばれた言葉だと言えよう。
キリストに導かれる者は、キリストの声を聞く。
(ヨハネ10の16)
そしてそこで聞き取られたその声(ことば)は私たちの心を通って他者へと響いていく。そしてキリストの愛が一つの群れを造り上げていく。

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