生きた風と、神の水の流れ―煉獄篇 第28歌(その2)

煉獄の最後の場所、それはあらゆる罪の汚れを清められ、ウェルギリウスに導かれてようやく到達した場所である。神曲においては南半球の、イスラエルの反対側の海にそびえる山というかたちで表されている。
その地上の楽園は、罪を犯す前のアダムとエバが住んでいたと記されているエデンの園が連想される。そこでは、聖なる森林があり、かぐわしい香りが大地からたちのぼり、花は咲き、小鳥のさえずりも聞こえてくるところであった。そこにはあらゆる汚れなきゆえに、万事が清い霊を伴うものとして受け取られるのであった。
そこに現れた小さな川の対岸を一人の女性(マチルダ)が歩いていた。彼女は、そこで清い笑顔を見せつつ歩いていた。それはマチルダは、ダンテの心を見抜いて言った。ここに初めてきたあなたにとっては不思議なこと、意外なことであろう、と。
マチルダのさわやかな笑顔に接して、ダンテを驚かしているのは、煉獄において、ダンテたちはみな苦痛にあえいでいる魂たちばかりと出会っていたゆえに、そして、そこではかつてのエデンの園のように、油断していると追放されかねないという固定観念があったからであろう。
そのようなダンテの疑問に応えて、マチルダは、次の聖書の箇所を示したのであった。
「主よ、あなたは私を喜ばせて下さる」(詩篇92の5)(*)
罪清められた魂は、主ご自身によって喜び楽しむことができる。目の前の小さな花々であってもほかのものであっても確かに、主が私たちの心を動かすとき、何もかもが喜びを感じさせるものとなる。
それゆえに、使徒パウロも、「すべてのことに感謝せよ、すべての時に喜べ」(Tテサロニケ5の16〜17)と教えたのであった。そのようなことはふつうはできないと思ってしまう。しかし、不可能なことを命じることは有り得ない。私たちが罪清められたとき、そして聖霊を豊かに受けたときには、おのずからこうした心になるのであるからこそ、パウロはそのような方向を指し示しているのである。

(*)この箇所の前後は次のようである。
…いかに楽しいことでしょう、主に感謝をささげることは、
いと高き神よ、御名をほめ歌い
朝ごとに、あなたの慈しみを、
夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは…
主よ、あなたは御業を喜び祝わせてくださいます。
わたしは御手の業を喜び歌います。
主よ、御業はいかに大きく、
御計らいはいかに深いことでしょう。(詩篇92の2〜6)

ダンテはこの地上楽園を歩んでいて一つの大きな疑問を抱いた。それは、煉獄の山では、地上世界にあるような雨風、雪など一切ふらず、風も吹かないと言われていたのに、なぜここでは、心地よい風があり、その風によって樹木が崇高な松風のような音を立てているのか、との疑問である。
それに答えてマチルダは次のように説明した。
たしかに、煉獄の門から上は、地上にみられる雨風、雪などはいっさいその影響が及ばない。しかし、ここでは地球をとりまく大気がそのまま東から西に動いているゆえに、樹木の葉もそれによって音をたてるのだという。
神曲においては、天国は、何層もの天があり、最高の天は第十の天で至高天、その下の第九の天が原動天という。その原動天が回転することによってほかの天体も回る。そしてそれにつれて空気も東から西に向かって動く。これが風となって樹木の葉にもあたり、妙なる音を生み出すのである。
この煉獄の山は、「生きた大気」(*)の中を高くそびえている。

(*)原語は、 l'aere vivo。 OXFORD大学出版局発行の訳注解書「PURGATORIO」(R.M.DURLING訳)では、 living air と訳されている。河出書房の平川訳は、「活性の空気」、中山昌樹訳は「生々たる空気」、生田長江訳は「霊活なる大気」などと訳している。

煉獄の山のいただきは、生きた大気の中にあるゆえに、それは地上楽園の樹木をして、うるわしい楽の音を生じさせる。それだけでなくそこにある樹木、植物たちの種は、その地球のまわりを回転する生きた空気の動きによって、地上にそのさまざまの種を蒔いていく。それゆえに、地上では思いがけないところに、植物が芽を出して育っていくのであると説明された。
このような説明は、現代の私たちにとって何の関係もないことに思われるかも知れない。
しかし、ここに込められた真理は、私たちにとってもさまざまの信仰にかかわる暗示を与えるものである。
天来の風によって、罪清められたものたちは、地上世界で罪の赦しを経験していない人たちには聞こえないさわやかに響く音を聞きとることができる。それは、聖霊の風がかなでる音ともいうべきものであろう。
また、さまざまのこの世の苦難、悲しみの雨風が降り注ぐけれども、神を固く信じ続ける者には、煉獄の山には地上の雨風が及ばないように、そうしたこの世の嵐が及ばない魂の奥の一点というべきものを与えられることもたしかなことである。そしてそのところで時には小さくなりつつも、光を感じることが与えられている。
そして、その聖なる霊の風によって私たちの精神の畑には、さまざまの天国の種というべきものが蒔かれ、芽を出していく。本来もっていなかった平安の種がまかれ、主の平安を与えられる。また他者のことなど思いやることのできなかった心にも、愛の種がまかれ、敵対するものに対しても憎しみをもってせず、祈りをもってするような心が芽生える。これはまさに聖なる霊の風によって魂に蒔かれた天の国の種だといえよう。
あるいは、弟子たちにも見られたが、何度もキリストを否定して逃げ去ったような心のなかに、いのちを捨ててでも福音を、復活の証しをしていこうという力が与えられる。これもまた御国の力の種が蒔かれたからである。

次いでダンテが疑問に思ったのは、煉獄の山の頂上であるにもかかわらず、清い川が流れているということであった。
雨もふらないのになぜ流れているのか。
これに答えてマチルダは次のように説明した。
これは、地上の川のように、雨風によって生じ、またそれらがないとたちまち渇いてしまうのでなく、永遠に渇くことのない、泉から湧いて出るのだと。
その源泉とは神であり、神ご自身がたえず新たな水を注ぎだすのである。
これは、聖書の最初の創世記の二章に記されていることをダンテは新たな啓示を受けてこのように記したのである。

…水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。
エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。(創世記2章より)

このエデンに流れていた川もまた神ご自身が流れを起こして、全世界へと流していたのである。聖書の記事はこのように書かれたはるか後の時代にまでさまざまの霊感を呼び起こし、あらたな詩作を生み出し、また行動を導くものともなっている。
主イエスご自身も、この創世記の記述がご自分の聖霊が注がれた魂の状況を暗示するものとして次のように言われている。
…私を信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。 (ヨハネ7の38)
ダンテの神曲という作品自体が、神から流れ出た一つの命に満ちた川なのである。
この川は二つあった。一つはエウノエ(*)、もう一つはレーテであった。

(*)エウノエ eu noe とは、造語であってeu はギリシャ語で「良い」という意味の接頭語、noe はギリシャ語の ノエーシス noesis から作られた言葉。ノエーシスとは、知性とか思考(intelligence、thought)と訳される。(Oxford Greek-English Lexikon)そして、この語から派生した哲学的にも重要な語に、ヌース(理性)がある。
また、レーテーとは、ギリシャ語の レートー letho(気付かずにいる、隠されている、忘れる意。後にはランタノー lanthano となる)に由来する言葉。
なお、この語は、否定の接頭辞が付くと アレーテイア a-letheia となる。それは、 隠されていない、忘れられないもの、という意味を持つ。それが、ギリシャ語で重要な、従って新約聖書でも特に大切な言葉である「真理」(アレーテイア)という語になっている。
たしかに真理は、どんなに人間が隠しておこう、封じ込めておこう、滅ぼしてしまおうとしても、決して隠されたまま、忘却されたままになることはない。いかなる歴史や時代の激動にも耐えて現れてくるものである。

一つのレーテという川の水を飲むと、いっさいの罪の記憶が消されるという。このようなことも神話的で何ら私たちの現代の生活や聖書の真理とはかかわりないと思う人が多い。
しかし、十字架による罪の赦しの福音を信じるということは、このレーテの川の水を飲むということに相当すると言えるのである。それを本当に飲むならば、私たちは過去のさまざまの罪がぬぐい去られたと実感するからである。
過去に犯してきた、そして現在も続いている罪がこあるかぎり、私たちの心に暗雲がひろがって消えない。そのため霊的な力もなく、前進する気持ちもなえてしまう。十字架のイエスによって罪赦されるということによって、そうした罪を犯してきたという後ろ向きの気持ちから解放される。
だが、十字架のイエスを知らないとき、信じようとしないときには、多くの現代人は酒や遊び、さまざまの娯楽などで無理やりにレーテの川の水を飲もうとして、一時的に自分の罪を忘れようとする。しかし、そのようなことをいくらしても決して罪の記憶を消し去ることはできない。
次いで、ダンテはもう一つの川を知らされる。それがエウノエであり、その川の水は、あらゆる良い行動を思い起こさせるはたらきを持つ。
私たちにとってよい行動として思いだせるようなことは何か。
パウロが指摘しているように、「正しい者は一人もいない。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ3の10〜12)ということ、そして主イエスご自身が語られたように「私のうちに留まっていないならば、あなた方は実を結ぶことはできない。わたしを離れてはあなた方は何もできない。」(ヨハネ15の4〜5)という言葉を思い起こすならば、もし主イエスと結びついているのでなかったら、だれも思いだすべきよい行動など有り得ないということになる。
どんな人でも、キリストとかたく結びついていなかったら、どうしても自分のため、人から認めてもらうため、相手の関心をひくためといった不純なものが生じる。
一時的には純粋な心であっても相手が感謝などしなかったらたちまち不満や怒りとなるということは、すなわち自分へのお返しをひそかに期待してやっているということにほかならない。
それゆえ、私たちが思いだすよい行動は、主とともにあるとき、主が私たちの内にとどまってくださって、その内なる主がして下さったことを思いだすということになる。
そうであれば、それは自分のよい行動でなく、主がして下さったよきわざなのである。それを思い起こすときには感謝と喜び、そして賛美が自然にわいてくるであろう。
たしかに、このような意味として、このレーテの川の水とエウノエの川の水を飲むならば、私たちはダンテが書いているようなこの上なきよき味わいだと実感することができよう。そしてこれら二つの水を飲まないとよき効果はない。たしかに、罪の記憶を、罪それ自体をキリストによってあがなわれ、清められなかったら、キリストと結びつくことは有り得ない。
そして、これら二つのことは、現代の私たちにとっては、聖なる霊がなすはたらきだと言えるのである。
聖霊は、キリストご自身の霊であるゆえに、私たちを清める。そしてよき力の原動力となるゆえに、私たちの思い起こすときにもよきことのみを思い起こすであろう。主イエスが、「聖霊はあなた方にすべてのことを教え、私が話しておいたことをことごとく思い起こさせる。」(ヨハネ14の26)と言われたとおりである。
私たちのよき業とは、イエスが語られたみ言葉のとおりに行うことであり、聖霊の導きにしたがってなすわざであるゆえに、私たちの魂が思い起こすのはすべてキリストのはたらきを思い起こして賛美と感謝をささげるということになる。
そしてこのようになれたら、それはたしかにダンテが書いているように、「比類のない霊的なよき味わい」(133行)の日々だと言えるであろう。

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