リストボタンことば

(328)神への賛美
(われわれに)理性があれば、どうだろう。われわれは人と一緒の場合にも、一人の場合にも、神を賛美したり、ほめたたえたり、その恵みを数え上げるべきではないだろうか。畑を耕しているときも、鋤を使っているときも、食事しているときも、神の讃美歌をうたうべきではないだろうか。
「偉大なる神! 神はわれらに土地を耕すこれらの道具を与えて下さった。偉大な神! 神は手を与え、喉を与え、胃を与え、知らない間に成長させ、眠りながら呼吸をさせて下さる。」と。
また、神はわれわれにそれらを理解する能力や、使う能力をも与えて下さった。それゆえに、最も大切で最も神的な讃美歌を歌うべきである。
…多くの人々は、盲目になっているのだから、だれかがその埋め合わせをして、みんなのために、神への讃美歌をうたうべきではないだろうか。足の不自由な老人である私は、神を賛美するのでなければ、ほかの何ができるだろうか。
…私は理性的存在である。それゆえに、私は神を賛美するべきなのである。これが、私のなすべき働きである。私はそれをする。そして私に与えられているかぎり、この地位を捨てないだろうし、またあなた方にも、この歌をうたうようにすすめるのである。
(エピクテートスの談話集「人生談義」上巻 七〇〜七一頁 岩波文庫 )(*)

(*)エピクテートス(紀元五五〜一三五年頃)は、ギリシアにおける足の不自由な奴隷。解放された後、哲学を教え、ストア哲学者として著名。その談話集(語録)は、今日まで多くの人によって愛読されてきた。ヒルティも幸福論(全三巻)の第一巻の冒頭で、エピクテートスの思想のエッセンスが含まれている内容を取り入れている。

・ここで言われていることは、哲学といっても、何も難しい議論、難解な思索を要求するものではない。それは本来は、だれでもができることであり、キリスト教的主張であることに驚かされる。使徒パウロが、常に喜べ、祈れ、感謝せよ と教えているのと似たものを感じる。
また体にハンディがあったり、年老いても、神を賛美することにおいては、何ら妨げとはならない。そして、自分だけが賛美するのでなく、神から受けたものが分からない人たちに代わって賛美するのだ、そして、ほかの人たちにも神への賛美の重要性を勧めるのだと言っている。
これは、本当によいことは、自分だけで納めておかないという姿勢がある。これも、互いに分かち合うことを重視するキリスト者の考え方にとても近いものがある。
(329)神と悪魔
 神は助け、悪魔は挫折させる。神は善をみるのが敏感であり、悪魔はたくみに悪を探し出す。
善を残して悪を覆うことを思うのは神である。悪を明るみに出して善を駆逐しようとするは悪魔である。
神の前に出でて小さき善も幼い芽が、日光を受けたように成長しする。しかし、悪魔の息に触れて小さな悪も大きい悪となって現れてくる。
神は奨励するお方であるが、悪魔は失望させる者である。(内村鑑三著「聖書之研究」一九〇三年二月)
・私たちが神からの愛を受けるとき、私たちの知人友人たちの悪や欠点をさらすことなく、そのことのために祈る道を選ぶであろう。しかし、そうした神の愛なきとき、私たちは、そうした人たちの悪を人前にさらしてしまう悪魔の道に陥ることがある。
主よ、私たちを導いて、そうした道でなく、神の愛の道を歩ませて下さい。
(330)天のとびらが開かれるために(敵を愛するの結果)
私を憎む人を愛するのは極めてむつかしいことである。しかしこれは、主キリストが命じられることであるゆえに、私が努めてこのことをするとき、見よ、天の扉はわが心の中に開けて、われはそこにありありと主をその栄光においてみることができる。
辛いことの背後には最もよろこばしいことが隠れている。
私たちは何事にかかわらず勇んで主の命に従うべきである。(同右)
・私たちを害する人に対しては、だれでも不快感、嫌悪やときに相手がひどい悪をしてきたときには、憎しみも生じるであろう。しかし、そこから主イエスの言葉に立ち返り、そのような悪しき人のを愛する(祈る)とき、私たちは新たな心の世界へと導き入れられる。
このことは、経験しないかぎり、分からないことである。不快なこと、自分への理由なき中傷や攻撃、誤解などを主のためにと耐えて受けるとき、そこから、確かに何か新たな門が開ける。
逆に、相手を憎しみや攻撃でもって対すれば、開いていた扉まで閉じていく。
神の国のあらたな扉が絶えずつぎつぎと開かれていくために、私たちだれもがここに言われている道へと導かれたいと思う。

音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。