私を強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。
(フィリピ書四の十三)
リストボタン 前進と成長

だれでも前進したい、成長したいという願いがある。子供のころから、勉強や遊び、スポーツ、趣味その他において、また大人になっても仕事や人間関係、あるいは判断力などにおいて前進と成長を願う気持ちはだれでもある。
他方で、私たちはみんな正しい道にはずれたところを本質的にもっている。だれにでも愛をなし、正しいことを言うこともなすこともできない弱さ、自分中心という本性をもっている。自分中心では前進できないし成長もない。
私は、キリスト教の真理を知ってはじめて前進とは何か、成長とはどんなことなのかが知らされた。単に勉強ができても自分中心の考えで誇ったり他者を見下したりすることはかえって後退なのである。
私たちの前進や成長は霊的なものである。それゆえに、年齢や場所、経験などを越えてなされる。たとえ病気になっても、また老年になって動くこともあまりできなくなっても、さらに死を前にしてなお前進と成長は有りうる。それは、聖なる霊が私たちを導くときである。
そしてそのような前進と成長は、御国へと続いている。 小さな前進と成長しかできなかった者も、地上で多く前進したと見えるような者も、到達点の御国においては同じとしてくださるであろう。ただ、キリストを信じ仰ぎ続けていくだけで、復活のときには、キリストと同じ栄光の姿にしてくださると約束されているのであるから。 (フィリピ書三の二一)

御言葉の力

主イエスは、まず神の国と神の義を求めよ、と言われた。
神の言葉を第一に重要なものとして、時間やエネルギー、あるいは必要に応じてお金や物なども使うとき、そこには必ず何かよきことが生じていく。
神の言葉が語られる集会を重んじ、神の言葉を与えられた友人であるキリスト者との交わりを続け、神の言葉を伝えようとして時間やエネルギーを注ぐ。 たとえそれによって見下されても、また職業的に不利なこととなっても、なお神の言葉にすがり心をそこから離さない。
神の言葉を求めつつも、間違った方向に引っ張られることもあるが、それでも神に立ち返ってふたたびみ言葉を求めていく、そのような姿勢を保ち続けるときには必ず予想しなかった何かよきことがその歩みに起こってくる。
思いがけない人が福音を受け取り、神を信じるようになったり、予想もしなかった人との出会い、その人が新たなよきことをもたらし、またよき本や集まり、学びが与えられていく。
これは一年や二年では分からない。十年、二十年と続けていくことでいろいろなことを与えられていく。神の国への門をたたき続ける、そうすれば主イエスの言われたように、何か新たな扉が開かれる。
たしかに神は今も生きて働いておられる。

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