リストボタン神の心と花

春になると野山、花壇にもいっせいに芽吹き、花咲きはじめる。単に種を作るだけならば、あのように多様なかたちや色、模様などの花をつくる必要はない。
そこには、たしかにその千差万別なすがたをもって、創造されたお方が人間に指し示そうとしているものがある。
一つ一つの花、それが道端にある小さなだれも目に留めないような雑草といわれる花であっても、ルーペで見るならばそのつくりの精緻さに驚かされる。
神は、見る人の心によって、魂の成長の度合いによってさまざまのものをそこから読み取ることができるようにされているのである。
地上にある美しきものとして野草の花の美しさにまさるものはない。それはそのままそれらを創造した神のお心の美しさを指し示すものにほかならない。
私たちの心の世界にも、実に多様な花を咲かせることができるということを指し示すものとなっている。
もし、私たちのうちに、神の国からのいのちの水が流れているならば、そこから次々に新たな芽は生じ、花は咲き続けるであろう。
主イエスも、「「野の花」を見よ、と言われた。どこの国であっても、昔から花の美しさに感じた詩はみられる。
内村鑑三も花の美しさにとくに感じた人であった。以下に彼の花に関する小文をあげる。

… 歓喜は天然においてあり、交友においてあり。伝道においてあり。希望は神の無辺の愛においてあり。…
人は誰でも花を好む。花は天然のことばである。花によってわれらは天然の心を解することができる。そうしてわれら人類も天然の一部分であるから、われらの心も花においてあらわれる。
花は無言のことばである。天使の国においてはたぶん花をもって思想の交換をなしておるであろう。言葉は銀であって沈黙は金であると言われるゆえに、花は「沈黙の言語」すなわち「金の言語」であるであろう。
 私も花を愛する。私も花をもって私の心のすべての思念(おもい)を語ることができる。希望の花もあれば失望の花もある。歓喜の花もあれば悲哀の花もある。…(内村鑑三信仰著作全集第五巻一〇五頁)

春を迎えて、私たちもまた神が花に託した言葉を読み取り、それを魂の栄養としたいと願うものである。

リストボタン驚くべき御業への感謝― 詩篇第九篇

わたしは心を尽くして主に感謝をささげ (*)
驚くべき御業を全て語り伝えよう。
いと高き神よ、わたしは喜び、誇り
御名をほめ歌おう。
御顔を向けられて敵は退き
倒れて、滅び去った。

 この詩は、神に心から感謝をすることから始まっている。 この詩の作者がさまざまの困難や苦しみに直面しているのは、後半の十四節、二〇節などの内容でうかがえる。(「憐れんで下さい。主よ、死の門から私を引き上げて下さる方よ…」)
しかし、それでもなお、詩の最初にこのような心のすべてを注ぎだす感謝を置いているということのなかに、この作者の内面の奥行きの広さと深さを感じさせられる。
このような神との結びつきの心は、はるかのちの時代に使徒パウロが、「常に、感謝せよ、常に喜べ、いつも祈れ」と教えたことに通じる内容をもっている。

(*)「心を尽くして」という訳語の原文の直訳は、「私のすべての心によって」であるから、外国語訳もほとんどそのように訳されており、with all my heart; あるいは、with my whole heart となっている。わが心のすべてを用いて感謝を捧げようということなのである。

 つねに、そしてあらゆる状況にあって、神への感謝ができる、ということはキリスト者の目標であり、また義務でもあるし、そのようにできるということは、大いなる恵みの証しともなっている。
「感謝をささげる」は「賛美する」とも訳される。原語(ヘブル語)は「ヤーダー」でこれから「ユダ」という名が作られた。(*)
 じっさい、感謝することは、賛美すること(ほめたたえること)と深く結びついていることである。
 神のわざを深く知ってその驚くべきことを賛美すること、その心は自然にそのようなわざを示して下さる神への感謝となる。神のわざに対して感謝なく、無関心や不満があるならば、決してそのような神を賛美することなどはできない。

(*)「ユダ」は民族の名前にもなって、今日に及んでいる。イエスもパウロもユダヤ人である。ユダという名前は、ヤコブの子供として初めて現れる。(創世記二十九の三五) ヤコブにはレアとラケルという二人の妻がいて、ユダはレアとの間に生まれた子である。この名は「主をほめたたえる」という意味で名づけられた。このように、「ヤーダー」は「賛美をささげる」という意味でもある。

 神の驚くべき御業にはいろいろあるが、わたしたちはどのようなことをまず思い出すだろうか。ほとんどの日本人は宇宙を創造した唯一の神を信じていないから、美しい光景があっても、それらは自然にできていると思い、背後に愛なる神の御手があるとは考えない。
例えば、複雑極まりない動物の脳や目などの組織も、植物の美しい花なども、そしてそれを構成している細胞の複雑なはたらきなど、長い年月をかけて自然に形成されたというのが、ほとんどの人の考えである。
 しかし、そうした生物の組織や細胞などよりはるかに単純な仕組みを持っているコンピュータなどが長い年月に、さまざまに圧力や温度が変る状態に置かれて、多様な化学物質の集まりのなかで、ひとりでにできると考える人は、まずいない。
 コンピュータのような複雑なものができるには、その製作者の意図がある。
それと同じように、美しい自然も動植物の複雑な仕組みも、背後に製作者のご意志、ご計画、英知があって作られたのでなければ、ひとりでにできた、というのはありえないことなのである。
この詩の作者は、神の驚くべき御業をすべて語り伝えようと、まず書いている。その神のなされる働きがあまりに魂を動かすゆえに、黙ってはいられないということなのである。神を信じる人は自然のさまざまなものにも驚くことができる。
また、非常に困っていたことであっても、後になって良きことにつながっていたことを知らされることがある。
これも驚くべき御業である。 あるいは、予想もしなかった人に出会ってよきことが与えられるとか、身近にいた思いがけない人が、悔い改めて信仰の道に入るなど、神の御業は、身の回りの自然現象や人間的な経験から、また個人的なことから感じることができる。
ここでは数ある驚くべき御業のうちで、特に一つのことについて言っている。それは神の正義の力、悪を滅ぼすその支配の力についてである。この世は悪が支配をふるっているように見えるが、正義とあらゆる良き裁きをなさる神が御座に就いて、そして裁かれる。
この真理についてこの詩の作者は、はっきりとした啓示を与えられた。表面的にみれば、神の支配などどこにも見えないように見える。悪はよき人を滅ぼし、権力をふるっている。しかし、そのような状況にさらされていても、なお、この詩の作者は、神の大いなる力を見ることができた。
…御顔を向けられて敵は退き
倒れて、滅び去った。(四節)

この簡潔なひと言で現されている真理は深い。神の業、その働きは至るところにある。自然の世界、人間の世界、また過去から現在にいたる歴史の中にある。
しかし、この詩の作者は、神のただ一瞥によって悪の力が滅び去ったということに最大の驚きと感動を与えられたのである。
これは、現代の私たちにも分かりやすい表現に言いかえると、いかなる悪の力が迫ってこようとも、またあたり一面にたちこめているように見えても、神が一度その力を発揮すれば、たちまちそのような悪の力は滅びていく、ということである。
そしてこのような神のはたらきこそ、だれにとっても最も必要なことなのである。なぜかといえば、人間がこの世界で苦しみ、悲しみ、ひどくなれば生きていけなくなるのは、自分や周囲の人たちのなかにある悪の力(罪の力)に立ち行けなくなるからである。
人間同士が憎みあったり、攻撃しあうのは、自分が上にたちたいという自分中心という悪があるからであり、それが大規模となると戦争となる。人を殺してもよいなどと考えるのは悪の力に支配されたからである。
また、死んだら終わりだ、と考えるのは、死の力という最大の人間を損なう力―それゆえに悪の力と言える―に打ち勝つ力を知らないからである。
そうした人間を打ち倒そうとする力に打ち勝つのは、ただ神の一瞥で足りる。それをこの詩の作者は実際に体験し、また啓示を受けたのであった。
そのような内容を持つ詩、それは人間の感動の最も深い源泉から生まれたものである。 そしてそこに深い神の愛を実感するゆえに、この詩の作者は、この詩の後半にみられるように、貧しい人、苦しむ人の願いは必ず聞かれるという確信に至ったのであった。

…あなたは御座に就き、正しく裁き
わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。
異邦の民を叱咤し、逆らう者を滅ぼし
その名を世々かぎりなく消し去られる。(五〜六節)

この詩の作者は、非常に大きな展望を持っている。自分のいる国だけでなく、世界の国々、そして長い歴史上の出来事を通して、神がなさることを知らされたのである。ここには、さまざまなことを全体として見るという視野がある。 こうした見方がなかったら、神のなさる業について驚くことができない。
わたしたち日本人は島国に住んでいるので、どうしても小さな視野になりがちだ。
戦争で多くの人たちが死んだ国は、その人たちを記念することは、多くの国々でなされているだろう。二度と戦争をしないように、また死んでいった人たちのことを記憶に留めるため、よき思い出をいつまでも新鮮に保つためにも、そのような記念施設はある。
しかし、靖国神社のように、恐ろしい犯罪行為をしたような人もそうでなかった人もみんな神として祀るなどということは、世界の他の国々でやっているというのは聞いたことがない。
また日本人が作った歌集は古代から現代に至るまで、男女の愛情のことや身の回りの花、また自分の感情や悩みや恐れなどを書いたものが、古くからの歌の題材であった。
これは、五、七、五、七、七という形式に読み込む必要があったこと、和歌においてもわずか三十一文字におさめるということであれば到底複雑な内容、高度な問題は入ることはできなくなるからであった。
このような短い詩型で人間の心の世界がなんとか収められてきたのは、島国のゆえに他から大きな侵略も受けず、従って滅びるかどうかという深刻な試練にも合わず、また世界的な思想、深淵な宗教の影響を部分的にしか受けなかったゆえであろう。
 ダンテの神曲のような西洋の重要な詩や聖書には星のことが多く歌われているが、日本の万葉集や古今集、その他の文集などには星のことがほとんど現れないということも、そうした視野の狭さのゆえであろう。
 日本人のものの考え方は、世界のどのような民族にも通じるような深さと広がりを今日に至るまで持てなかった。
わが国の文学や芸術、思想、宗教などは世界の歴史に影響を及ぼすことがごく少なかったのはそうした理由が考えられる。
しかし聖書はそうした狭さをはるかに超えている。六節にもあるように「異邦の民」とは世界のさまざまな民を指している。イスラエルは小さな国であったが、その周りに群がるさまざまな国の悪の力や敵すべての上に、神様がいてご支配なさっていることを信じていた。
「逆らう者を滅ぼし、その名を世々かぎりなく消し去られる。」(六節)といった表現は、現代の人々にとって違和感を持たせるものであろう。
なぜ、そのような逆らう者を救わないのか、と。
これは、旧約聖書を読むとき、つねに私たちが心しておかねばならないことである。このような表現があるからと、詩篇や旧約聖書を読まないという人たちもいる。
だが、これは二五〇〇年から三〇〇〇年ほども昔に書かれたものであるということ、キリストが現れる前の時代であることを念頭におくことがまず必要である。
それとともに、旧約聖書のこうした表現の中に、新約聖書にも通じる深い内容が隠されていることを私たちは知らねばならない。
表面的な表現や言葉が受けいれられないからといってその奥に流れている永遠の真理を学ぶことができないなら、それこそ大きな損失である。
こうした「敵に勝利する、敵が滅びる」といった表現は、悪の力に勝利する、悪が滅ぼされる、ということに対応する。主イエスが弟子たちを派遣するにあたって、まず、悪霊を追いだす権威(力)を与えたとある。 (マタイ十章一〜八)
悪霊を追いだす、とはまさに悪の力に勝利することである。そして毒麦のたとえで言われているように、世の終わりには悪そのものが焼かれて滅ぼされると主イエスは明言されたのである。
詩篇に折々にみられる、「敵を滅ぼす」といった記述は、新約聖書に至って、敵のうちに宿る悪の力を追いだし、最終的には滅ぼされることをいわば先取りしているのである。
 ある人から、悪の力が追いだされるならば、福音書にあるように、その人は正常な人間に帰ることができる。悪の霊によって滅びへの道をたどっていた人たちから救い出すということなのである。
 また、それは新約聖書にあらわれる世の終わりの悪の受ける裁きを預言的に述べているということができる。
この詩人の感動は、このように非常に大きな範囲で神がご支配なさっていると共に、弱い人に対する配慮を持ってくださっているところにもあった。
それが十、十一、十三、十八節などに表れている。

…主はしいたげられた者のとりで、苦しみのときのとりで。
主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。
あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。
血を流す者にあだを報いられる主は彼らを心にとめ、苦しむ者の叫びを忘れることはない。(十〜十三節より)

「御名」を知る人とはどういうことか。御名というのは「神の本質」であるので、神の愛や真実を知る人は、人間や武力ではなく、神に依り頼む。
そして神に依り頼む人は見捨てられることがないし、また、神は苦しむ者、貧しい人の叫びを忘れることがない。

これが十九節にもふたたび言われている。

… 貧しい者は常に忘れられるのではない。苦しむ者(*)の希望は決して失われない。

(*)「苦しむ者」ここは、新共同訳で「貧しい人」と訳されているが、これらの訳語はしばしば同じような意味で使われる。なお、代表的な英語訳の一つは、やはり「苦しむ者 afflicted 」と訳している。
But the needy will not always be forgotten, nor the hope of the afflicted ever perish.(NIV)
また、詩篇注解で知られているドイツのATDの訳も、Elenden(苦しむ人、悲しむ人、窮乏している人)と訳している。

 貧しいというとお金がない人ということになり、意味が限定されてしまうが、ここでは一般的に苦しみ、悩む人のことを指している。
 貧しいだけでなく、病気や敵対する人からの悪意や攻撃に苦しむ人を全体として指していると考えられる。
 現代の日本では貧しさのために苦しんでいる人は、アジア、アフリカなどの貧しい国々と比べるなら、はるかに少ない。しかし、一般的に悩み苦しむ人は豊かな国でも、貧しい国々でも、また子どもでも老人でもいくらでもいるわけである。
 このように八〜九節で、「神は全世界を正しく治める」という広大な視野を持っていることを示すと共に、神は、苦しむ人たちの希望や願いを決して忘れられないと述べて、神のこまやかな愛に関しても深い啓示を与えられていたのである。
 このような神のなさることの深さと多様性について、この詩人は驚くべき御業を見、それを本当に知ったゆえに深い驚嘆の念を抱くことになった。
 世界のさまざまなことや周囲の現象だけを見ていると、まちがったことが至るところにみられるから、この詩の作者のように神が全世界を正しく治めていることなどは到底理解できないし、「苦しむ人の希望は決して失われることはない」といった確信も与えられないであろう。
 この詩人自身が、乏しい、貧しい、苦しむ人だったが、神が憐れみ引き上げてくださったという実感があったのである。
 自分自身に生じた事実があり、そこに啓示が与えられることで不動の確信となる。詩篇の比類のない価値は、ここにある。実体験と啓示が深く融合しているのである。
 このように、詩篇は、ほかの聖書の部分と同様に、神からの直接的な啓示が書かれているから永遠の価値がある。
それに対して、雑誌や週刊誌、新聞やテレビなどは、その時々の人間的な考えが言われているにすぎない。それらはすぐに変わってしまってすたれてしまう。
 この詩の作者が置かれていた状況は、神を賛美し感謝を捧げているからといってすべて解決してしまったのではなかった。この詩の最後の部分において、神の正義と憐れみに対する確信と啓示を与えられた上で、現実にこの作者に迫っている危機的状況からの救いに、心を注ぎだして祈り願っている。

… 憐れんでください、主よ
死の門からわたしを引き上げてくださる方よ。
御覧ください
わたしを憎む者がわたしを苦しめているのを。(十四節)

 毎日洪水のようにあふれている人間の意見や評論のただなかにあって、こうした詩篇は、闇に射している天来の光のようである。
 私たちもこのような聖書の真理に接して、神が持っておられる正義や愛の力を少しでも与えられたいと思う。そのためにこうした詩篇の世界に触れ、そこに記されている神への強い信仰に学ぶことが重要となる。

音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。