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(331)聖書と聖霊
 聖書の知識だけでは、人を救うことはない。聖書の智識に加えて聖霊の力によって人の魂は救われるのである。聖書そのものは死せる文字である。しかし、聖霊は聖書によらずには働いてくださらない。
聖書を学ぶのは、聖書によりて救われるためではない。聖霊を受けるためである。聖霊が、聖書の智識に点火して、死せる魂を活きかえらせるのである。(内村鑑三著「聖書之研究」一九〇七年三月)

・書かれた文字だけでは力がない。イエスが生きておられたとき、旧約聖書を詳しく研究し、指導している聖書学者や祭司長などの人たちがいた。しかし、彼らはかえってイエスを受けいれず、迫害して十字架にかけるほどにイエスを理解できなかった。使徒パウロも特別にそうしたユダヤ教の宗教教育を受けていた人であった。それでもキリストのことが分からなかった。 書かれた文字そのものが人を救うなら、文字が読めない人は救われないことになるし、聖書をもっていない人たちもまた救われないことになる。古代ローマの時代には、現代のような聖書もなかった。ごく少数の人たちが聖書を書き写した写本の一部を持っているだけであったし、文字も読めない人も多かった。それでも、現代よりはるかに短期間でしかも命をかけるほどの真剣な信仰を持つ人たちが広範囲に続出していった。
それは、たしかに、聖書の文字が救うというのでないことを証明している。彼らの救いは、聖霊によるのであった。文字が読めずとも、聖書を持っていなくとも、指導者や友人たちのわずかの言葉や祈り、賛美により、また集会に集うことによって聖霊を受け、信じることを得て救われたのである。
その後、一四五五年に初めて旧約・新約聖書(ラテン語版)がグーテンベルクによって印刷され、宗教改革以降、ドイツ語や英語の聖書が広く人々に読まれるようになっていったが、それまでは長い歴史のなかで、聖書を持っているというのはごく一部でしかなかったが、救いに至る人たちはずっと聖霊のはたらきによって生み出されていった。
現代の私たちにおいても、この点では本質的に変わらない。書かれた聖書を読むこと、礼拝集会や特別集会などに参加すること、ともに祈り、賛美しあうことなどによって、あるいは自然の風物などに接して、聖なる霊を受けるというのが私たちの願いである。

(332)肝心なこと
どういう話にしても、一番肝心なことは、内面に確信があるということ、話し手と、その語ることばとが、完全に内面的に一致しているということである。

(「悩みと光」ヒルティ著作集第八巻七九頁。この言葉を含む論文の原題は、「Offene Geheimnisse Der Redekunst」弁論の秘密)

・ここでヒルティが言っていることは、漢字の「信」という語の意味と似ている。この漢字は、人偏と言から成っていて、言うこととその人とが一致しているというニュアンスを持っている。信実(真実)ということである。多くの人の前で話す場合だけでなく、日常的にもつねにその人が言うことは、心にあることと一致しているということが大切だと言えよう。

(333)教と力
 キリスト教ならばそれほど貴いものではない、キリストの力なるがゆえに貴いのである。キリスト教ならば神学者もよくこれを知ることができる。
しかし、キリストの力であるからこそ、神に直接に接しなければ得られないのである。私は必ずしもキリスト教を学ぼうとはしない。しかし自分の身にキリストの力を与えられて自己を救うと同時に世を救いたいと願う。(内村鑑三著「聖書之研究」一九〇七年二月)

・いくら、隣人を愛せよ、というキリスト教の教えを聞いても、それだけでは何も変わらない。それを実行する力を与えられる必要がある。十字架のあがないということを信じたといっても、そこから赦しの力を実感せねば意味がないし、復活についても同様である。復活を信じてそのキリストの生きた力を与えられて初めて、その力は私たちにとって限りない価値を持ってくる。
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