大 中
感謝あるのみ― 上田ヤエ子姉の残したもの
上田さんとは、不思議なことですが召される前日にお会いすることができました。
私は徳島に住んでいるので、神戸市におられた上田さんのところにはなかなかお訪ねできないままになっていましたが、今回はどうしてもという気持ちがあり、月曜日の夕方にお訪ねしました。そのとき、はっきりと感じたのは、上田さんの平和な表情と、態度でした。死が近づいているというときであったし、数日前からからだの具合がだいぶ悪い状態となり、その日の夕方は食事も食べられない、という状態で、寝返りするのもやっとで苦しそうに見えました。
今回の訪問については誰にも告げてなかったのですが、その日に私が来てくれるかもしれないと思っていたと繰り返し言われたことが心に残っています。
そして今までの生涯を振り返り、いろいろ話されたなかで、「二年ほど前に召された主人が、私を神の道に引き入れることができたことが、一番嬉しかったことのようだった」と言われました。
またご夫君の最期のときまで、自宅でみてあげられなかったことや、夫君が召された後も続けていた自宅での聖書集会(偶数月の第二土曜日に私が出向いて聖書講話をしていた集会)をヤエ子さんの具合がかなり悪くなったため、別の場所でするようになったことについて、「私の家ですることを主人は望んでいたと思う」とご自分の容態が相当悪くなった状態に至ってもなお、ご夫君の願っていたことが一部できなくなったことを残念そうに言われたのでした。
自分の病気が相当重くなってもなお、そのようにキリスト者であった夫君の立場にたって、考えておられるのがよくわかりました。
そして、自分は「主人を通して信仰の道に入ることができた。主人が信仰の道を付けてくれたので、最後まで信仰を持って生きていくことができた。
最近は毎晩お祈りしていました。
つたない祈りでしかないけれど、感謝して、祈れました。ほんとに感謝あるのみです。
ひょっとしたら今日は先生が来てくださるかもしれない、と思っていた。
そして祈ってくれると思っていた。」と言われました。
自分の生涯を振り返って残された最後の言葉は、「感謝あるのみ」ということであったのが私にはとくに印象的でした。苦しいなかにも、主の平安を与えられている姿を目の当たりにしたのです。そしてご自分の葬儀のこともこうして欲しいという希望を淡々と言われ、どこか近くに移ることのような語り方でした。
上田さんにおいては、病気の苦しみがあり、次第に体が弱ってくるなかで、迫っている死の恐れというのは全く感じられませんでした。そこには、死に打ち勝つ主の平和、平安があったのです。その表情は話しているにつれて平和な表情となり、祈って下さいと言われ、ともに祈りました。
上田さんは祈りの力を知っておられました。ともに祈ることは、一人で祈る以上に平安と力を与えることを知っておられました。それは、主イエスが、「二人、三人わたしの名によって集まるところに私はいる」と約束されたことでもあります。
二人で主に祈る、そこに目には見えないけれど主がいてくださって、新たな力をそして平安を与えて下さることを体験していたのです。
その日は、ベッドで起き上がることもやっとという状態で、死の迫る苦しさのなかでも、そのように平安をもって、語ることができるということ、そこに人間の力、医学などを超えた力があることを示していました。それは主イエスが言われたように、神の愛にとどまっておられたことを示すものでした。私はそのことをまのあたりにして、深い印象を与えられました。
二年ほど前に召されたご夫君も、召される二週間ほど前に自宅の病床に、私たち夫婦がお訪ねしたとき、私の祈りの後で、「私も祈ります」と言われて祈ったとき、繰り返し、生涯を感謝と言われていました。
お二人がこのように、死を目前にして、いろいろな不安や心配、死への恐れなどでもなく、すべてを愛の神の御手にゆだね、感謝です、と繰り返し言われたこと、そこに私は主の大きな見えざる御手のわざを感じました。
死という最大のものを前にして感謝ができるということ、それは、死を前にして、漠然とした不満や死への恐れ、無気力を生じるのとは全く違ったことです。
感謝とは、直面しているさまざまのことを良きことと実感すればこそできることです。迫りつつある死すらもよきことであると実感していなかったら、そのような時には感謝の心が湧いてくることは有り得ないことです。上田さんには、敬愛する夫や神様のところに行けるという安心と静かな喜びが感じられました。
「私の内にとどまっていなさい、そうすれば私はあなた方の内に留まっている。わが愛におれ」といわれた主イエスの言葉がそのまま成就しているのをみさせていただいたのでした。
私は、わが家に咲いていた梅の花を思いだしました。それは冬の厳しい寒さのただなかで花を咲かせるものです。上田さんの死の前日の表情や言葉は、死が迫るという厳しい現実のただなかで、よき信仰の花を咲かせているのが分かりました。
私を信じる者は、死なない、永遠の命を得ていると主イエスは約束されました。上田さんはすでに主のみもとにあって永遠の命を与えられていることを信じます。
私たちに対しても、ただ信じるだけでこうした平安の世界、死に打ち勝つ力を与えられ、希望を最期までもち続けることができることを証ししてくださいました。
死に打ち勝つことができるということは、この世のいかなる苦難や悲しみ、孤独にも耐える力を与えて下さることを意味します。私たちはみな死に向かって日々近づいています。それまでにどんな苦しみに遭遇するかもしれません。
しかし、上田さんが示して下さったように、死に打ち勝つ力、最期まで希望と神の愛につつまれて生きる確かな世界、愛の力があることを覚え、希望をもって歩みたいと願っています。それが、上田さんが私たちに残した遺産なのです。
(これは、今年二月十六日に召された神戸市の上田ヤエ子姉の葬儀で式辞として述べたことです。)
上田ヤエ子さんの思い出
@貝出 久美子
ヤエ子さんを思うとき、一番思い出すのが、小柄なヤエ子さんが、腰の痛みに耐えながらご主人の介護をされていた姿です。
肝臓癌の治療中でありながら、ヤエ子さんは、ご主人を自宅で介護されていました。そんな中で、腰椎の圧迫骨折をされ、それでも、痛みをこらえて、必死で介護されていた姿を思い出します。
小柄なヤエ子さんが、動きのとれなくなったご主人を一日中、どれほどの苦痛の中で介護されたことでしょうか。
そのような厳しい状況の中でヤエ子さんが言われました。
「今は聖書も読めない。祈りもなかなかできない。でも、『いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことについて感謝しなさい』この言葉だけが心に残っている。いつか、集会の時にこの箇所だけが、浮かび上がって見えたことがあるのよ。そのときからずっと心にのこっている。今は、このみ言葉はわたしには難しい。でも心に何回も浮かんでくるの。」と。
神様の言葉は生きて働く、と言うことを思いました。苦しみの中で、たとえ祈れなくなっても、神様は決して離れることなく、心の中に働きかけてくださり、共にいて下さるのだと思わされました。
ヤエ子さんは、ご自分の苦しみを他者に語るときでも、優しいまなざしで笑顔でした。いつも、まわりを気遣い、心をかけてくださる方でした。そこにヤエ子さんを支えておられた神様の愛を思わされました。お見舞いに行ったこともありましたが、励まされたのはこちらでした。ありがとうございました、ヤエ子さん。
A 川上 ミドリ(神戸市)
上田さんとの出会いは六、七年前のことになります。ご自宅を開放されて、キリスト教夢野聖書集会をされていることを知り参加させていただくようになってからのことです。
礼拝を共にさせていただく中で上田さんの信仰に触れ、お人柄に触れさせていただきました。聖書講話の後の感話でよく御言葉に促され幼子のように悔い改められながら「私は難しいことはわからないけれど」もっともっと信仰を深めていきたいとの強い願いを語られていたのが印象的でした。
御主人を尊敬し、よく支えられていました。上田さんは、いつもご自分の信仰の弱さを思われ、ご自身を低きに置かれ謙遜に歩まれていました。ご夫妻の穏やかな笑顔を絶やさない信仰の歩みは、私の娘のあこがれの的でした。
ガンにかかり、その痛み、お腹の張る不快感等、病との闘いは経験したものにしかわからないご苦労があったことと思います。なぜこんな辛さを体験せねばならないのかと何度思われたことでしょう。
しかし、上田さんは、神様を深く知るためと、神様の御旨をしっかりと受け止められ、天国に希望をおき,信仰の生涯を全うされました。これこそ私たちの希望の生涯です。
一月に神戸中央市民病院に救急で入院された時、同じ団地で親しくお交わりされていた高橋姉が教えてくださったと川端姉が声をかけてくださり、川端姉とお見舞いすることができ感謝でした。入退院を繰り返されていたのをお聞きしていながらお尋ねもせずきたことを申し訳なく思っていたところでした。
そのときも上田さんはご自分の信仰の弱さを口にされ、「難しいことはわからないけれど」と繰り返し言われながら、「しかし、主の祈りだけは欠かさないんです。」とおっしゃいました。川端姉が、わかっていない、弱いといった上田さんの謙遜な姿勢や心こそ神様が喜ばれ、良しとされるのではないでしょうか、とお話されると、「本当ですか、よかった」とほっとしたお顔をされ子どものようにうれしそうに喜ばれたのが印象的でした。笑顔がとても輝いて見えました。
また、突然の救急入院で聖書もなにも用意できなかったんです、と残念そうに言われたので手もとに持っていた吉村孝雄兄が書いておられる「いのちの水」誌をお渡しするとうれしそうに「家に帰ればあるけどお借りします」と痛み苦しみの中にありながらも最後まで御言葉を求めようとされていました。
私も何もしてあげられなかったけれど、一つだけいいことをしたような気になったものでした。川端姉と3人でお祈りししっかりと握手し、再会できることを当然のように信じお別れしたのですが、それが地上でのお交わりの最後となってしまいました。幼子のような信仰こそ大切であることを身をもって示してくださり、天国への希望をしっかりつないでくださったことは本当に感謝です。
また会う日まで、わたしたちも上田さんの幼子の如き信仰を継承していかねばとの思いを新たにさせられています。ご主人と天国で再会され、今、喜びのうちにあることを信じます。ご遺族の上に慰めと平安が豊かにありますようにお祈り申し上げます。(阪神エクレシア所属)
B 綱野 悦子
上田ヤエ子さんとの出会いはまずご主人の上田 末春さんとの四国集会での主にあるお交わりをいただき、ご自宅での家庭集会に参加してからです。
その頃の聖書のメッセージの後のヤエ子さんの感話で「私は主人の信仰に引っ張られているようなもので、私にまかれていた福音の種がずっと土のなかで長いこと眠っていたような状態でした。それがようやくそこから芽をだし双葉になりました。神様はこんなものをもずっと忍耐して待っていてくださったのです。」
とお話しされ、幼子のようなすなおな信仰を証されたのが印象に残っています。
私は目が見えないので徳島の信仰の友に連れていってもらってご自宅での集会に参加したり、お二人が体調を悪くされてからはお見舞いに伺ったり、時折お電話で近況を聞かせてもらったりしました。
ヤエ子さんは見えない私へのさりげないもてなしと心づかいでそっとやさしく包んでくれる愛の人でした。
一昨年6月にご主人が召されて、一年後にお訪ねしたとき、ご自分の体調が次第に悪くなり、苦しみがましていくにつれ、「早くお父さん(ご主人のこと)のいる御国へと召してほしい。耐えられない苦しみを与えないでください、と神様に祈っています。でも、こう祈れることも感謝です。」と言われました。
今年の一月中頃にヤエ子さんから電話をいただき入院のいきさつを知らされました。急に呼吸が苦しくなって緊急入院されて胸にたまった水を抜いてもらったらずいぶん楽になったので退院されたそうです。
その時は息ができないほど苦しくてもう駄目かなと思ったけど、こうしてまた自分の家に帰ってこれたのは、御国に行くまでまだ置かれた場で何か神様の御用をしなさいということなのねと明るく言われました。
まだきっと苦しいだろうと思うのに、死を覚悟するほどの苦しみを通して天の御国への希望を持って、神様から生かされた命を精一杯いきようとされていて、信仰がずっと深くされたことを思いました。
突然に天に召されて驚きましたが、前日に吉村さんがお見舞いに行かれともに祈りをあわせて、主にあるお交わりをされたことを伺い、これはすべて神様の備えとお導きだったのだと思いました。
今は「お父さん」と言って先に召されたご主人と会っておられるでしょう。
そして、天にあってお二人が蒔かれた福音の種がいつか芽をだし豊に実を結ぶようにと祈ってくださると思います。残されたご遺族の皆様の悲しみを主がなぐさめ励ましてくださいますようにと願っています。
C 内藤 静代
去る二月十六日心から敬愛申し上げていた上田ヤエ子姉が天に召されました。
ヤエ子姉はC型肝炎の苦しい半生を送られましたが、いつも明るく暖かく一度お目にかかると一生忘れられないような お人柄の方でした。私はヤエ子姉の晩年に二,三度お会いしただけですが、その第一回目のお出会いが私にとって
大きな恵みのチャンスとなりました。
それは二〇〇四年九月に「祈の友」の四国集会が徳島で開催されたとき、ご夫妻で遠路神戸から参加してくださいました。そして集会が終ったときに長年ご主人の三時の祈りを見ておられたヤエ子姉が、入会の決心をされ偶然横に座っていた私に一緒に入りましょうと熱心に勧めてくださいました。その御親切に動かされて私も入会させていただくことになりました。
そして大変ささやかな貧しい祈りですが老年の大きな生きがいを与えられました。
このような大きな恵みを残してくださった、ヤエ子姉のご愛に深く感謝しております。命のある限り上田様ご夫妻の 真実なお祈りを学びつつ後に続きたいと思います。ヤエ子さん本当に有難うございました。
最後になりましたがヤエ子姉が最も愛されたご遺族様の上に、上からの御恵みとご祝福がますます豊かに賜りますようにお祈り申し上げます。
・七重八重愛の香りを漂わせ 笑みつつ逝きし感謝のヤエ子姉
C 中川 春美
上田ヤエ子さんが天に召された事を聞いた時は「そんなに早く召されるとは思っていなかった。近々信仰の姉妹とお見舞いに行く約束をしていたのに。」という気持ちでした。
ヤエ子さんは長い闘病生活で入退院を繰り返していました。ご主人の上田 末春さんがご存命の一昨年の六月までは、二ヶ月に一回の吉村さんが行かれるご自宅での夢野集会に合わせて退院される事もあり、私も時たま参加させていただいたので夢野集会でお会いできました。ヤエ子さんは集会の時も耐えられないほどの痛みに襲われる事がありましたがよく我慢されていました。
お元気な頃、御夫妻で徳島での「祈の友」の会の時参加され、「主人が毎日名前をあげて祈っているが耳を澄ませて聞いていてもどうも私の名前がない。私も主人に祈って貰いたいと思いましたが、その為には祈の友に入る事だと分かったので今日入会します。」と入会された事もヤエ子さんの思い出です。
ヤエ子さんは、とても若々しく、明るく愛に溢れた雰囲気の方で、始めてお会いした時から、何て素敵な方なんでしょうと思っていました。その雰囲気の通り、出会いから最後まで、ずっと一貫して、病気で苦しい時も痛みの時も変わらず、笑顔と愛が溢れていました。
ヤエ子さんは、若いとき看護師として働かれていて、ご自分が末期のガンで、最期に近い時という認識がおありだったと思いますが、その痛みに対する忍耐にも接して、苦しみをも越えている姿に感動しました。人間は信仰によって最後までこのように生きていけるのだと思った事でした。ご主人より少しでも長く生きて自分の役を果たしたいと願われていましたが、その通り、ご主人を天に送って、一年半後にご主人の居る天に召されました。
ご主人が召された後、信仰の姉妹と独り暮らしのヤエ子さんを訪問した事がありますが、その時短い聖書の箇所を読み、祈りを共にできました。痛みに襲われつつ、ご自宅でヘルパーさんに助けて貰っての生活で、息子さんもその日は来られていました。
ヤエ子さんのご葬儀の時の吉村さんのお話しでは、二月一五日、月曜日に吉村さんが訪問した時、「今日は来てくれると思っていた。」と三度も言われ、そして、ご自分の葬儀の事などを話されたとの事。その前後、息子さんにも病院のチャペルで葬儀を行って欲しいと依頼されたそうですが、チャペルに依頼も済んだ一六日火曜日にすべての事を果たして、天に帰られたとの事。奇跡のようにそのお話を聞きました。主のご計画の中で、すべて持ち運ばれヤエ子さんは天に帰られたのだと思います。
「信仰と希望と愛この三つは永遠に続く。」ヤエ子さんのお姿とこのみ言葉が重なり、ヤエ子さんの生き方すべてに主の栄光が現れているのを思います。
「母はただただ愛の人だった」と葬儀の挨拶で息子さんが言われていましたが、その愛の人を失って悲しみも深いご親族にどうか主の愛が注がれますように。上田末春さんヤエ子さんが遺された信仰が伝わりますように。祝福が豊かに豊かにありますようにとお祈り致します。
(編者注、川上、綱野の二人の文は、二月一八日の葬儀当日に語られたもの。他の貝出、内藤、中川の三人の文は「祈の友」誌に掲載のために書かれた文をここにも掲載した。)