大 中
ある物理学者の言葉から
高校時代に、初めて物理を学びはじめたとき、当時の物理の先生の授業は全くつまらないもので、その先生は一年経っても生徒の名前をほとんど覚えなかった。授業も、ほとんど黒板に向かい、何十年も同じことを繰り返してきたような実に単調な教え方であった。
何の情熱もなく、教える本人も教えていることにも生徒にも関心を持っていない、と感じられるような教師であった。
そのために、私はこのような授業を受けても無意味だとわかり、優れた参考書を探した。そして見出したのは、原島鮮(あきら)の物理の参考書であった。
それはたちまち物理の、とくに力学の興味深さを感じさせ、物理の問題を解くのがじつに容易になっていった。それ以後、授業はほとんど聞かずに、授業中も自分でその参考書やほかの問題集などにより、どんどん先を学んでいき、より高度な問題を解くことなどを手がけていた。
あの分かりやすさ、読者に対しての愛情をもった書き方というのは、ほかの物理の参考書には例がなかった。高校の物理の授業の何の興味も引き起こさないような教え方とは実に大きな違いであった。
私が物理への関心を与えられたのは、この原島の本による。
私がキリスト者となり、大学を卒業してから、原島鮮は、キリスト者だと分った。そしてあの独特の愛情のこもった記述が、一人一人の読者の眠っている物理への興味を呼び起こそうとするキリストの愛ゆえの書き方だったのだと感じた。
大体、大学の教授が高校の受験参考書を自分で書くということはほとんどないと言われていて、だいたいは、受験参考書出版社の人たちが書くのだと言われていた。しかし、原島の参考書は、まったく彼が書いたのだとその個性的な書き方によって誰もがわかるような書き方であった。
原島は、戦前に九州帝国大学の教授であり、戦後東京工業大学の教授を経て、国際基督教大学の教授となり、キリスト教の大学である東京女子大学の学長となった。
そしてさらにその後、東京神学大学の教授となり、召される年まで続けられた。
原島教授の教え子の一人が次のように書いている。
…バラックで行われていた物理学の講義で,私は原島 鮮先生に出会い一生の宿題を頂いた.原島先生は力学を担当されていた.その講義は板書がきれいで論理的でまことに気持ちよく,わかりやすいものであった.原島先生はクリスチャンであることが知られていた.事実,その後に国際基督教大学が設立されたとき,そこに移られたほどである.私には物理学とキリスト教との取り合わせが奇妙なものに思えていた.
ある朝,大学に通う目黒線の中でたまたま先生と隣り合わせた.いろいろとお話を伺った.電車を降りて大学構内の銀杏並木を歩くうちに勇を鼓して尋ねた.「キリスト教徒であることと物理学者であることとに矛盾を感じませんか?」.先生は静かに「物理学とキリスト教は同じものですよ」と答えられ,物理学教室がある本館に入っていかれた.
私は呆然とした.…おっしゃるのが力学を整然と論理的にわかりやすく講義なさる先生でなければ一笑に付してそのままとなっていたであろう.このことは私の一生の宿題となった.…。
物理学とキリスト教は同じものだと静かに答えたという。この教え子でなくとも、普通はそう言われたらだれしも驚くであろう。物理学とは難解な数式がたくさん現れ、数学ができなかったら分からないというのが多くの人のイメージである。そして、キリスト教は心の問題で、数式などもちろん関係なく、物理学などはごく一部の哲学者(アリストテレスのような)以外はほとんど考えたこともない時代からキリスト教は生き生きとはたらいていたからである。
原島がそう言ったのは、それはともに神の真理を扱うからだ。
キリスト教信仰は、人間の魂の救いに関する根本的真理を内容とする。物理学にかぎらず自然科学は、神の創造された世界の根底に横たわる物質的な法則、真理をその対象とする。
いずれも神のご計画、ご意志に触れ、それを受けいれ、神を賛美するということにおいて共通している。
ニュートンが、晩年に、「私は目の前にひろがる大海原の海岸で時折美しい貝や珍しいものを見付けて喜ぶ幼な子のようなものだ。」と言ったという。
物理学とキリスト教という、だれでも全く似たところがないと思われるようなものでも、キリストを信じるときには、そこに深い共通点を見出すことになる。
それは、時間についても言える。一日という時間は、千年とは全く違う大きな差である。しかし、聖書に言われているのは、「主にあっては、一日は千年のごとく、千年は一日のごとし」なのである。
同様に、イスラエルと異邦人という敵対し合っていた両者であっても、キリストによって和解して一つになったと使徒パウロは書いている。キリストの霊(聖霊)を受けたとき、それは現実にそのようになる。単に言葉で言われても決してそうならない。それは歴史が示している。
キリストの霊をゆたかに受けた使徒パウロは、ユダヤ人のためには、この身がのろわれてもいい、とまで深い愛をそそいで語っている。(ローマの信徒への手紙九章二〜三
)ユダヤ人からパウロはキリスト者であるゆえに、憎まれ迫害され、殺される寸前にまで打たれたこともあったにもかかわらずである。(使徒言行録十四章)
歴史のなかで、ユダヤ人差別や迫害がなされたのは、みなひと言で言えば、キリストの霊、聖霊を受けていなかったためということができる。
同様に、一見有り得ないと思われること、敵対する人たちにすら、愛をそそぐというようなことも、聖霊がそそがれるときには可能となってくる。パウロの例がそうであった。
私たちにおいても、聖なる風が心に吹き込んでくるときには、自分に悪しきことを計った人に対してでも、静かな祈りの心をもって対することができるであろう。私たちの多くがそのようにできないのは、ただそのようにできるほど聖なる霊を受けていないからなのである。
身近なところでは、健常者と寝たきりの病人は全く違うし、青年と高齢の老人とは大きくことなる。しかし、主にあっては、同じ人間だという実感が強くなる。主が私たちに深く宿るほどにそうした差は消えていく。
また、死と命は全く異なる。にもかかわらず、キリストを信じるときそれはつながっているものとなる。生きているときから神の命である永遠の命を与えられ、死のときにはそれがさらに完全に与えられるからである。
さらに、悲しみや苦難は喜びとは相容れないものである。けれども、主イエスは、「ああ幸いだ、悲しむものたちは! なぜなら、その人たちは(神によって)励まされ、慰められるからである」と言われた。
ここにも、正反対のものと思えるものがキリストによって一つとなっていくのがわかる。
使徒パウロが言ったように、どんな悲劇も、困難も、死も、キリストを信じるならば、すべてが相はたらいて益となっていく。それはあらゆるものを一つにしようとする神の深い愛ゆえである。
矛盾と対立、別離や憎しみなどが渦巻くこの世にあって、それらの解きがたいもつれを解きほぐし、神の愛をもって一つにしていくキリストの力を知らされているのは何と大きな恵みだろうか。