リストボタン恐れるな

イスラエルの人々は、エジプトの奴隷状態から解放され、シナイ半島の広大な砂漠地帯を歩き、シナイ山にて神の言葉(十戒)を受けた。
そしてさらに、導かれてシナイ半島北部のオアシスに着いた。
そこから目的地の「乳と蜜の流れる地」の状況を偵察するために、十二人の人たちが選ばれ、調べに行った。帰着したその人達は、そこで立派なぶどうの果実などをもって帰り、実際にその地がよい土地であることを証言した。それは神が与えてくださる土地であるゆえ、当然のことなのであった。
しかし、人々は、そのような神の導きや、与えられているよき土地のことを信じようとはしなかった。

…あなたたちは上って行こうとはせず、あなたたちの神、主の命令に逆らって天幕にとどまって不平を言い合った。
「主は我々を憎んで、エジプトの国から導き出し、アモリ人の手に渡し、我々を滅ぼそうとしておられるのだ。
どうして、そんな所に行かねばならないのだ。我々の仲間も、そこの住民は我々よりも強くて背が高く、町々は大きく、城壁は天に届くほどで、しかもアナク人の子孫さえも見たと言って、我々の心を挫いたではないか。」 (申命記一の二七〜二八)

このように、神の約束の地は、良き土地であり、そこでのすばらしい産物すら目の前で見ることができたにもかかわらず、それを信じないばかりか、いままで導いてこられた神に対して、その神を敬うどころか、神は我々を憎んでいるので、滅ぼそうとしているのだ、と考えたという。
これは古いどこか遠い国のことではない。愛の神、よきところへと導いてくださる神がおられること、そしてただ信じるだけで神の国のよきものを生きているときからすでに下さる、ということを証言しても、多くの人々は信じようとしない。
このように、この世に与えられた神の愛や真実を信じようとしないで、逆に悪意を信じようとする、ここに人間の心がまっすぐでなく、ゆがんでしまっているということが示されている。それが罪ということである。主イエスが、幼な子のような心にならなければ、神の国を見ることができない、はいることができない、といわれたのもこのような人間の現実に対して言われたのであった。
幼な子のような心とは、真実をそのまままっすぐに見つめて、受けいれる心である。
人々は、約束の地にはよきものがたくさんある、と言われても信じない、逆に何か悪いものがある、それは、ただ信じるだけで、死後は神の国にいくことができる、そこでは神のような栄光を与えられるという約束があるといっても、信じないで、死んだら何もなくなるとか、幽霊のようなものになってさまよう、あるいは地上の人の供え物など供養がなかったら暗いところに行くなどということを信じてしまう。
さらに、人間が良きことを信じることができないことは、次のような言葉にも現れている。

…そこの住民は我々よりも強くて背が高く、町々は大きく、城壁は天に届くほどで、…

良きものを信じないで、こうしたよくないことは簡単に信じてしまう。その約束の地にはいるには、強い武力を持った人たちがいる上に、高い城壁があってはいることはできない、ここにも、現代の私たちが考えることに通じるものがある。
神のところに行くには、特別に清い人、愛の人でないといけない、自分のようなものは到底そんなところには行けない。それは、天に届くほどの高い城壁があるのと同じで、自分のような世俗的な人間がそんな神のところに行くなどとは考えられない、というような気持ちである。
たしかに、私たちが自分の修養の力とか、勉強、経験、能力などによって清い人間、隣人愛に豊かな人間になってから、神のところに行く、そして天の国のよきものをいただく、ということなら、それはたしかに果てし無く高い城壁があるのと同じである。
自分の現実の心を見てもまた、周囲を見てもどこにそんな清められた愛の豊かな人がいるであろうか。一時的にそうした清い心や愛を発揮することはあるかもしれない。しかし、ちょっとした相手の不真実やかたくなな心に接したときには、たちまちそうした愛も消えていくし、相手に怒ったり、憎んでしまったりしかねない。それは清い心とはかけ離れた状態である。
けれども、その高い城壁や妨げる強い武力のようなものに、誰でもが打ち勝って乗り越える道が万人に開かれた。それがキリストを信じること、とくに、キリストがその身に私たちのさまざまの悪しき本性をになって、死んでくださったということ、死に勝利して復活し、いまも活きてはたらいておられること、聖なる霊となってこの世に神の御計画のままに今もはたらいておられること…。それを信じるだけで、私たちはどんなに高い城壁があっても、それを越える翼を与えられて、御国へと導かれる。たとえ、病気や罪ゆえに自分も耐えがたいような問題に直面したり、自分だけでなく、だれかに大きな苦しみや悲しみをもたらしてとりかえしのつかないような事態となっても―そうしたことは、約束の町に入ろうとしても協力な武力をもった人たちが妨げるのに似ている―それをも越えさせていただけるということなのである。
それは、どうしてか、「主が戦って下さる」からである。
…うろたえてはならない。恐れてはならない。あなたたちに先立って進まれる神、主ご自身があなたのために戦われる。
また、あなたたちがこのところに来るまでたどった旅の間中も、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た…(申命記一の二九〜三一より)

恐れるな!という言葉は、(「恐れてはならない」をも含め)旧約聖書では、七十回あまりも現れる。
それほど、現実の生活では神の示すところに従おうとするときには、恐れがつきまとう。周囲がまちがったことを言っていたら、それはまちがいだ、というひと言を出すことも大きな恐れがある。
戦前なら、天皇はただの人間だ、という当たり前のことを言うだけで、職業もやめさせられ、不敬罪ということで牢獄に入れられて大きな苦しみに投げ込まれる。それより少し前の江戸時代なら、ただキリストを信じているというだけで、逮捕され、その信仰を捨てなかったら処刑される、といった状況であった。
そうした状況は、家族ももろともにその苦難を受けねばならず、言語を絶するような苦しみがその後の人生に生じることになる。そうしたことを誰が恐れないでいられようか。
今日では、キリストを信じているだけで、迫害されるということはない。しかし、まず神の国と神の義を職場や家庭、あるいはいろいろな人間との交際のなかで求めたり、行動したりすれば、たちまち何らかの圧迫を受けるであろう。
恐れるな!という神の呼びかけ、命令は、神を知らない人には言われていない。どんなときにも守ってくださる神などいないと思っているときには、恐れるな、といわれても意味がないからである。守ってくれるものがなかったら恐れるのは当然だからである。
キリスト者もまた、恐れる、しかし、恐れるな、と呼びかけてくださる神を仰ぐことによってしばしば恐れを越えて、行動することが可能になる。そしてたしかに何らかの苦痛は生じるが、それを通して大きな祝福と活ける神の助けを実際に体験することができる。


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