リストボタン揺り動かされることのないために

「語っている方を拒むな」 (ヘブる書十二の二五)
この言葉は、著者がつねに生きてはたらいておられる主イエスからの語りかけを聞いていたことを示している。神はいつも風の吹くように、霊的に語りかけをおくっておられる。
詩篇十九にあるように、この世界、宇宙には何もないようであるが、神の言葉はつねに語られている。自然の星や雲、大空などそして身近な植物などの被造物はそれぞれに語りかけを私たちに続けている。私たちの霊的な耳が清められていくほど、周囲の世界からの語りかけをよりはっきりと聞くことができる。
しかし、大多数の人間はいつもそれを聞くことができなかった。時折はっきりと聞き取った人があった。それが聖書に記されているアブラハムであり、モーセのような人々、そして多くの詩篇作者たち、また預言者たちであった。
彼らは神の語りかけを聞き、その人たちがさらに一般の人たちに神の語りかけを与え続けているのである。
はじめにあげた聖書の言葉、それは、「不信仰にならないように」という表現でなく、 「語っている方を拒まないように」との戒めである。信じていると言っても、生きた語りかけを聞いていることと、それを全く聴こうとしないことがある。名前だけのキリスト者であるほど、口では信じている、といいつつも、語りかけを聞いていないということになる。
語ることも書くことも、、祈ることも主から何をいうべきか、の語りかけを聞いて言うのが望ましい。単なる思いつきでは、人間的なことになり、他者にもよいものを与えることができず、かえって霊的にマイナスのものを与えかねない。
弟子たちも、主イエスに祈ることを教えてほしいと願ったのは、人間の思いを祈るのはだれでもできるが、本当に神が喜ばれるような祈り、神からのよき語りかけにふさわしい祈りは何なのか、と問うたのである。
神からの語りかけを聞いているときには、人間的なことを祈ったりしない。
 私たちが主の語りかけを聴こうとするとき、主を見つめる。そのまなざしが持続的であるほど、主からの語りかけをもよく聞き取ることができる。
 しかし、人間を見つめていても、その人間が双方ともに揺り動かされる。罪を犯すということは揺り動かされること、そしてそのことを他の人が知ったとき、その人も動揺する。
あるときに一致していても、時とともに人間の考えは変るし、その人の長所とともに罪も欠点もわかってくる。そのときに、その人間関係は揺り動かされる。
創世記の最初に記されているアダムとエバ、それはいかに人間が揺り動かされることが容易であるかを示すものである。神に創造され、神に導かれていても、なお、油断すると簡単に誘惑に負けてしまうという人間の姿がそこにある。そして、ときには、人の命を奪うという大変なことをしてしまうほどに人間はあるべきところからそれてしまう。
主イエスが言われたように、岩の上に建てられるのでなかったら、みな人間は生涯を通じてさまざまに揺り動かされる状態となる。
旧約聖書の詩篇は、周囲の苦しめる者、敵対する者、あるいは病気や自分の犯した罪などで魂の根底から揺り動かされそうになる状況にあって、全身の力をこめて、神にすがって振り落とされないようにしている姿が豊かに見られる。
かつてモーセがシナイの山で十戒を受けたとき、山全体が振動した。それは神の力の大きさを象徴的に示すものであった。山すら動かす力を持ったお方が、そのご意志を十のみ言葉(十戒)として表しておられる。
神の言葉には、そうした力がある。それを守らないときにはそのような力でもって裁かれるであろうし、それを守ろうとするものには、その大いなる力をもって祝福され、想像もできない大いなる恵みを受けるということを暗示している。
永続的な力を与えるのは、経験でもなく、知識でもまた人間でもない。それらは一時的に与えることがあっても、必ず弱まり消えていく。力を与えるのは、永遠に変ることのない神の言葉である。 それは聖書であり、また生きたキリストから直接に個人的に語りかけられるものである。

音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。