「お話しください、聞いていますから」
タイトルにあげた、この幼いサムエル(*)の言葉は、現代のキリスト者においても基本的な姿勢となるべきことである。
(*)サムエルとは、旧約聖書に現れる今から三千年あまり前の祭司、預言者。母親の切実な祈りによって神から与えられ、幼少のときから、神に捧げられ神殿にて生活するようになった。
神を知らないときには、まず神からの語りかけを聴こうとすることなく、まず自分の感情や思い、知識、意見を出そうとする。
神が本当におられるということを知ったとき、そしてその神が生きて働いておられる神であるゆえ、その神は当然私たちに語りかけておられる。しかも万物を創造しいまもそれらを支えておられる。そして神は愛であるなら、当然そうした被造物も愛によって創造され、愛をそこにくみ取ることができるはずである。
サムエルが現れた時代は、神の言葉は稀であった。そのようなとき神はだれも予想もできないようなときに、突然そのご意志によって語りかける人を起こされる。
子供であり、かつ眠っているときに語りかけられた。これはいかに通常の予想を越えるかたちで神の語りかけがなされるかを示すものである。
現代もまさに神の言葉は稀であり、それを聞き取る人はごく少ない。とくに日本ではそうである。
しかし、そのような状況であっても神はその言葉を聞く人を起こされてきた。
それはこのように、子供である場合もあれば、モーセのような遠い異国にて結婚し、イスラエルの人たちとはまったく関わりをもたなくなったような人の場合もある。モーセの場合、結婚したということは、その土地に住み着くということであり、イスラエルの人々がエジプトで苦しんでいることは遠い世界のことになっていた。
そして、羊飼いとして静かな生活をしていた。そのようなとき、だれが大国エジプトにいる数知れない人々を救い出すような働きに呼び出されると予想しただろうか。
アブラハムの場合は、どのような状況のときに神が語りかけられたかは記されていない。しかし彼の人生のなかで突然そうした語りかけがなされ、それを聞き取って未知の世界へと旅立った。
これはキリストの弟子たちも同様であった。ペテロやヤコブ、ヨハネたちは漁師の仕事をしていた。そのときにイエスが通り掛かって、私に従え、と語りかけた。するとすぐ彼らは漁師の仕事を捨てて、イエスに従った。
(マタイ四の十八〜)
これらは神の言葉が突然、思いがけないときに語りかけられること、そしてその言葉を聞き取った人は、まったく異なる歩みを始めるということを示す。サムエルはみ言葉を豊かに受けた。それゆえに、そのみ言葉の力がイスラエルにもおよんでいった。これは神の言葉の驚くべき力を示すものである。この箇所においても、主がともにいる、ということと、神の言葉を受けるということが結びついていることが示されている。
新約聖書においても、「お話しください、しもべは聞いていますから」という姿勢はよく知られた箇所で現れる。マルタとマリヤのことである。
(ルカ十の三八〜)
人間世界の問題は、たいていこの神からの語りかけを聴こうとしないということから生じている。人の心のなかは、人間的な考えが中心となっており、自分中心の意志が働いている。そしてときには怒り、ねたみ、欲望等々の感情に動かされている。神を知らないときにはそのような状態で日々生きているし、それが当たり前のことであって何ら疑問に思わない状態であった。
神を知らされて初めて、それらとは異なる神の意志があり、そこから出される言葉があるのを知らされる。争いも怒りもそしてそこから不安や動揺など、それが続いていくのはみな、神の言葉を聴こうとしていないところから生じる。静まってみ言葉に聞くとき、初めてそれらのなかに静まるところ、港があり、そこに導かれる。
神はご自身をどのような方法であらわされるか、奇跡や自然の力、美、等々である。
そしてそれらの根源には、み言葉がある。主は、み言葉によってご自身をあらわされる。
それゆえに、聖書の最初にも 暗黒と混沌という絶望的状況を変革するのは、光あれ!という神の言葉であることが宣言されているのである。