リストボタン主よ、いつまで…
―詩篇十三篇―

2 いつまで、主よわたしを忘れておられるのか。
いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。
3 いつまで、わたしの魂は思い煩い日々の嘆きが心を去らないのか。
いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。
4 わたしの神、主よ、顧みてわたしに答えわたしの目に光を与えてください。
死の眠りに就くことのないように。
5 敵が勝ったと思うことのないように。
わたしを苦しめる者が動揺するわたしを見て喜ぶことのないように。
6 あなたの慈しみに依り頼みます。
わたしの心は御救いに喜び躍り主に向かって歌います。
「主はわたしに報いてくださった」と。

 この詩篇には、「いつまで…」という切実な問いかけの言葉が四回も重ねて主に発せられている。このように繰り返し言われているのは、詩篇全体の中でこの詩の他にない。
 健康で、家庭や仕事も順調で、まわりの人たちもよい人ばかり、といった状況では、神は愛をもって自分を守っていて下さっていると、思うのは容易である。
しかし、突然の事故や、苦しい病気、また家族や友人との深刻な対立、仕事がなくなるなどといった耐えがたい事態に直面するとき、そしてそのような状況が変わらないとき、私たちは信仰そのものが揺らいでくる場合がある。
この詩の作者は毎日の嘆き苦しみが心から去らず、また自分に敵対する周りの人間関係などで心に深い悲しみ、苦しみを抱えていた。いくら祈っても、叫んでも、心に平安もなく、力も与えられない。そして自分に敵対する人の力も弱まることもない。状況がまったく変わらないというとき、神は自分のことを顧みては下さらないのだ、という気持ちが頭をもたげてくる。
神そのものの存在を疑うことはなくとも、神は、私を見捨てているのではないか、という深い疑問が生じてくる。
この詩の作者に迫っていた、「敵」というのは、自分を攻撃し、憎み、何らかの悪意をもって迫ってくる人であった。そうした敵は、現代においても、その程度の多少の差はあっても、もし私たちが職場や家庭で、神への信仰をはっきり表し、神のことを第一にしていくときには、必ず現れてくる。
そのような信仰第一という姿勢を表明しなくとも、何らかの悪意や理由のない攻撃を受けるということはよく生じることである。
その苦しく耐えがたい状態からどうしても救い出されないということが、この作者に降りかかった一番の災いであった。「一体いつまでこの苦しみが続くのか」と「苦しみはずっと終わることが無いのか」という叫びが日々この作者の心にあった。
 このような苦しい心の状況は、他の聖書の箇所でも、詩篇や哀歌などにもしばしば現れる。

…主よ、あなたはとこしえにいまし、
代々に続く御座にいます方。
なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ、
果てしなく見捨てておかれるのですか。
主よ、御もとに立ち帰らせてください、
わたしたちは立ち帰ります。
わたしたちの日々を新しくして、
昔のようにしてください。(哀歌五の十九〜二一)

哀歌には、自分たちの国が敵によって徹底的に破壊され、滅びてしまったときの深い嘆きと苦しみが記されている。そしてその絶望的な状況のなかから、神に向かって叫び祈るすがたがある。ここに引用したのも、そのような一節である。
いつまで続くのか、この苦しみは終わることがないのか、という切実な訴えである。
また、詩篇には、こうした苦しみの叫びは、十三篇以外にもしばしば見られる。

…主よ、帰って来てください。
いつまで捨てておかれるのですか。
あなたの僕らを力づけてください。
朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、
生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。
あなたがわたしたちを苦しめられた日々と、
苦難に遭わされた年月を思って、
わたしたちに喜びを返してください。(詩篇九〇の十三〜十五)

いつまでも苦難が続く状態にあっても、神に叫び祈ることを止めない。これこそ聖書に記された人たちの大いなる特質である。自分たちに悲劇的な事態が生じるから、神などいない、と簡単に決めてしまうことがよくある。とくに神との生きた交わりを経験したことのない場合には、表面的に神を信じるといっていても何らかの苦しみが生じると、たちまち神などいないと思い込み、信仰も捨ててしまう。
しかし、詩篇に現れる人たちは、どんな苦しみが生じようとも、神を信じることを止めない。あくまで正義と万能の神、憐れみの神がおられるという一点にすがり続ける。 自分には分からない理由で、神が私を顧みて下さらないのだ、という思いである。それゆえにこそ神を仰ぎ、叫び続ける。
私たちにとって、このような詩篇の作者の心の姿勢は大きな励ましとなる。私たちの現実の生活においてもそれぞれの人がさまざまのその人にしか分からないような重荷や苦しみに出会い、それを耐えている状況であるからだ。
新約聖書では、このような「いつまで続くのか…」という叫びは、やはり困難な迫害の時代に記された黙示録に現れる。

…小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。
彼らは大声でこう叫んだ。
「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」(黙示録六の九〜十)

この黙示録も当時のキリスト者たちがローマ皇帝ネロによって迫害され大変な苦しみの中で書かれたと伝えられていて、キリストの証しをしたために殺されてしまった者達が次々と出た。
今の私達の平和な時代と違い、神を信じることで仲間が拷問を受けて殺され、ライオンの餌食にされるという大変な迫害の時代であって、どうして神は私達を放っておくのかと、いつまでこのような状況が続くのかという深刻な問いである。
 信仰があるなしにかかわらず、苦しい状態がずっと続くとき、いつまでそれが続くのかという思いがだれの心にも生じる。けれども信仰を持つ者には、「死」すらも乗り越える勝利が与えられているのだという約束を信じ、希望を持つことができる。
しかし、信仰を持たない者は「死」を乗り越えられないのであり、希望を見いだすことができないという苦しみがどこまでも伴う。
この詩は三つにはっきりと分かれている。二、三節は苦しみのなかで叫んでいる現状、四、五節はその苦しみの中からの祈り、六節はその祈りが聞かれた結果だということが分かる。
神を信じる人は、生きていく過程で直面する大きな苦しみにあっても、最終的にはこの三つの過程を経て導かれていく。これらをらせんのように何度も繰り返し神に近づいて行く。
この詩人の祈りは、四節に圧縮された表現で表されている。
ここでは二つのことが言われている。原文では、二つの命令形がある。(英訳の方が、原文のニュアンスをより忠実に表している。)

…見てください、 私に答えてください、 我が神よ。
光を下さい、わたしの目に。
さもなければ私は死の内に眠ってしまう…。

Look on me and answer, O LORD my God.
Give light to my eyes, or I will sleep in death;

神からのまなざし、そして神が私たちの祈りや叫びを聞いて答えて下さるということが、人間にとって決定的な重要性を持っていることをこの詩は示している。
人間が耐えがたいのは、だれからも語りかけてくれない、だれも聞いてくれない、ということである。そのような孤独にあっても、神だけは、私たちを見つめ、答えて下さるという確信をこの作者は与えられていた。
答えて下さる神を持つということ、神からの応答は私達に一番の力となる。カウセリングなど悩みの中にいる時に人が応答してくれるということは、励ましになるであろうが、そのカウンセラーが苦しむ者の本当の叫びを受け取れるかどうかはしばしば疑問である。人間関係の破壊、他者からの憎しみ、あるいは死に迫る重い病気などなど、カウンセラー自身がまったく経験したことがなければ、そういう苦しみに適切に対応することはとても期待できないからである。
しかし目には見えないけれど、神様の臨在、神様からの答え、励ましを頂けるならば、それにまさるものはない。
神からの静かな細い声、その語りかけこそは、いかなる事態にあっても一番の力になる。孤独の中にある時ほど神の声を深く聞くことができる。もし私たちに、個人的に神が語りかけて下さるときには、周囲の人々による無視や敵意などなどが降りかかっても耐えることができる。
この作者が祈り願っていることには、もう一つある。それは、「私の目に光を与えてください」(目を輝かして下さい)という祈りである。目に光を! という願い、それは心に光を!という願いにほかならない。
このような祈りの言葉は、現代のキリスト者においてもあまり出されない表現だと思われる。目と魂の深い結びつきをこの言葉は表している。
 ここで分かるようにこの詩人の心にあった願いは、「霊の言葉」と「霊の眼」のことである。神が答えて下さるとは、霊の言葉が与えられることであり、光が与えられてさまざまの目には見えないことがわかるようになるとは、霊の目が開けるということである。
眼に神からの光が与えられなければ、神そのものが見えず、神が創り、支配しているということ、神の助け、悪の無力さ等々も見えない。人間の力や計画、あるいは偶然、運命といったものや、悪魔のようなものがこの世を支配していると思ってしまう。それゆえに、悩み、苦しみが生じる。
この詩の作者は、そのような魂の状態を、死の眠りに落ち込んでしまう、と言っている。生きるということは、そしてさまざまの敵対する力に勝利し、命を与えられることは、この世の知識や学問、あるいは経験といったことでなく、ただ神の光を豊かに受けているかどうかによるという洞察をこの作者は持っていたのがわかる。
耐えがたい苦しみの中から、それでも神への信頼を失わずに神を求め続ける、そこから最終的に与えられたのが、そうした困難からの救いであった。作者は次のようにうたってこの詩を閉じている。

…あなたの慈しみに依り頼みます。
わたしの心は御救いに喜び
主に向かって歌います。
「主はわたしに報いてくださった」と。

この世の苦しみはそのままで終わることがない、必ず最終的には、救いへと達する。そのように導いてくださる神の御手を深くこの作者は体験し、啓示されたのである。
この世は数々の混乱や不正、そして汚れたものに満ちている。そして悪の力が至る所に見られる。 そのような状況であるからこそ、この詩篇という偉大な作品によって、私たちは神の勝利の力を知らされ、神に向かって祈り叫ぶことが決して無駄に終わることがないという確信を与えられるのである。


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