苦しみのなかの喜び
―ダンテ作 神曲・煉獄篇第二三歌より
煉獄の山の第六の環道は、食べるという本能に負けて、味わいの良い高価なものを食べることを非常に好んだ美食家がその罪を苦しみとともに清められているところである。
ダンテは、導き手であるウェルギリウス(*)のことをいろいろに表現しているが、先生であり導き手でもあり、そしてまた父親にも勝るとも表現していて、ダンテにとっては非常に影響力が大きかった人物であったのが分かる。
(*)ウェルギリウス…BC70〜19。古代ローマの詩人。『牧歌』、『農耕詩』、『アエネイス』などの叙情詩や叙事詩で有名。ラテン文学において最も重視される詩人。
ウェルギリウスは、キリスト以前の人物であるが、このようにキリスト者でなくとも、キリストに導くという働きをすることはもちろん現在でもいろいろとある。
ダンテにとってウェルギリウスは、詩をつくることだけでなく、精神的、霊的世界の導き手として重要であったのである。
…わたしが、じっと目をこらして見つめていると、
父にも優る先生が私に向かって言った、「息子よ、
さあ行こう。私たちに与えられた時間を
もっと有効に振り分けて使わねばならない。」 (三〜六行)
ここで、時間を有効に使わねばならないということがこの二三歌の最初から出てくる。
さらに、その後の18行目にも現れる。
…私たちのあとから、私たちより速い足どりで、敬虔な亡者の一群が黙々と近づいて来て、
追い越しざまに驚いたように私たちを振り返った。
(十九〜二十一行)
他のところでもこのことが出てくる。
煉獄篇第24歌の1行目では「言葉が歩みを遅らせることも、歩みが言葉を遅らせることもなかった。私たちは話しながら、順風に追われる小舟のように勢いよく進んだ。」と記されている。
普通は語り合っていたら歩みは遅くなるし、歩きながらだと言葉も早くはできない。しかしこの場合はそのいずれでもなかった。風が吹いて船がすみやかに進んでいくようであった。
このように、速やかに進んでいくことがとくに求められているのはなぜだろうか。
それは、この環道にいる人たちは、この世で生きていくときにあまりにも罪の行いにはまりこんでいて、神の道を行くところまでいかなかったからである。
あちこちの分かれ道に入り込んだり、止まったり、後退したりしてきた。
要するに、この世に生きていたときの歩み方は非常に遅かったということである。そこで神の国を目指すには、速やかにということがここで特に書かれている。
煉獄の山の環道で出会った人たちが神の定めた道を速やかに船が風を受けて進むように行ったということは、わたしたちの生活においても言える事で、聖霊というのは風である。聖霊の風を受けていたら、わたしたちに与えられた新しい道、命の道をまっすぐに進んでいけるだろうと期待される。
また、歩みが速いということは言い換えたら、目的がひとつで非常にはっきりしているということである。
逆に、確固たる目的を持っていないときには、あちこちと道を踏み違えたり、枝道のほうへ行ってしまったりする。
地位が上がることを望んで、今日の夜は仕事上のつきあい、明日の夜は遊び、飲食で友達のところというように、いろいろなことに心を奪われていたら、神の道をまっすぐに行くことはできない。
目的がたくさんあれば当然神の国には速く進めない。
しかし神の国という一つの目的をはっきり持っている人は速く進む。このようなことから、地上の生活であまりにも怠惰であったり、脇道の方へ行ったりしているから、それを清めるために煉獄篇では、歩みを遅らせないようにと繰り返し言われている。
パウロも次のように書いている。
…あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。
あなたがたも、賞を得るように走りなさい。(Tコリント九の二四)
競走の特徴というのは、わき目を振らずひたすらまっすぐ前方を見つめる姿勢である。何をするにもいつもやはり神様を見ているということは、神の国にまっすぐ行っているということである。
目に見える仕事をどれだけしているかということではなく、霊的にまっすぐ主を見つめていたら前進していると言えるのである。それは、神の風に吹かれてずっと進んでいるようなものだと言える。
また主イエスはわたしのうちにとどまっていなければ、あなたがたは実を結ぶことができないと言われた。言い換えると、わたしのうちにとどまっていなければ、スムーズに進んでいかないということである。どんなにこの世的には立派そうな仕事をしたり、忙しくしていても霊的には何一つ実を結べないと言われた。
このように速い足取りで、一つの目的をしっかりと保ちつつ、ここにいる人たちは、苦しみを受けつつ、清められながら進んでいったということである。
ダンテは、この環道を歩いていく一群の人たちを見た。彼らは、やせ細り、見るかげもないほどであった。それを見て、ダンテは、「これはきっとエルサレムを失った連中だろう」と思った。
これは紀元七十年にローマの将軍であるティトスがエルサレムを攻撃し、神殿や町々を焼き滅ぼしてユダヤ人を追い出した歴史のなかの出来事を指している。その攻撃のときにエルサレムの城壁が包囲され、内にいたユダヤ人たちは食物もなくなり、人々は極度の飢餓に苦しめられたときの状況の一部である。
日本でも天草の乱で、どうしても攻め込むことができないので、結局周りを取り囲んで食物をとれない状態にし、徹底的に飢えさせ、空腹に耐え切れず逃げてくる者を捉えて、城の内部の状況を把握したうえで攻め込み、皆殺しにした歴史がある。
ヨセフスの歴史書にもこのことが書いてあり、自分の子どもを食べるほどの非常な飢餓で苦しめられたあとに死んでいったという。このようなことを思い起こさせるほど、この環道を歩いていた人たちは、非常に苦しめられ痩せ細っていた。
それにもかかわらず、十行目に「嘆き声と歌声が同時に聞えた。」とある。そこで歌われていたのは、「主よ、わが唇を…」という詩篇からの賛美であった。
眼がひどくくぼんで眼球がないかと思われるほどに痩せ細って苦しめられているのに、どうして喜びが一緒に伴うのかとても不思議なことである。
彼らがうたっていたのは、次の詩篇からの引用である。
…私を洗ってください
雪よりも白くなるように。…
私の罪に御顔を向けず、
とがをことごとくぬぐってください。
神よ、私の内に、清い心を創造し、
新しく確かな霊を授けて下さい。…
…主よ、わたしの唇を開いてください この口はあなたの賛美を歌います。(詩篇五一の十七)
この詩は、昔から多くのキリスト者が深い共感と慰め、励ましを感じてきた内容を持っている。この詩のはじめの部分には次のように記されている。
…神よ、わたしを憐れんでください
御慈しみをもって。
深い憐れみをもって背きの罪をぬぐってください。…
これは全部で一五〇篇ある詩篇のなかでも、取りわけ、切実な罪の赦しを求め、悔い改める詩である。これは、今から三〇〇〇年ほども昔のダビデ王がバト・シェバという女性と不正な関係を作ってしまったことが背景にあるとされているほどに、非常に重い罪からの赦しを願う内容となっている。
このように一方では、大変な悲しみと罪を持っているけれども、他方ではそれほどの重い罪をも赦してくださる、清くしてくださる神様がおられるということを九節で言っている。そして自分自身が、徹底的に砕かれた上で、そこから神に赦され、大いなる喜びが生まれ、神への賛美が生まれるという体験が記されている。
この詩篇はまさに非常に深い嘆きと喜びが共に記されている。
ダンテが、「喜びと嘆きがともに生じるような声であった」と記しているのは、このように不思議なこと、本来ありえないことが実現しているということをここで言おうとしているのである。苦しめられている中に、赦され清められた喜びがすでに見えていたのである。これは神による赦しがなかったらありえないことである。
わたしたちにもこのようなことはあり、いろいろなことでなかなか正しい道を歩けない。しかし悔い改めとともに、それを赦していただける、また新しい力をいただけるということで感謝を込めて賛美ができるということである。
次に三二行目付近には、言葉で説明してもわかりにくいことが書かれている。あまりにもやせ細っているために、眼球がないかのようになっていた人たちであったからである。(*)
(*)(日本語訳の神曲のテキストには注のなかに、このことに関する図解があるのでそれを参照)
「人間の顔にオモという字を読み取る人は、そこにはっきりとMの字を認めたにちがいない。」
これだけ読んでも何のことか分からないであろう。 ラテン語で人のことを「ホモ」と言う。ホモサピエンスというのは英知ある人間という意味である。これは英語のhumanの語源となっている。またイタリア語では「ウォーモ」と言う。これを簡単化したのが、ここにある「オモ」である。OMO
という文字のエムの字の中に O(オウ)を二つ書き込むと人間の顔のようになり、エムの内部の二つのOが目にあたる。その顔から、「オモ」から目を取ってしまうとMになる。
このわかりにくいことをダンテが書いたのは、それほどこの煉獄篇の環道にいる人たちが痩せ細っていたことを言いたかったのである。
どうしてそんなに痩せ細っていたのかと言うと「水や果実の香りが食欲をそそるからそれでこんなに亡者たちの姿がやつれてしまったのだ。」とある。
この環道のある所には、人がのぼれないような木があって実もなっているが、それには水もそそがれている。しかし、木にのぼって実を食べることができない、そんな状況となっている。
非常に空腹となったとき、目の前に香りがあるおいしそうなものが見える。それを見るだけで、まったく食べることができないなら、いっそう空腹の苦しみは増すばかりとなる。
このようにわざわざ目に見えるものを見させるが、木にのぼって食べることはできない。豊かな水が木に降り注いでいるのに、自分たちには降りかかってこない。
これはただ単にいたずらに苦しませているように見えるが、人間の本当の喜びや楽しみ、満足というのは、食べたり遊んだりという肉体を喜ばせただけでは浅いものでしかないということ、それを制御して初めて深い霊的な喜びがあるということを徹底的に苦しみを通して知らせるためであった。
わたしたちもさまざまな本能的な快楽を好きなだけ味わっていこうとすれば、人間は破滅する。しかし神はそのようなことにならないように、いろいろなことを人間に直面させる。例えば、時には病気になって、否応なく食べることも、遊んだり出歩いたりする楽しみすらもできないようになる。
この煉獄の環道で、ダンテはかつての親しい友であるフォレーゼという人に出会う。ダンテが、見たら涙が出てくるほどに苦しんでいる。
どうしてこんなにやつれてしまったのかと聞くと、彼が「永遠の御意志から力が降り、それがいま通り過ぎた樹と水の中へはいりこんだ、それでこうもこの身が痩せ細るのだ。」と不思議な言い方をしている。神がこの環道に生えている木に水を注ぎ、実もつける。しかし、その水も実もこの環道を回って清めを受けている人たちには食べることができず、苦しみを増すばかりである。それはこの人々をそのように生前の罪を思い起こさせ、苦しみを与えることによって清めるためなのであった。
このような非常な飢えと、水が降っているのに飲めない状態なのに、それによって神が、それに耐える人たちにより良い喜びを与えようとして導いているのである。七十一行目から引用する。
…われらがこの環道をめぐるとき、われらの苦しみが新たにされるのは、一度だけではない。
苦しみ、と今私は言ったが、本当は、慰めというべきであろう。
なぜかと言えば、キリストが血をもって我らを救って下さったとき、
喜びのあまり、「エリ」と叫んだのと、同じ願いが、あの木々へとわれらを導く。
この引用の終わりの部分で「あの木々」とは、水が注がれ、実もたくさんつけているが、そこを歩いている人たちは食べることができない、というその木々のことである。
この環道を歩いて清めを受けている人たちは、やせ細るほどになっている。それは苦痛であるが、慰めとも言えるという。先ほどは嘆きと喜びが同居していて、ここでは苦痛と慰めが共にあるんだと言っている。
わたしたちはこの世では信仰を持っても、苦痛をもたらすことがたくさん起こる。
しかし、主を仰ぐことを第一としていると、不思議といつもそこに慰めも与えられてくる。この世の悲しみは死をもたらすとパウロが言った。信仰がないなら、深い悲しみなどの強いショックを受けるとそれだけで絶望して心が閉じてしまう。
しかし神様の御心にそった悲しみは、永遠の命に至らせることができる。
ここで引用されている「エリ」という言葉は、一見じつに不可解な用い方がなされている。
「キリストがその血でもってわれらを救われた時に
喜んで『エリ』といわれたのと同じ願いからだ」
とあるが「エリ、エリ、ラマ サバクタニ」というのは、主イエスが十字架で釘付けられたとき、あまりの激痛と苦しみに、「わが神、わが神、なぜ私を捨てたのか」という深刻な叫びである。
ところが、ダンテはここで、その叫びを喜んで言った、というように表現している。キリストの最後の叫びを、このように用いるということは、ほかには例がないために、驚かされる。
どうしてこのようなことが言えるのであろうか。
キリスト教というのは絶望しかないと見える時ですらも、神の国の深い喜びがそのかたわらに伴っているのだという真理をここで言おうとしている。
そのことと関連した聖書の内容は次のような箇所があげられる。
一番最後に書かれたヨハネの福音書を見ると十字架で処刑されるとき、次のように記されている。
…「イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」(ヨハネ十九・30)
とある。以前の訳では「すべて終わった。」という訳で、万事休すというような全く違った意味に受け取られる可能性がたかく、新共同訳では原語が、完成する、全うするという動詞が使われていることから「成し遂げられた、全うされた」という訳になった。
人類の罪をあがなうという、神の最大の御計画が成就したという深い安堵、喜びで息絶えたということである。聖霊が導いて、このような言葉をここに書かせたのである。
イエスのたとえようもない苦しみと、また、神の御計画が成就したということに関する霊的な喜び、それをダンテは、「喜んで、エリといわれた…」と書いた。
このように、これらの人びとの賛美には苦しみと喜びとが同居していて、最も絶望的で希望がないのに、ある意味で喜びが伴っていて、彼らはその喜びと嘆きを持ちながら、早くまっすぐ前方を見て歩いていた。
キリストも激しい苦痛をも神のご意志に一致させるために耐えられた。この煉獄篇の環道にいる人たちも、飢え渇き苦しみつつも、自分の意志を神のご意志に一致させようとしている。そしてその過程において、キリストが十字架上で叫ばれた叫びと同じように、苦しみのかたわらに深い喜びがあると言おうとしている。
エリ、エリ、ラマ サバクタニ というイエスの十字架上の叫びは、大多数の人にとって絶望的な叫びとしてのみ、受け取られてきたであろうが、ダンテはここでは、その深い苦しみの背後には、同時に深淵な喜びがともなっているのだという全く意表をつくような用い方をしているのである。
この環道をダンテと会話を交わしていたかつての親しい友(名前はフォレーゼ)は、死んでからまだ五年と経っていない。普通なら地上で生きたのと同じくらい、例えば六十歳で死んだら六十年間を煉獄に入る門の前の領域で過ごさねばならない。ところが君は、もう第六の環道まで行っている。これはどうしてなのかとダンテが尋ねた。
友人のフォレーゼが答えた。
それは、彼の妻が、深い悲しみを持ちつつ、祈りを夫に注いできたからだという。その真剣かつ持続的な祈りによって、煉獄における夫の歩みが大きく速められたのだと説明した。罪を犯した魂の受けている苦しみを、自分のことのように思えば思うほどその魂は、深い悲しみを感じるであろう。うわべだけの祈りは、そうした祈る相手の心の深いひだに入ることがない。このフォレーゼの妻の献身的な祈りが、深い嘆きとともになされたのは、祈る相手の苦しみの状況を深く自分も感じていたからである。
主イエスが、人々に対してもっておられた深い共感の気持ちは、内臓を表す言葉を動詞にした言葉であらわされている。
…群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。 (マタイ九の三六)
(「深く憐れむ」と訳された原語は、ギリシャ語でスプランクニゾマイというが、スプランクノンとは、「内臓」を意味する。 )
煉獄では、このように、地上にいる人の祈りによって歩みが速められるということが、何度か記されている。
本人の祈りや願いだけではなく、他者の祈りにも力があるということを、ダンテは経験から、そして聖なる霊によって知らされていたのがうかがえる。
煉獄篇・第三歌は、その最後のところで「現世の人々の祈りで進みがずっと早くなるのだ」というひと言で結ばれている。真実な祈りは、霊的世界のアクセルのようなもので、他者の神の国への歩みを早めるのである。
神を信じ、祈りの力を信じなければこのようなことは思いもしないだろう。
今年の二月十六日に、七十九歳で召されたUさん。召されたちょうどその前日に、私はあらかじめ連絡もしないで、入院先の神戸市の病院にUさんを尋ねたが、その時、「何か予感がしていて、先生(吉村のこと)が来てくれるのではないか、と思っていた」と言われた。そしてその最後の願いは、訪れるであろう私に祈ってもらうことであった。
Uさんは「祈の友」に加わっておられた。その入会のとき、祈ってもらえる、という期待があると言われた。素朴な信仰の心に、他者の真実な祈りを受けると、霊の歩みがはやめられるというのをそれとなく感じていたのがうかがえた。
人それぞれで祈りに対する気持ちは、置かれている状態などから違うわけであるが、確かに真実な心をもって祈ってもらえるということはその人の歩みを早くするという力をもっていると言えよう。
逆に祈られるどころか、相手にされなかったりばかにされたり、見下されたり悪い言葉を投げかけられるばかりなら、歩めなくなり止まってしまったり、逆戻りしたりする。
煉獄篇のなかにも、そのような地上の人たちの祈りによって、煉獄にいる人たちの歩みが速められるという記述が何度か記されている。
第六歌の25行目でも次のように記されている。
「こうした魂たちは誰もが皆
救いの時が早く来るように
人が祈ってくれることをもっぱら祈っていた…、」
さらに、煉獄篇第八歌の69行目でも、苦しみつつ清めを受けている人が次のように言ったことが記されている。
…「君が負うているこの格別の恩恵により、
あの大海のかなたへ戻ったならば、(*)
娘のジョヴァンナに私のために祈るように伝えてくれ、
天は罪のない人々の願いは聞きとどけてくれるはずだ。」
(*)大海の彼方とは、現世のこと。神曲の煉獄の山は、ダンテの構想では、南半球にあり、彼のいるヨーロッパからは広大な海を越えてくることになる。
ここでも出会った友人からの別れの言葉として、ダンテが地上に帰ったら、娘に、自分のために祈ってくれるように言付けてほしいと言われている。
このように煉獄篇では、地上にいる人たちの祈りについて何度も繰り返し書かれている。それはダンテが祈りの力を実際にはっきりと知っていたので、このようにさまざまの箇所に組み込まれているのである。
新約聖書に、互いの励ましがすすめられている。
「…ある人たちの習慣にならって集会を怠ったりせず、むしろ互いに励まし合おう。かの日が近づいているのをあなた方は知っているのだから、ますます励まし合おう。」(ヘブル十の二五)
しかし、このような互いの真実な励まし合いということは、まさにそこに祈りがなければ―言いかえれば神の助けがなかったら、真実にそして永続的に励ますことはできない。聖書を書いた人たちはそういうことを当然知っていて、またそれをダンテが別の表現で書き表したのである。
死ぬ前に悔い改め、神を信じるようになった人たち、それは広く見ると、キリスト者となった私たちそのものである。それゆえ、ダンテの神曲の煉獄篇というのは、私たちの現在の歩みを指し示す内容をもっているのに気付くのである。
煉獄とは、悪に曲がってしまった人々をまっすぐにするところである。
わたしたちもこの世のさまざまの汚れのなかにあって、目に見えない煉獄の山を歩んでいるのと似たところがある。導いてくれる適切な指導的なキリスト者、そのような人がなくとも生けるキリストによって導かれるときには、曲がった心や生き方等々が、だんだん壊されてまっすぐになっていく。
115行目、ダンテは、過去の生活を振り返ってみるだけで気が重くなると言っている。私たちの生きていく旅路において、正しく導かれなかったときには、心が重くなり、歩みも遅くなり、しばしば前進がまったくできなくなる。
しかし、そのような状況から、ダンテを導き出してくれたのがウェルギリウスというローマの大詩人であった。ウェルギリウスが死の闇の世界を導いて、さらに苦しみつつも清めを受ける煉獄を経て神の世界へ導いていくのである。
そして天の国に着くときになれば、ウェルギリウスの働きは終わる。そして、天の国の使者(ベアトリーチェ)へとバトンタッチされる。天の国ではベアトリーチェがダンテを導くのである。
私たちもこの世に生きるとき、最初はキリスト者でない人が書いた書物であるところまで導かれ、さらにそこからキリスト者の著作家が示され…というように、次々と時がくれば新たな導き手が与えられるであろう。その新たな導き手とは、生きておられるキリストに他ならない。