真理と繰り返し
真理は飽きることがない。永遠の意味と力を持っているからだ。同じことの繰り返しであるにもかかわらず、そこから新たな意味をくみ取り、日々の力を与えられる。
真理でなければ、一度読めば二度と読む気がしない。新聞や雑誌、テレビの多数の番組などは、一度見たらほとんどはもう二度と読んだり見たりしたいとは思わないであろう。
真理でないものは、絶えずうつりゆくものを提示して、一時のはかない関心と興味をつなぎ止めておこうとする。
しかし、真理は同じことを祈りをもって読み、味わうことによって生涯を通じても飽きることなく、耐えざるいのちの水の泉となる。
例えば、「ああ、幸いだ、心の貧しい者は。なぜなら、天の国は彼らのものである」というひと言は真理である。それゆえにこの単純な言葉は二千年も無数の人々により、計り知れない回数読まれ、心で反芻(はんすう)されてきた。
主イエスが言われた意味での、「心貧しき」状態になるということは、人間の生涯の目標である。いかに人生を重ねても、もうわかったという気持ちにならないほど、このひと言も奥が深い。
そして 「天の国はかれらのものである」ということも、天の国とはどういうことか、その霊的な意味はなにか、語学的な面からも、またその旧約聖書から受け継がれてきた意味においても、そして天の国が私たちのものであるという体験は限りなく奥がある。
それは神の御支配そのものであり、その御支配が及んでいる目には見えない領域である。それが貧しきものに与えられるということが何を意味するのか、これまた、生涯かかってもなお完全に体得したということはできない。
なぜなら、神の国、神の王としての御支配は、万物に及んでおりそれがすべてわかるということは人間には有り得ないからである。私たちに与えられた聖霊が豊かであるほど、そうした神の国の霊的深みが体得されるであろうが、その聖霊が与えられるということは、たんに学問を積んでも長く生きてもそうしたこととは関係がないのである。
青い空や、星の輝きが私たちに対して持っている意味、それもまた、聖霊が与えられるほどにわかってくるから、「天は神の栄光を表す」という詩篇十九篇のひと言もまた、一生かかっても窮めたということはできないのである。
「悔い改めよ、天の国は近づいた」というイエスのひと言もまた、無限の内容をたたえている。悔い改めとは、魂の神への方向転換である。日々、神への方向転換が完全であるほど、そこに天の国、神の王としての御支配が見えてくる。このイエスの言葉は、たんに一度聞いたら終わりというものでない。
天の国が近づく、というが、天すなわち神は無限であり、国と訳されているがその愛の御支配もまた無限である。私たちがまったき方向転換をするほど、無限なるその神の御支配が少しずつ開かれていく。それゆえに、いくらこのみ言葉を繰り返しても終わったということがない。
青い空も、見飽きることがない。そこにも真理そのものたる神の愛が刻まれているからである。
そして祈りとは、真理そのものに向かってなされる繰り返しの行為である。その祈りが真実なものであればあるほど、祈りに飽きることはなく、繰り返し祈りへと引き寄せられる。
真理はおのずから飽きることのない繰り返しを生み出すのである。