リストボタン善を行う者はいない、その現実と救い― 詩篇十四編

愚かな者は(*)は心に言う、「神などいない」と。
人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。
主は天から人の子らを見渡し、探される、目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。

そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい。神は従う人々の群れにいます。
貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても、主は必ず、避けどころとなってくださる。
どうか、イスラエルの救いがシオンから起こるように。主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき、ヤコブは喜び躍り、イスラエルは喜び祝うであろう。

(*)新共同訳では「神を知らぬ者」と訳されているが、原文は、ナーバール「愚かな者」で、例えば、神を信じて正しく生きていたヨブが突然、思いがけぬ苦難に遭遇してなおも神を信じていようとしているのを見て、妻が、「神をのろって、死んだほうがましだ!」と暴言を吐いたことがあった。その妻に対してヨブが、「お前は、愚かな女と同じように言う。神からよきものを受けたのだから、悪しきものも受けようではないか。」(ヨブ二の九-一〇) あるいは、兄からひどい辱めを受けたタマルが、相手に「…わたしは、このような恥をどこへもって行けようか。あなたも、イスラエルでは愚か者の一人になってしまう。」(サムエル記下十三の十三)と深い嘆きを訴えているといった箇所で用いられている。
また、英訳聖書も ほとんどが、fool と訳している

この十四編と五十三編は内容がほぼ同じであり、詩篇のなかに二回も繰り返し掲載されているのはなぜであろうか。
 書くための羊皮紙やパピルスなど材料が非常に貴重であるにもかかわらず、この詩篇は繰り返し掲載されている。それはこの詩篇の編纂者が、神からの示しを受けてあえて重複をいとわず二つを載せたと考えられる。

「人々は腐敗している。善を行うものはいない。」(一節)

現代の私たちは人間には、清い人あるいはよい人と、悪い人がある、というように考える。この詩編では誰も彼も汚れている、という驚くべき表現がされている。
このような表現は、あまりにも私たちの通常の考え方や感じ方と異なっているために、多くの人はこのような詩を好んで読むことはないであろう。
しかし、この詩は人間のふつうの感じ方で書いているのではない。
「主は天から人の子らを見渡し…」とあるように、神が人間全体を天から見る、という状況なのである。
ここには、人間はすべて神がその心の奥まで見通すならば、みな不純なところ、愛や真実にそぐわないもの、正しいことのできないものでしかない、ということがはっきりと言われている。
旧約聖書の詩篇では、敵対する人が滅ぼされるようにという願いも時々みられる。それはキリストの時代になって、そのような悪意をもって向かってくる人の悪意そのものが、追いだされ、かわりに聖霊が注がれ、生きてはたらくキリストが住むように、という願いこそが人間の持つべき姿である、というように大きく変化した。
このように、敵と神につく者たち、といったはっきりした分け方をしているように見える箇所がある一方では、この詩のように、「だれもかれも背いている。皆ともに汚れている。善を行う人は一人もいない。」(六節)と記され、人間はみな正しいあり方からはずれている(罪を持っている)という見方もまた、記されている。
世の中を見ても政治、経済、様々な事件や犯罪など社会全般がさまざまの悪いことで満ちている。その一方で黙々と人のために動く人もいる。
近所の住人、家族や身近にいる人間同士でも比べるとよい人、悪い人と非常に差が出てくるものなのに、どうしてこのように詩篇十四、五十三では、「正しいものは一人もいない。」などと言えるのか。
これは、私たちは人間と人間を比較しているから差があるように思えるが、もし私たちがこの詩人のように神様を見つめ、神様を通して人を見るなら、皆、同じように汚れていることになる。
 人間はだれでも、完全に清い人などだれもいない、みんな大なり小なり真実に反することを言ったり、不純な欲を持ったり、言うべきでないことを言ったり行ったりしてしまう。 あるいは自分が上に立とうとしたり、弱いものを見下したり、無視したり…そのようなことはきりがない。このように見てくれば 純粋な愛とか清い心の人などどこにもいないということになる。
パスカル(*)も、「無限大と比較するならば、いかなる有限の量も厳密にゼロとなる」と言っているが、愛や正義、万能といった神の無限の本質と比べるときには、あらゆる人間の愛や真実など、みな汚れたものにすぎない、ゼロに等しいものになってしまう。
 普通はこういうことを言わないのは、そのような完全な本質をもった神を判断の基準としていないからである。

(*)パスカル(1623〜1662)は、フランスの数学者、物理学者、哲学者、思想家、宗教家。

 この世で最も正しく清らかな愛のお方である神を他所に置いて、人間だけをみて比較をしてしまうから世の中の差が目に付くようになってしまう。聖書の基本的な物事の見方はいつも神が一番の基本であり、見つめるべきお方であるということである。そうすれば人間的に正しく見えていた世界が一時的で自己中心的な事柄の多い世界であると分かる。
ある時は清く、ある時は汚れる、人間とはそういう不完全なものだ。愛をもって相手に接して、次回には面倒になったり、施した愛が報われない場合は心くじけたりするような人にでも、一時的な側面だけ見て人はその人に愛があると判断する場合がある。
善人と呼ばれるような人でも、もしその人の心をすべて見えるような状態におくとすれば、それは一時的な愛や善でしかないのが分かる。
このような罪深い本性を持っているという点において、人間は同じような存在だといえる。聖書という書物はこのように、一貫して人間の最も深い本質を描き出している。それは聖書の巻頭の書である創世記に、最初の人間であるアダムやエバもそのように、不信実な存在であって、せっかくあらゆる必要なものを整えて下さっていた神への背信行為を犯してしまうのであった。
一般には選民意識といって、ユダヤ人だけが神を知らされた、異邦人は汚れているから滅ぼされるのだ、といった考えを持っている人も多かった。
そのような中に、この詩の作者は、人間はみな同じだ、ということをはっきり啓示されたのであった。真実なあり方からはずれている、という点においては…。
そして、そこから救いが必要になる。生まれつきよい人とわるい人だけがあるのなら、悪い人だけが救われるとよいのだ、ということになる。しかし、本来生まれつきよい人などいない、ということが事実ならば、救いというのは万人に必要なものとなってくる。
罪などない、という人がいるがそのような人は、自分に敵対する人を家族と同様に、あるいは愛する人と同様によき心をもって対することができるだろうか。自分を中傷する人がいたらその人に反発を感じないだろうか。会社、役所など勤務先で不正なことをしているのを知って、職をかけ、勇気をもって正しただろうか…。
そのようなことは、正しいとかまじめだ、と言われているような人であっても、きわめてわずかしかなすべきことはできていないのである。それこそが、人間が罪を持っているということに他ならない。
この詩は、まず前半でこのように、神が天から見るという視点で人間を見つめ、みな真実なあり方から背いているという事実を述べた。
そして後半においては、人間全体の罪深さにもかかわらず、神はイスラエルの人を選び、神に従おうとする人たちと共にいて下さる。悪しき人たちが力をふるおうとも、必ず神は助けてくださる。また、遠い異国に捕虜となって連行され、そのままでは民族も滅びるという状況にあっても、神は時が来たら必ずそのような絶望的状態をも知って下さって連れ帰って下さる。そして、喜びと讃美が生まれるようにして下さる。
自分たちがとくにすぐれているからでなく、神の一方的な選びのゆえにイスラエルの民族の内に神は住んで下さり、困難の折りにも助け導かれる驚くべき神の御性質を述べているのである。
要するに、この詩は人間すべてに行き渡っている罪深い状況と、それにもかかわらず、その御計画によって一部の人たちを選んで神を知らせ、神の愛によって導かれることを証ししているのである。
それだけでなく、この詩の前半は、新約聖書において重要な箇所に用いられることになった。
使徒パウロは、この詩篇十四篇がとくに人間の現状をしめす神の言葉だと知らされ、それゆえに万人が救われなければならない、その万人のための救いに来られたのが、キリストであるということを明確に啓示されたのであった。
彼は、ローマの信徒への手紙において、この詩を引用している。

 …私たちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。
既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
次のように書いてあるとおりです。
「正しいものはいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、誰も彼も役に立たない者となった。善を行うものはいない。ただの一人もいない。…」(ローマ三の九〜十二)

このローマ書三章のこの箇所を元にキリストの教義として一番重要な「救いとは何か」を二十一節から書いている。
「隣人を愛せよ」というのは、キリスト教の教えとして有名であるが、この内容自体は、聖書にかぎらず、一般の道徳でも言われることであり、このことを否定するようなことは仏教でもほかの宗教でも言われていないであろう。それは、ごく当たり前のことである。
隣人、それは人を選ばない。どんな人であっても、自分の近くにいる人、それが能力があろうと、年齢がどうであっても、また友人、悪人を問わずだれでも、という意味である。
それは大切な教えとわかっても、実行する力がない。それは人間にはそのようなあり方を妨げる力が働いているからである。それを罪といっている。
それゆえに、罪を除くのでなかったら、隣人愛などといっても単に言葉だけで終わる。
キリストは罪を除いて新たな力を与え、隣人を愛することができるようにする道を開いたのであった。
それが、「イエスを主として信じるだけで救われる。」ということである。そのことにより主と結びつき、罪を赦され、永遠の命を与えられるということにある。そこには財力、地位のある無しなど何の差別も無く、ただ信じるだけで神に義とされる驚くべき教えがキリスト教の中心である。
 
…人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いのわざを通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。(ローマ書三の二十三)

三章はこれら一番重要なキリスト・イエスを信じることによって義とされ、神と結びつくことができるという教えの準備として、詩篇十四篇が引用されている。
 人類全体の本当の幸い(救い)ということは、現実を見据えてそこから与えられるということがローマの信徒への手紙によく表れている。 
 キリストによる救いということがないなら、このように、人間はみな腐敗している、真実な人はだれもない、ということを知れば知るほどこの世に生きることに力が入らなくなる。いくら正しいことや良いことを目指して努力しても、結局それらは不純なものでしかない、ということなら、どうして生き生きした日々を送ることができようか。
 また、そのような人間の満ちたこの世でいかにして清い喜びを感じることができるだろうか。自分自身がそもそもそのような清い者でも真実なものでも有り得ないし、他人も同様ならば、そして最終的に人間はみな死んでいなくなる、というのがこの世の実体ならば、すべては空しくなる。
 使徒パウロは、こうした人間世界の闇に永遠に消えることのない光が射し込んだことをはっきりと知っていた。創世記に最初に記されている闇と混沌が広がるばかりであったが、そこに神が光あれ!と言われたら、その闇のただなかに光が存在した。
 それがまさに、人間の精神世界、心の世界を表しているのである。
 いかに罪深い現実があっても、なおそこに神はキリストを光として送って、そのキリストを受けいれるときには、私たちも自分や周囲が闇であっても、光を受けることができる。
 この詩篇十四篇は、神の目をもって現実を見抜き、さらにキリストの新しい時代をはるかに見つめていると感じられるような詩である。
 最後の部分に、つぎのように記されている。

神は従う人の群れにいます。
貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても
主は必ず、避けどころとなって下さる。
主が自分の民、捕らわれ人を連れ帰るとき
ヤコブは喜び踊り
イスラエルは喜び祝うであろう。(五〜七節)

 これらの言葉は、いかにこの世の現実が闇におおわれていても、神は、求める人と、共にいて下さること、そして遠い異国に捕らわれている人たちをも、決して忘れることなく、連れかえって下さる。そして神を信じる人たちの大きな喜びがある、という未来への、そして闇のなかの光としての神への信頼で終わっている。
 私たちも、この詩の最後の部分にあるように、弱く苦しんでいたときでも主が顧みて、罪という力に捕らわれた状態から、神の国、主がともにいてくださる霊的な国へと連れ帰って下さった者だと言える。そして大いなる感謝と喜びが与えられるようになったのである。


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