悲しみが終わるとき
私たちの生きていく過程では、それぞれに他者にはまったく分からないような問題があって、悲しみや苦しみがある。
そしてこの世における悲しみは、突然襲いかかることもある。
そのことは、旧約聖書のヨブ記において最も劇的に、そして長大な内容をもって記されている。
神を信じ敬いつつ生活し、大きな祝福が注がれて豊かな生活となっても、なお、子供がことによったら罪を犯したかもしれないと、つねにその家族のことをも祈りに覚えて生きるどこから見ても、神からの罰、裁きなど受けることは考えられないような人であった。
しかし、そのような人においても、突然理由の分からない悲劇が生じることがあるのだと、このヨブ記は提示している。そして悲しみと苦しみの深い意味がこのヨブ記という長い書物によって解きあかされているのである。
主イエスの悲しみ、とくに山上の教えにおいて、まず、その魂の内奥において砕かれたもの、何も誇るものを持っていないと自覚したものの幸いを告げ(心の貧しい者は幸いである)、それに次いで、悲しむ者は幸いだ、といわれたことの理由は何であろうか。
私たちが普通に思い浮かべる幸いとは、信仰あつい者、忍耐するもの、望みを持つもの、愛するもの、正義を行う者等々であるはずなのに、ここでは、それらを言わず、心貧しき者、そして悲しむ者の幸いを第一に書いている。それは、他者に誇る能力も自信もなく、地位もない、そして大切なものを奪われた…それが貧しきものであり、また悲しむ者たちである。
怒りでも、憎しみでも、また落胆でもなく、絶望でもなく、自分のことにせよ、他人のことにせよ、望んでいる状況や期待していること、あるいはあるべき姿と大きく異なるのを実感するとき、私たちは怒りや憎しみを大きく越えた心を抱く。それが悲しみである。それゆえに、人間に本当のあるべき姿を指し示す愛の神やキリストのことを知らないときには本当の悲しみはなく、それは怒りや絶望、憎しみなどと入り交じった悲しみとなる。
愛の神を知らずして、愛児が事故に巻き込まれて失われるとか、自分がしてもいないことをしたと言われる、またひどい差別や侮辱を受けるなど、それは相手に対して怒り、憎しみ、またそこから生きる力を失わせるほどのショックを与えられつつ悲しむ。そうした悲しみは、聖書にもあるように、死に至る悲しみである。
神への信仰を持たず、神の愛を受けていないときには、苦しいときには、そのようになった原因にかかわる人に対して怒り、憎む。しかし、愛を神から受けているほど、他者のために悲しむ。
神も旧約聖書では、その感情が、しばしば怒りという言葉で表現されていて、「神が怒る」という表現は90回ほどもある。しかし、新約聖書においては、主イエスご自身が深い悲しみをもって民を見つめられたこと、神が遣わされたにもかかわらず、ユダヤの人々が自分を受けいれないこと、そのゆえにまもなく国は滅び多くの人たちが殺されていくのをまざまざと神の啓示によって示されていたゆえの悲しみであった。
この世界に現れるべき救い主が悲しみの人であるということは、すでに旧約聖書のイザヤ書において驚くべき洞察をもって預言されている。
…彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、我々の悲しみをになった。
だが、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。(イザヤ書53の3〜5)
このイザヤ書によって、悲しみに深い積極的な意味があることが示されている。
そして、驚くべきことだが、この預言のとおりにイエスが現れ、私たちの罪をになって死なれたのであった。イエスが持たれた悲しみや苦しみこそは、最も大いなる出来事を生むものとなっていった。
このように悲しみの持つ深い意味をイエスがご自身のいのちをとおして世界に示されたゆえに、私たちにとってもそのような本来避けたいものが深い意味を持つようになったのである。
…神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。
見よ、神のみこころに添うたその悲しみが、どんなにか熱情をあなたがたに起させたことか。(Uコリント 7の10〜11)
悲しむ者が幸いだ、などということは、旧約聖書ではまったくみられない。この世の文書にも見られない。
それは主イエスが来られたことによって初めて、このような誰も考えたことのない心の世界が開かれたからである。
それは画期的なことであった。モーセ五書と言われる聖書の最初の部分、創世記から出エジプト記、そして申命記に至る三四〇頁にわたる大量の内容の部分にも、「悲しみ」が祝福とつながっているなどということはどこにも書かれていないし、その後の歴史における神のはたらき、詩篇、預言者など全体をとおしても、
わずかに、預言書の一つにおいて、人々の道からはずれた生き方を悲しみ嘆く人たちには特別なしるしが付けられて、大いなるさばきのときにも救われるということが記されているだけである。
…(主は)彼に言われた、「町の中、エルサレムの中をめぐり、その中で行われているすべての憎むべきことに対して嘆き悲しむ人々の額にしるしをつけよ」。(エゼキエル書9の4)
そして積み重なる悪行のために神からの厳しいさばきを受けるときに至っても、「身にしるしのある者には触れるな。」として、とくにそのさばきから免れて救い出されることが記されている。
エレミヤは悲しみの預言者であった。彼が書いたとされる哀しみの歌(エレミヤ哀歌とも言われる)が聖書におさめられているほどである。そこにはほかのいかなる箇所よりも深い悲しみ、そして涙がある。そしてその涙は、自分自身の病気や家庭の問題、あるいは悲しみがあったということではない。同胞が滅びゆくこと、背信を重ねて神のさばきの中に落ち込んでいくこと、彼らのかたくなさ、神のことばに聞き従おうとしないことへの深い悲しみであった。
しかし、エレミヤに深い悲しみをもたらした民族の苦難は、後に捕囚の民の奇蹟のような帰還ということによって喜びに変えられた。そのことがイザヤ書の40章以降に現れている。
、それはエルサレムの崩壊、バビロン捕囚という歴史的な苦難を受けた悲しみから、再生、復活への喜びである。
…荒野よ、荒れ地よ、喜び踊れ
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
野ばらの花を一面に咲かせよ。
花を咲かせ、大いに喜べ…
荒野に水が湧きいで
荒れ地に川が流れる。…
そこに大路が敷かれる。
その道は聖なる道と呼ばれる…(イザヤ書35章より)
これはまたキリストの霊、聖霊によるあふれる流れをも指し示すものであるし、黙示録にあるように最終的な祝福をも暗示する。煉獄篇の28歌にある、地上楽園、創世記にあるエデンの園の祝福に満ちた情景をも意味している。
そして、聖なる霊による喜びは、主イエスと再び会うことによって与えられると最後の夕食において、はっきりと知らされている。そしてこの再び会うことのできるキリストとは、復活したキリスト、聖なる霊となったキリストである。
…ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。
しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。
その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。(ヨハネ 16の22)
この世には、それぞれの人たちにおいてさまざまの悲しみがあり、苦しみがある。それを根本的に乗り越える道はあるのだろうか。
それがこの短い聖書の言葉によって示されている。この言葉が言われたのは、最後の夕食のときであった。そのとき、まもなく自分が捕らわれ、苦しめられて十字架で処刑されることを知っていた。弟子たちはこのお方こそ、長い間預言されていた救い主だと信じてすべてを捨てて従ってきたのに、わずか三年の伝道で殺されてしまう、そのことに強い衝撃を受けて悲しみに沈む。
しかし、その悲しみは必ずいやされる。それは、死んだイエスが復活し、聖霊というかたちで弟子たちのところに再び来るからである。
このようにすべてをかけて信じ、愛してきたものが無惨にも悪の手によって滅ぼされたと見えるような、最大の悲劇であってもそれをいやすものが与えられる。そしてそのときに与えられる喜びはいかなる人間も奪いさることはないと約束された。
再びイエスと会うことによって与えられる喜び、それこそは永遠的な喜びだという。
この世にはさまざまの悪があり、私たちの心の中にも入り込んで、罪を犯させ、苦しめ、悲しませる。そうした悪の力、罪の力に打ち勝つために主イエスは十字架で死んで下さった。そればかりか、悲しみを生み出す死ということについても、みずから復活され、死に打ち勝つ力が存在すること、それが私たちにも信じるだけで与えられることを示された。
そしてさらに、喪失の悲しみ、友人や愛するもの、そして健康や家庭、仕事等々、失われていくゆえに生じる悲しみを完全に埋め合わせ、たんに悲しみを忘れさせるのでなく、積極的な喜びで満たすという約束なのである。
その喜びを奪い去る者はいない、それは死すらも奪うことができない。そのような聖なる霊がもたらす喜びは、死を越えて続き、私たちが死ののちに、神とキリストのもとに復活し、そこで永遠の喜びの世界に迎えられるからである。