神とともに住む人
―詩篇第十五篇


主よ、どのような人が、あなたの幕屋(*)に宿り
聖なる山(**)に住むことができるのでしょうか。

それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。
心には真実の言葉があり
舌には中傷をもたない人。
友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。
主の目にかなわないものは退け
主を畏れる人を尊び
悪事をしないとの誓いを守る人。
金を貸しても利息を取らず
賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。

これらのことを守る人は
とこしえに揺らぐことがないでしょう。(詩篇15篇)

(*)幕屋とは、神の言葉である十戒が刻まれた石版が置かれている大型のテント。特別に分かたれた場所ということで、聖所とも言われ、後の神殿のもとになった。最近の代表的な英語訳である、New International Version(NIV)、New Jerusalem Bible (NJB)、New Revised Standard Version(NRS)などは、すべて、 古い英訳が採用していた tabanacle に代えて テント tent と訳している。
(**)シオンとは、ソロモンが建てたエルサレムの神殿のある丘を言う。後にエルサレム全体、あるいはそこに住む人々をも指すようになった。

この詩では、人間の究極的な幸いは何かということが言われている。
それは神の幕屋に宿ることで、言い換えれば聖なる山に住むことである。しかし、幕屋や聖なる山といった言葉は一般の人、初めてこの詩を読む人たちには何のことか分からない。現代の私たちの生活で、幕を張ってある場などは大多数の人にとっては思い浮かばないからである。
このような点が詩篇がなじみにくいひとつの理由となっている。当時の幕屋や聖なる山がどういう意味を持っていたかを知らない限り、この詩の中心がわからない。
幕屋というのはエジプトから解放されたイスラエルの民が、目的のカナンへ行くまで仮の神殿として、移動式の聖所として神の箱を収めていた大型のテントである。テントといえばイメージがわきやすいが、体育祭で用いるようなものを思い出し、世俗的なものを思いだすこともあって幕屋という訳にしている。
幕屋はそこに神が臨んで、人々の罪を赦される最も大事なところである。また人と神を仲立ちする祭司が神と出会うところである。
その幕屋に宿るということは神のもとに宿る、神の内にとどまるということである。
人間とは、汚れた存在、不安定なもの、愛や正義、真実といったものとはほど遠いような存在でしかない。
そのような人間が、いかにして完全な清さとすべてを見抜く目を持っておられる神に近づけるのか、そしてその神がおられるところに住むことができるのだろうか。
旧約聖書では、出エジプト記においては、モーセだけが神に近づくことを許された。他の人が神が降られる山に近づくと必ず死ぬ、と言われた。(出エジプト記19の17)
それはなぜなのか。人々が汚れているからである。神が降るシナイの山に登ることはできないので、ふもとにて神の現れるのを待った。その準備のために、人々は衣服も洗い、聖別され、三日目にようやく人々は山に現れる神と出会うことができると記されている。
それほど神と出会うためには、清められねばならなかったのである。

…民は遠く離れて立ち、モーセだけが、神のおられる密雲に近づいて行った。(出エジプト記20の21)

 聖なる山、これはエルサレムが山の上の町であり、そこにある一つの丘に神殿を建てたゆえに、とくにその丘をシオンの山といい、神がきてくださる山だとして特別に重要視するようになった。
どのような人が神様の一番近くに住むことができるのか。どのような人が神様の近くに引き寄せられるのかということである。神というのは一番の力であり、幸いの源である。そのそばに一体誰が行くことができるのか。このことは、誰にとっても重要な問題になる。
本来は、人間は汚れているゆえに神には近づけず、神とともに住むなどとは到底考えられないことであった。
しかし、この詩の作者は、当時の長い間続いてきたそのような観念を打ち砕く深い内容を神から啓示されたのである。
神のおられる幕屋、その聖なる山に住むことができるのは、どのような人であるだろうか。

…完全な道を歩き、正しいことを行う人。
心には真実の言葉があり(*)… (2節)
(*)ここで使われている三つの動詞、歩く、行う、語る という言葉は、いずれも分子形であり、原文のニュアンスを生かすと、「歩き続ける、行い続ける」と訳される。「真実の言葉」というのも原文の表現では「真実を語り続ける」と動詞形が使われている。それゆえ、英語訳では speak the truth from their heart.といった表現になっている。

 この詩の作者が啓示されたことは、たえず良き道を歩み続ける人、言い換えると、正義を行い続け、真実を語り続ける人こそ、それである。
 完全な道を歩むとか、正しいことを行う人、といわれるが、完全な道とは何を意味しているだろうか。ここで使われている「完全な」と訳されている原語(*)は、「直く」とか「正しく」とも訳される言葉である。

(*)ターミーム。この語は、この箇所では、次のように訳によってさまざまの表現に訳される。こうした意味を合わせもっていると考えることができる。 直く歩み(口語訳)、正しく歩み (新改訳)、責められるところがなく(現代語訳)、とがなく(フランシスコ会訳)、完全に(岩波訳)、申し分なく(バルバロ訳)
また、他の箇所ではこの同じ原語が、新共同訳では「無垢な」とも訳されている。旧約聖書のヨブ記に出ているヨブは
「全き人」だったと言うが、その語もまた、このターミームという語である。

この箇所で「完全な道を歩む」と訳されているが、これは、「まっすぐ神を見つめつつ歩む」という意味である。完全な、というのは、「歩む」にかかる副詞的な意味を持っているから、ほかの日本語訳ではみなそのように訳されている。神のように完全に歩むというのは不可能だが、まっすぐ神のほうを見つめつつ歩むことは、人間でも相当程度まで可能で、間違ってもまた神の方に立ち返り、再び神を見つめて歩くことを意味している。
このように、神のおられるところで住む、ということがすでに地上の生活においても可能であることが、この詩篇で暗示されているのがわかる。こういうことは、本来、旧約聖書の世界では有り得なかったことなのである。
詩篇はこのようにしばしば、だれも経験したことのない世界への扉を開くような真理が述べられている。
しかし、この神の道を真っ直ぐに歩む、ということは、至難のわざである。愛や真実、正義といったものを豊かに持ちつつ歩むことこそ、直く歩むことであり、正しく歩むことであるが、このようなことを誰が持続的に行えようか。
この詩篇で言われていることは、新約聖書のキリストによって初めてこの「直く歩む、完全な道を歩む」ことが誰にでも可能となる道が開かれることになった。

…イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。(ヨハネ 14の6)

「正しいことを行う人」が神のおられるところに住むことができるというのはわかるが、問題は、正しいことを行い続けるなどということが可能であるかどうかということである。
キリスト教の二千年の歴史で最も大きなはたらきをした使徒パウロも、次のように書いている。

…わたしは、自分のしていることが分からない。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをしてしまうからだ。(ローマ 7の15)

それゆえに、主イエスが言われたように、イエスを道として歩む、主イエスを信じ、イエスの力をいただき、主に導かれていくということがなかったら到底私たちは完全な道を歩むことなどできない。イエスを信じてイエスに導かれるとき、初めて私たちは、この詩篇で言われている正しく歩む、完全な道を歩むということが可能となる。まちがった道へと迷い出てもそこから立ち返ることによって、それまでの間違いが許されて、神の正しい道を歩んでいるとみなしてくださるからである。
 さらに3節でどのような人が神のもとに宿ることができるかが付け加えられている。友と訳されているように、人間関係の中で身近な人、近くにいる人のことを指す。「親しい」というのは「近い」という原語から作られた言葉で「隣人」とも訳される。身近な人に対することを特に取り上げている。
私は遠くの国の人を愛しています。と言っても本当は心でどう思っているか分からない。身近な職場や家族、たまたま行きずりの人、あるいはキリスト教の集まりで会う人などを悪く思ったり中傷することもある。
だからここであえて近い人に対する態度が言われている。心に真実があればそんなことはしない。やはりそれは遠くの人に対してよりも近くの人に現れるのだ。
いくら国際平和とかきれいごとを言っていても、身近にあるものに対して悪いことを言ったりすると神様から遠ざけられる。それは不真実だからで神をまっすぐ見ていないからである。これは当たり前のことでこれらのことをして神様が喜ばれるはずがない。
 主イエスも遠くの人よりもまず隣人を愛しなさいといったのはこのようなことからである。サマリア人の譬えでも、たまたま通りかかって出会った人のことを隣人だと言っている。
隣人とは誰が近くに来るか分からない。行きずりでも職場でも意外な人が隣人となる。隣人というのは、とにかく近くにいる人誰でもという意味である。親しい人や愛する人を愛することは罪人でもしているではないかと主イエスは言われたが、それはこの精神と共通している。わたしたちの真実性はごく日常的に出会う、関わりの深い人にあらわれるということなのである。
 完全な道、まっすぐ前途をみつめ、神様の光を受けていると、他者を悪く言うのではなく逆にその人のために祈ることができる。
これは主イエスが言われた敵対する人も隣人になる。ここでは「中傷しない、友に災いをもたらさない、親しい人をあざけらない」と否定的に言われているが、主イエスはこれらの表現をさらに推し進めて、単に中傷しないのではなく、他者のため、敵対するような人に対しても祈れと言われたのである。 敵のために愛し、迫害する者のために祈れ。これは言い換えただけで愛するとは祈ることである。
この主イエスの言葉は、この詩篇の言葉の延長上にある。
このような心で神様を見つめ、神様に力をもらって隣人に対して絶えず神様の愛を持ってしようとするときには、確かに神様に近づけられる。
 次にお金の問題で、昔も貧富の差があったので、今のように社会保障制度や銀行の預金制度がなかった時代には、気候の変動があって作物ができなければたちまち非常な貧困に陥っていた。だから豊かな人から食物やお金を借りなければいけないということは当然のことで、昔はこれらの制度がなかったから、お金の貸し借りはどうしても必要なことであったけれども、お金を貸しても利息を取らないということがわざわざ書かれている。こういう形で、困った立場にある、貧しい立場にある人に対して利息を取って、その人を言わば材料として金儲けをすることはしてはいけないことだということである。
これらの事を守るときには最後に揺らぐことがないという表現している。揺らぐということは悪の中に入り込む、道を間違って滅びの中に入り込むことで、それが起こらなくなる。だから救いということの別の表現である。人間は絶えず大きく揺らいで正しい道からはるかに遠いところへとさまよい、放り出されるのでここで「揺らがない」と表現されている。
少々の揺れは当然私たちもあるわけだが、時計の振り子がいくら揺れても元へ戻ってくるように、神様の道をまっすぐ見つ
めて歩むときには揺すぶられても元に戻ってくる。そういう意味で、揺るがされないということである。ところが守らない場合には本当に揺さぶられて、全く違うところに飛び出してしまう。救われた状態というのは確かに揺らがない。神ご自身は山であり岩であるとたとえられているが、そのような堅固な存在と結びつくゆえに揺らがなくなってていく。
 この詩の次にある詩篇でもここの箇所を補うような感じで書
かれている。

…私はたえず主に向かっている。
主は右におられ、
私は揺らぐことがない。
(詩篇十六の8)

私たちのすぐそばに、不変であり動じることのない神が、共にいて下さるならば揺らがない。こういう状態が確かに救われているという状態と言える。

このことはその次の詩篇にも現れる。

…あなたの道をたどり
一歩一歩、揺らぐことなく進みます。(詩篇十七の5)

このように、魂が揺らがないという状態は、救われた魂のすがたとして記されている。

 日本において、戦前には、ただの人間にすぎない天皇を生きた神だとか言って、全くの偽りを堂々と教育した。敗戦となると今度は、国民主権ということで、天皇は神でないとなった。そして、敗戦後に生まれた憲法は、聖書的な精神を持っていて、決して戦争をしない(非戦)という立場をとったが、またそこから大きく振れて、別の方向へ振り出そうとしている。
基本的な柱になるものがなかったら、全然違うほうへ振れだし、どんどん離れていくということが人間にもいえる。人間というのは信じがたいような大きな罪を犯したりする。それは、魂がどこまで揺らいでいったのか分からない、振り切れてしまったような感じさえする状態だと言えよう。
この詩の作者は永遠に揺らぐことがないという世界を知っていたのである。この詩の最初と最後で人間は最終的には恵みとして聖なる山、神様のおるところに共に宿らせていただく、それはまた永遠に揺らぐことがない状態が与えられる、という救いの世界を深く体験していたのがわかる。
それこそが、わたしたちの目標点である。旧約聖書の世界、その時代にはいろいろな儀式があったにもかかわらず、それらのことは一切言わないで心の問題を非常に簡潔に言って、そういうことこそが聖所―神のおられる所に留まることにつながると述べているのである。
この詩の最初に掲げられたこと、神と共に宿り(留まり)、神のおられるところに住むということ、それは新約聖書の福音書のなかでは最後に書かれたヨハネ福音書で繰り返し強調されている。
私の内に留まれ、そうすれば私もあなた方の内に留まる。そしてよき実を結ぶ、と。
キリストがこの世に来られてから、私たちは私たちの罪を赦してくださるお方としてキリストを信じ、仰ぐだけで、キリストのうちに留まることができるような新しい世界へと導かれたのである。


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