真実をあなた方に言う。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。
(ヨハネ3の29)
み言葉の深き味わい
聖書だけは何度でも繰り返して読める唯一の本である。
2000年もの間、無数の人々によって繰り返し読み続けられてきた。
ほかのどんな本も、数回も読めば読み飽きる。
一回しか読む気がしないものの代表は、新聞の多くの記事だろう。
読み捨てるという言葉があてはまる。
となり人を愛せよ、このひと言は、一度聞いたらわかった、というものではない。主の愛を受けて隣人を愛するということは、どこまでも深い。隣人のために命まで捨てるということまで考えるとき、通常の人間がそう真剣に考えていていないといえよう。
隣人を愛せよ、これは10回読んでもう卒業したということはあり得ない。隣人とは果てし無く多いし、また全く思いがけなく出会った人もまた隣人である。
聖書の言葉は、いくらでも奥が深い。それゆえに、たった一行、ひと言のようなものでも、そこに聖霊が働くときには、私たちにとっては実に深い言葉、長い間かかってもなお、その奥行きの一部しかわかっていないと感じてしまう。
ああ幸いだ、悲しむ者たちは。その人たちは(神によって)慰められる。というわずか一行の言葉が、どれほど深い味わいを持っているか、それは私たちが深い悲しみとそのただなかから与えられた天の国に属する慰めを受けたときに知らされる。
聖書とは、まさに限りない経験の書物である。数千年という長い間、無数の人たちがこの言葉によって人生を歩み、また励まされ、また新たにされ、平安を与えられてきた。
繰り返し読むことは、そうした無数の人たちの魂の経験を自分の心に重ね合わせていくことであり、数知れない人たちの心の歩みをともにすることなのである。