すべてを奪うものと与えるもの
原発の大事故は、福島の多数の人たちからさまざまのものを奪っていった。生活の場であった家を奪われ、田畑での農業、酪農などの仕事を奪われ、さらに、家族や地域、友人なども奪われていった。 しかし、こうしたことは、今回の大事故によって始まったのではない。
実は、はるか40年も昔から、始まっていたのだ。多額のお金によって、まず地域の人たちの良き心が奪われていくことから始まっていたのである。
戦争もその戦乱が起こるところでは、自然の美しさも家族のつながりや仕事も、何もかも破壊される。奪われていく。
しかし、原発の事故においては外見は周辺の広大な地域では田畑が目に見えるかたちでは変化もなく、家々も燃やされたりしたわけではない。
しかし、見えない放射線によって、家族、職業、学校、役所、川や海、田園等々、人間の生活に関わるすべてのものが破壊されていく。
しかも、その災いのもとになった、核燃料廃棄物は何十万年も人間に害を及ぼし続けていく。
そのような大量の放射能を持った原発の近くには何十年も帰ることはできず、半永久的に住めなくなる可能性が高い。
福島県の人が、つぎのようにその奪われた悲しみと憤りを書き綴っている。
ああ、どうしてこんなことになってしまったのか。
交付金という麻薬を飲まされ、酔わされてしまった県民。
「安全神話」という根拠のない言葉にだまされて増やしてしまった原発。
空気も水も土も、きれいな故郷は汚れてしまった。
多くの魚が取れ、海水浴のできる海を返せ。
新鮮な作物ができ、おいしい果物が取れる田畑を返せ。
3世代が平凡ながらも、幸せに暮らせる団らんを返せ。
子供たちがのびのびと外で遊び、そろって学習のできる学校を返せ。
遠く避難している母子をその父に返せ。
ああ、どうしてこんなことにしてしまったのか。…(毎日新聞10月7日)
華やかな原子力の平和利用、という名前のかげで、このような悲劇が生じることは実は、ずっと以前から予想されていた。一部の人が一貫してその本質的危険性を問い続けてきた。
それらは、政府や電力会社、彼らを支える御用学者たち、地域の政治家、金にむらがる一部の住民たちによって無視されてきた。
このような、強欲と偽りと良きものを奪い取っていく悪魔性を原発は内蔵しているのである。
こうした奪い取り破壊していく本質を持っている原発と全く正反対のものがある。
たえず与えようとする本質、悪しきものにも良きものをたえず注いでいく存在がある。
それが、聖書に記されてている唯一の神であり、キリストである。
…あなた方が、私の名によって何かを父(神)に願うならば、父はお与えになる。
願いなさい。そうすれば与えられ、あなた方は喜びで満たされる。(ヨハネ福音書16の23〜24より)
原発の事故によって何もかもが放射能で汚されていくのに対し、神の力、キリストの愛は、汚れた人間の魂や過去にひどい害悪をなした悪人ですらよいものと変えていく。汚れを清めていく驚くべき力がある。
すべてを奪い、汚していく原発の放射能、それに対して、求める者には人の魂に必要なすべてを与え、かつ清めていく神の力、聖なる霊のはたらきがある。
すべてを奪われた人たちが、こうした目には見えないよきものが与えられる道を知ってほしいと思う。そして力を与えられ、なんとかして前進できるようになってほしいと思う。
こうした霊的に必要なすべてを与える神の力は、特別な災害を受けた人たちだけが必要なのではない。そのような目にあっていない者たちにも、その聖なる霊の清めと聖霊は何よりも必要なものである。
どんなに悲しみ深くとも、聖なる霊が注がれること、聖霊に出会うときには、その悲しみをも喜びに変えられるのだから。
…今は、あなた方は悲しんでいる。
しかし、私は再びあなた方と会い、あなた方は心から喜ぶことになる。(ヨハネ福音書16の22)