外見でなく、心を見ることの重要性、このことは、キリスト教に限らず、いろいろとよく言われていることである。星の王子さまにもある。
私たちも、目に見える表面の出来事や有り様だけでなく、そうしたことを起こされた神様の心を見ようとする姿勢を持ちたいと思う。
私たちは、つい表面だけを見てしまう。星を見る、それでもただその輝きだけを見るのでなく、それを造られた神様のお心を見ようとすることが大切なのである。
見たくないような被造物、ある種の動物や昆虫などもある。しかし、何のために神様はそのようなものを造ったのか、と思いをめぐらし、そうしたものをも創造された神のお心を見ようとするようでありたい。
分からなくとも、そのようにいつも努める。まず神の国と神の義を求めようとする。
相手の人間の心を見る、それはわかっているようで難しい。
主にあってものごとを考える、というのは、そのことである。神の霊によらなかったらできない。
悔い改め、方向転換とは、見えるもの、自分中心でなく、神中心となること。
人間の心を見るだけでなく、神の心を見ようとする。ここにふつうに言われる「心を見る」ことと根本的に異なる内容がある。
体や心に苦しい病気にある人の心を見る、それはとても困難である。
主イエスだけは完全にその心を見ることができた。そしてそこに相手の心が最も必要なものを注ぐことができた。
旧約聖書に現れるサムエルのような預言者、神から特別に選ばれた人であってもなお、外見で見ようとした。また、恐れて神の命じられたことに従おうとしなかった。(サムエル記上16章)
神を礼拝するときも、霊と真実をもって、と言われている。
また、聖なる霊が与えられるということは、神の心を与えられること、それゆえ、その聖なる霊によって表面でなく、その心を見ることができるようになる。
野の花を見よ、といわれた。それは、創造された神のお心を見ようとすることであるし、太陽や雨を見てもやはり、そうしたものを創造されたその神の心を見ようとすることである。
聖書の記事も同様である。言葉の表面だけでなく、その言葉や出来事の背後にある神様のお心、ご意志を見ようとすることが求められている。
敵対する人、自分を攻撃してくる人に対しても、なぜそのようなことをしてくるのか、なぜ神様はこうしたいやなことを起こされるのだろうか、とすべてをご存じである神のお心を知ろうとする。
罪を知るとは心を見ること。自分の心を見ること。そして、まず神の国を求めるとは、神のお心を見ようとすること。
罪を犯すとは、神のお心を見ようとしないところから生じる。
心の清い者は、神を見る、と主は約束された。心で見るといっても、汚れた心、自分中心の心で何かを見ようとしても見えてこない。
それは清められた心でみなければならない。聖なる霊により、また神の言葉によって清められる(ヨハネ15の3)ときに、はじめて「神を見る」と言われていることが成就する。
神を見る、というとあり得ないように思われるが、神の本質たる愛や、清いもの、美、力、永遠、といったあらゆるよいものが見えてくる。それを与えようとする神の心も見えてくる、感じられてくるということなのである。