救いと勝利―詩篇20編
地上で最後の夕食のとき、主イエスが言われたように、この世ではだれでも苦しみや悩みがある。病気、事故、災害、貧困や飢え、仕事の上での苦しみ、人間からの憎しみ、人間関係の分裂、敵対やねたみ、老年、孤独、自分の犯した罪ゆえの苦しみ等々、あらゆる人はこうした何らかの苦しみを持っている。
そのようなときに答えて下さるお方がいるということ、そのような存在を私たちが持つということは、何にも代えることができない。
この詩は、その冒頭にそうした苦難に答えてくださる神への祈りがある。
…苦難の日に主があなたに答え
ヤコブの神の御名があなたを高く上げ
聖所から助けを遣わし
シオンからあなたを支えてくださるように。(3)
この詩の最初に置かれた言葉、それはヤコブ、シオンあるいは聖所とかいう現代の私たちには無縁と思われる言葉があるために、初めて読む場合には、なにか心にすんなりと入ってこないということがあるかもしれない。
だが、詩の冒頭で言おうとしていることは、神が苦しみのときに助けて下さるという願いであり、確信なのである。
救いを必ず与えて下さる神への確信があればこそ、そのような祈り、願いを捧げるのであって、人間の苦しみに答えることなどしない、と思っている場合にはそのような神に切実な祈りなど捧げないであろう。
この詩は、民の代表者としての聖なる油が注がれた王に対する祈りだと言われるが、現代の私たちキリスト者もまた、キリストの油(聖霊)を注がれた者であり、我々一人一人への祈りとして受け取ることができる。
…あなたの供え物をことごとく心に留め
あなたのささげるいけにえを快く受けいれ
あなたの心の願いをかなえ
あなたの計画を実現させて下さるように。
古代においてはじっさいに牛や羊を捧げ物としていたが、すでに旧約聖書の時代から、神の啓示を深く受けた預言者や詩篇において、真の神への捧げ物は、そうした目に見えるものでなく、砕けた心、悔い改めた心であると記されている。
…神の受けられるいけにえは砕けた魂。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を軽んじない。(詩篇51の17)
自分中心という堅い本能的な心がさまざまの苦しみや悲しみにより、自分の罪への裁きなどによって砕かれ、神にゆだねる心をもって主を仰ぐこと、それこそ本来だれでもが捧げることのできるいけにえであり、それさえあれば神は私たちの願いを聞いて下さる。
…我らがあなたの勝利(救い)に喜びの声をあげ
我らの神の御名によって
旗を掲げることができるように。
主が、あなたの求めるところを
すべて実現させてくださるように。(6節)
この新共同訳の詩篇では、「勝利」という言葉が、10節からなる短い詩の中に3度も出てくる。この重要な言葉は、本来は日本語の「勝利」という言葉から連想される意味よりも深くひろがりのある内容を持っている。ここで「勝利」と訳された原語は、本来「救い」(*)と訳される言葉なのである。
(*)イェシューアー である。これは、ヨシュアとかイエス(ヨシュアのギリシャ語形 )という名前にも入っているように、「救い」というのが本来の意味である。イエスという名は、罪から救うからである(マタイ1の21)と説明されているのもそれを表している。
ヘブル語においては、口語訳で50回ほど現れる「勝利」という言葉のうち、40回近くは、「救い」を意味する イャーシャ、イェシューアー、テシューアーが用いられており、それが「勝利」と訳されている。
しかし、日本語ではこの二つの言葉はかなり違う。「勝利」という言葉はスポーツにおいてたくさん使われる言葉である。ところが「救い」という言葉はスポーツでは全く使われない。
ここで「勝利」と訳されている原語は、多くが「救い」と訳されており「勝利」と訳されてあるのは少ない。
「神の御名によって旗を掲げる」というのはどういうことか。勝利の旗を掲げるというと、自分たちの武力の大きさに酔いしれて旗を掲げる、というようなことを連想しがちである。
しかし、詩篇においては、そうした人間の力を誇示するための旗でなく、神の勝利のシンボルとして、神がしてくださったという心を表すしるしとしての旗を掲げるというのである。
このようなことは、現代に生きる私たちにも不可欠なこととなる。私たちの旗印、それは自分の能力とか成果でなく、神が救いを与えて下さった、この世の力に勝利してくださったということを示す旗印なのである。
…今、わたしは知った
主は油注がれた方に救い(勝利)を授け
聖なる天から彼に答えて
右の御手による救いの力を示されることを。(7節)
神は、油注がれた方、すなわち王に救いを与えてくださることがはっきりと示されたことを記す。
「救い」と「勝利」は霊的な戦いではつながっているので、新共同訳では「勝利」と、新改訳ではそのまま「救い」と訳している。
勝利という言葉は、力ある者を連想する。しかし、救いという言葉からは、弱い者を連想する。ヘブル語では、勝利という固有の語というべきものがなく、救いという言葉で勝利という意味にも転用しているということは、現代の私たちにとって意外なことである。
旧約聖書では、勝利という訳語は50回ほどあらわれるが、救いとか救うという言葉は、511回もあらわれる。そしてこの勝利と訳された原語もその多くは、救いという原語が用いられているのである。
これは現代の私たちの言葉の使い方とはまったく逆である。現代では、勝利という語は至る所で、ニュースとか新聞、テレビで繰り返し使われる。しかし、救い、救うなどという言葉はわずかである。
人間とは弱い者であり、救われるべき存在だという認識が基本的に深く浸透しているのがわかる。
油を注がれた者とは、旧約聖書の時代では、王や大祭司という特別な者だけだった。この油はオリーブなどの特別な油を混ぜて作られた香油であった。
だから「油」と訳すよりも「香油」、あるいは「聖油」と訳したほうが、もとのニュアンスに近いと思われる。油を注ぐというと、日本ではまるで違ったイメージ―石油や料理で使う油が浮んで来るかも知れないからである。そうなると「油注がれた方」というのが意味不明になる。
こういう点にみられるように、聖書を読むものにとって分かりにくい言葉がいろいろとある。
新約聖書の時代になると神から王や大祭司などに注がれる油は聖霊を暗示するものとなった。そしてキリストを信じたものは誰でも、聖霊による油を注がれた者だというように意味が広がっていった。
そういう意味では、現代の私たちにとっては、この20編は当時の王だけに当てはまることでなく、誰にでも当てはまる内容となってくる。
この詩はもともとは、王が直接的に指揮する戦いに関わる歌だとみなすことができるが、その時にも人間の力でするのではないということを始めからはっきり知っていたということである。
主が答え、主が高く上げ、主が助けを遣わして、主が支えるのでなければ勝つことはできない。 これはわたしたちにおいても同様で、どんなに能力があっても、健康であってもこの世の悪に勝つことができない。
古代から現代に至るまで、戦争はさまざまの苦しみや悲しみを大量に生み出すものであった。戦争それ自体が、武器を使うゆえに、勝っても負けても双方に相当な傷があり、どちらかが敗北して奴隷にされ、他国に連れていかれ、あるいは殺されていく。
このように戦いに赴くとき、そこで出会うさまざまの苦難から、また人間的な罪から救われるように、そして勝利へと進むことができるようにという祈りは自然に生まれてきた。
このような内容の詩は、はるか今から3000年ほども昔のものだから、現代の私たちには関係がないと思いやすい。
しかし、聖書の世界はいかに古代であり、遠い外国のことであれ、すでにのべてきたように現代の私たちに不思議なほどあてはまる内容を持っている。
今、わたしは知ったとあるが、いくら神様を知っている人でも、本当に神が救い(勝利)を与えるんだということは、いろいろな経験を通して知ることだということである。言葉としては知っているけれども、実際にこのような経験をして悪の力から守られたり、救われたり、あるいは勝利した。天から実際に答えがあり、助けられるということは、戦いが行われて勝利が与えられて初めてはっきりと分かる。時が来てはっきりと分かったから、今知ったということになる。
…戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが
我らは、我らの神、主の御名を唱える。(8節)
彼らは力を失って倒れるが
我らは力に満ちて立ち上がる。(9節)
この8節はここの部分だけ取り出される非常によく知られたところである。ここでは「誇る」という言葉に訳されている。しかし英語訳ではtrust「信頼する」と訳しているものが多い。
なぜかというと「誇る」という言葉は原文にはなく、「ある者は戦車、あるものは馬」という簡潔な表現なのである。
だから、その原文の表現を補うために英語訳では、…ある者は戦車に「信頼する」 Some trust in the war chariots.として、信頼という語を補足して訳されている。
次に「唱える」という言葉があるが、原語は「ザーカル」、すなわち 主の御名を「覚える」という意味である。英語訳では But we will remember the name of the LORD.となっている。
「唱える」と訳しているのは新共同訳だけである。訳語の違いはあるが、ここで言おうとしていることは、神を深く知っている人にとっては、誇るもの、頼るものがまったく違うということである。
神の名、神ご自身の本質である万能の力、正義、憐れみ…そうしたものを常に心に覚えている。その神がいっさいをなしてくださるという信頼がある。
このことは、現代においてもまさに言えることで、戦車や戦闘機や空母、ミサイル、核兵器などを誇っているが、しかしキリスト者は、本来全くことなるものに頼るということである。
主の御名、要するに主御自身を覚える、そこに頼るんだということで、これが平和憲法の精神へと流れ込んでいる。
戦力を持たないで攻撃されたらどうするんだということが言われるが、そのような可能性よりもアメリカのように戦力を増強したゆえに戦争を引き起こす可能性のほうがはるかに高い。
今までの歴史を振り返っても戦力を蓄え続けた結果、第一次、第二次世界大戦が起こっていった。日本はあくまで武力による解決を目指すのでなく、武力をとらないさまざまの援助、医療や水、食料、教育等々、民衆の心に届くような援助を真剣に続けていく、という道をとるべきなのである。そうした方向に邁進しているなら、そのような国が武力攻撃される危険性は、武力を増強することによって生じる危険性よりはるかに小さいものとなるであろう。こうした非軍事の方向こそは、真の平和の可能性を開くものである。
武力、暴力、軍事を誇るということはどれだけ間違ってきたか示されたにもかかわらず、それでもなお現代でも変わらない。
この詩篇の作者は、武力、軍事に頼る者は、最終的には力を失って倒れていくが、神に頼る者には不思議な力が与えられて、立ち上がることができる。という真理を何千年も前から啓示を受けて知っていた。
「我らは力に満ちて立ち上がる」これは最終的には復活ということで、たとえ殺されても確かに神の力で立ち上がらせて下さる、しかも永遠に汚されることのない清い神の国においてである。
8、9節は個人の問題だけにはとどまらず、国際的、政治的な世界の平和がどういう方向であるべきかということまでつながっている。
これは、単に戦争のこと、古代人のことを書いてあるのではない。そのような時代の状況に制約されているのでなく、現代の私たちにもあてはまる。
…戦車を誇り、馬を誇る、これは、今日では、金や権力、巨費を投じた兵器などを意味する。あるいは、自分の能力、学識、経験等々に相当する。
しかし、いかにこうしたものをもって勝とうとしても、神が祝福されないときには、すべて役に立たないものとなってしまう。
そうしたものに頼る者はまさに、いつかは「彼らは、力を失って倒れる。しかし、我らは力に満ちて立ち上がる」のである。
古代から現在に至るまで、強力な軍事力によって周囲の民族、国家は征服されてきた。にもかかわらず、そうした軍事力に頼るものは力を失って倒れる…ここには深い洞察がある。まさに神からの啓示がなければこのような考えを持つことはできなかった。
だからこそ王に救いを与えてくださいということになる。王に救いが与えられれば、当然その王は支配している民にも及ぶのだからである。
目に見えるものに頼れば、最終的には力を失い倒れる。こうした考え方は他の箇所にもある。
「王の勝利は兵の数によらず 勇士を救うのも力の強さではない。
馬は勝利をもたらすものとはならず 兵の数によって救われるものでもない。」(詩篇33編の16〜17)
鉄砲のような兵器が登場するまでは、どこの国でも馬は不可欠の武器の一つであり、武力の象徴であった。しかし救いはそういうものにはないという驚くべき洞察である。2500年たってもこういう洞察が世界の多くの政治家や日本の政治家にもいまだに分からず、全く進歩していないと言わねばならない。
この詩では、王が救われることを祈り願っている。
しかし、そのまま私たちにも言えることである。私たちもまた、金や地位、権力などを求めず、ただ神を心に思い、神の力をうけることへの祈りとなる。
主よ、王に勝利(救い)を与え
呼び求める我らに答えてください。
新共同訳では、王に勝利を…と訳されているが、代表的な英語訳の一つでは、「おお、主よ、王を救ってください。私たちが呼ぶとき答えてください。」 Oh, LORD, save the king. Answers when we call.(NIV)となっている。新改訳も同様である。
これを基にしてイギリスの国歌 God saves the king! が作られた。これは、詩篇20歌に由来するので、本来は、神が王を救ってくださいますように! という祈りの歌なのである。
イギリスの国歌を「王様万歳!」という意味だとして、「君が代」と同じだという人がいる。「君が代」を天皇をたたえる歌であって、国民の歌でない、という主張に反論しようとする人が、このことを取り上げることがある。
しかし、イギリスの国歌の本来の意味を知っているなら、「君が代」とは全く異なる発想から生まれた国歌だとわかるであろう。
「君が代」は、君が代は千代に八千代に、と歌われているが、これは、明治以来どのような意味で歌われてきたのか、それは、天皇の御代、すなわち天皇の王としての支配が永遠に続きますようにという願いを表した歌としてである。
しかしイギリス国歌は、この詩篇からの引用であり、「神が王を救ってください」という祈りが本来の意味なのである。
この世的には救いと勝利はつながらないが、聖書的に、あるいは信仰的には救いは勝利とつながっている。
新共同訳では、7節には、救いを意味するイェーシャが2回用いられているが、はじめのほうは、「勝利」と訳され、後のほうは、「救い」と訳してある。このように、一つの節で全く同じ言葉が、二通りに訳されているために、同じ言葉が繰り返し使われて強調されているということが分かりにくくなっている。
ほかの日本語訳では、この逆に、はじめを救いと訳し、後のほうを、勝利と訳している。(新改訳)
こうした訳し方を見ても「勝利」は「救い」とその意味がつながっているのがわかるが、本来の意味は「救い」ということなのである。
人々が王に祈るとき、それは王が救われますようにということであり、それは勝利につながる。
日本の場合、長い間、ただの人間である天皇を神としてまつりあげてきたが、西欧ではこの聖書の真理が背景にあるため、いかに力ある王であっても、人間は人間であり、弱い罪人にすぎない。だから神が王を力づけて救うというのが基本にある。
その点で日本はそうした唯一の神を信じないで、さまざまのこの世のものを神々としているので、天皇も現人神とされて、人間であるのに何か特別な力あるものだとされてしまう傾向がある。
日本で最も大きい二つの都市、東京都と大阪市では、本来は天皇の支配の永遠を歌い、国家国民を天皇の持ち物であるとして歌う「君が代」を強制的に歌わせるようになった。
明治政府が天皇による支配を打ち出してまず手がけたこの一つが、一世一元制であった。それまでは、元号はあっても、時の状況―黒船がきたとか、飢饉がひどいとかで一種の迷信で元号を変えたりしていたのであるが、明治政府は、天皇を神だと教え込むために、天皇の名前になる元号をもって時間を数えることを考え出したのである。その結果、時間をいうという人間の生活で最も基本的なことに、たえず天皇の名前―正確には死後の諡(贈り名)―を使うようになってしまったのである。
主よ、王に救い(勝利)を与え
呼び求める私たちに答えてください!
現代の私たちにとって、この詩篇の最後の言葉は、すでに述べたように古代の王に対しての祈りにとどまるものではない。
キリスト者とは、聖霊という聖なる油を注がれ、キリストの御支配の力をいただいた小さき王としていただいた者なのである。
自分のような小さき者、罪多い者が王などとは! と驚かされるが、表面的なことでなく私たちに何が与えられているかを見ることによって一人一人のキリスト者がすでに小さき王であるというのである。
このことは、主イエスも、つぎの箇所で信じる者を王とすると言われている。
…あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。(ルカ 22の30)
さらに、聖書の最後の書である黙示録の最初の部分にもキリスト者とは王であるということがはっきりと記されている。
… わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方…(黙示録 1の6)
王というとはなやかな宮殿に座してたくさんの家来を従えているという姿を連想することが多いから、貧しい者、病気で苦しむ者、罪深きものがなぜ、王なのか、とまるで理解しがたい言葉のように思う人も多いであろう。
しかし、聖書は万事を霊的に見る。王の本質は、そうした外見のきらびやかさでなく、支配と権威を持っているという点にある。キリスト者は、この世のあらゆる悪の力、さらには死をもたらす力に対しても、それらを支配する力を与えられているという点において、まさに王なのである。
そして、
「王に勝利を、呼び求める私たちに答えてください!」
との願いは、私たちすべての信じるものへの救い(霊的な勝利)を願う祈りとして私たちもこの祈りを共有することができる。
主イエスは、あらゆる苦難にすでに救いを与えてくださっているを保証してくださった。「私はこの世の力に勝利している。」との宣言を、地上での最後の夕食時の教えの締めくくりとして言われれたのである。