リストボタン分断する力と引き寄せる力

この世のものは、たいていさまざまのものを分断していく。 科学技術が発達したことによって、電気や車などのように多大の便利なものも生まれた。
他方、さまざまのものを分断するようになった。例えば、人口の大多数は都市部に住むようになった。その都会では、互いに鍵を閉めて生活する。となりには誰が住んでいるのかもわからないということも多い。
以前は広い領域でのつながりがあり、家に鍵などなかった。しかし、科学技術の発達による都市化では、鍵をしないでは夜を過ごせないばかりか、昼間でも、家でいるのに鍵をしている。
ここには、分断する力がはっきりと見えている。
科学技術の最たるものとしての原子力発電も、科学という学問の力、そして金の力を悪用し、それによって地域を分断していった。その結果生じた大事故によって物理的にも精神的にも、その地域を限りなく分断していきつつある。
そして、宗教と言われるものすらも、それが人間の古い自我のまま受け取られるとき、それは人間や民族の分断をすることになる。
それに対して、愛と真実の神は、その利己的な古い自我を死に至らせて、あらたな人間を創造することにより、引き寄せていく。
私たちがそのように新たに主の愛によって新たに造られるとき、インターネットやメールといった科学技術の産物なども人間を結びつける新たな手段として用いることもできるようになる。

聖書では神が人間をそのもとに招き寄せるということははるか以前から記されている。今から2500年ほども昔に書かれたものにすでにそのことが見える。

恐れるな、私はあなたと共にいる。
私は東からあなたの子孫を連れ帰り
西からあなたを集める。…
彼らは皆私の名によって呼ばれる者
私の栄光のために創造した者。 (イザヤ書43の5〜7より)

これは直接的には、さまざまの地域に捕囚となって離散していた人たちを時いたって神が不思議な力で連れ戻すのだということである。しかし、それはそうした時代的背景を超えて、現代の私たちにも語られているのである。これは、さまざまのところから人々を神のもとに集める神の力を表している。
そしてその人々とは神が新たに創造した者だという。私たちも確かに主を信じることによって新たに創造され、分裂、分断のもとになる悪しき本性が砕かれ清められて一つに集められていく。

神のこうした一つに集める力は、すでにイザヤ書のはじめの部分にも記されている。

終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として固く立ち
どの峰よりも高くそびえる。
国々はこぞって川のようにそこに向かい
多くの民が来て言う。
主の山に上り、神の家に行こう…(イザヤ書2の2〜3より)

今から2500年も昔であるにもかかわらず、このような雄大な展望がなされていることに驚かされる。聖書はまことに、時と空間を超えて天からの視点で書かれているのをよく表している。
この罪深く汚れた世界であるが、究極的には、このように、人間の悪の力は除去され人々は川のように神のところに流れていくというのである。
これは学問的研究とか哲学的思索の結論ではない。そうしたものとは別の神からの直接の啓示による真理である。 それゆえに私たちもそれを信じることによってそのような啓示を共有できて、あらたな希望を生み出す力となる。

主イエスもまた、つぎのように言われた。

…この囲いに入っていないほかの羊も私の声を聞く。こうして羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
(ヨハネ10の16より)

また、パウロも天地のものが最終的には、一つにされていくという壮大な真理を啓示されていた。

…時が満ちるにおよんで、救いの業は完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにされる。天にあるもの、地にあるものもキリストのもとに一つにされる。(エペソ書1の10)

他方、キリストの力は、さまざまの方向へとあふれ出ていく。そこから全世界への伝道がなされていった。私たちもそのキリストから泉のようにあふれ出たいのちの水を受けて救いを得たのである。
このように、キリストの力は、あふれ出て世界をうるおすという方向と、世界から集めてくるという二つの方向性をもった力を持っている。
そしてその双方の力は、現在も常に世界の至る所ではたらいている。分裂のあるところに一致をもたらし、憎しみのあるところに愛をもたらして一つにする。そして、そうしたことをとおして、今も福音はたえず波のように周囲へと伝わっていきつつある。

すべてのものは神のもの

ダビデの祈りとして伝えられている祈りがある。
ダビデとは今から3000年ほども昔のイスラエルの王で、現代に至るまで、実に多くの人たちの心に深い影響を与えてきた。
それは、ミケランジェロのダビデ像という形においても広く知られている。ミケランジェロがなぜ、5メートルを越すような大きな大理石の像を作ったのか、それは、ダビデという人間の本質に深く引きつけられたからであったと考えられる。
ダビデは、子供のときから勇敢な羊飼いであり、音楽の達人であり、またさまざまの困難や神への賛美を言葉にたくすることのできる詩人でもあった。そして到底うち勝つことはできないと思われるような敵に対しても勇敢であって、武人としても卓越した力と才能を持っていた。
さらに、自分がそのために尽くしたサウル王から妬みのために命をねらわれるようになっても、なお一貫して抵抗せず、憎しみを持たず、ひたすらサウル王が神から油注がれた王だとして逃げるのみであった。サウルを殺そうとすれば簡単にできたようなときであってもなお、あえて殺そうとせず、一貫して神の御手のわざにすがって生きた。
そのダビデが祈ったとして伝えられている祈りがある。

…主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。
偉大さ、力…栄光は、主よ、あなたのもの。
まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。

このように、一切の力の根源は神のものという確信は、目で見えるものを見ているだけでは決して生まれない。目で見えるものは、各国の権力者―大統領、首相、独裁者などいろいろあるが、それらは強大な権限を持っている。また大国は武力や経済力を持っている。
現在の新聞、テレビ、雑誌、あるいは漫画やゲームなどあらゆるものが、そうした目に見える強大なものをいつも人々の前に示している。そのために、人はそうした武力、権力をもった人たち、国々を最も力あるもの思いがちである。
あらゆる偉大なもの、力あるものはすべて神のものであるとの確信を持つことは、すべての力あるものの限界をはっきり知っているということと結びついている。人間にせよ自然の力にせよ、それが無限に大きいと思っていれば、その大きさに目を奪われてそれが神のようにとらえられてしまう。
古代人がたいていの場合、太陽を神としてあがめたのも、太陽がとてつもなく巨大なエネルギーを出し続けているためでもある。それを超えるようなものは全くほかにない、だから太陽を神だと受け止めてきた。
無理やりに特定の人間の力を誇示して、神だと敬わせることもある。ローマ帝国でも皇帝を神だとしたり、日本でもつい65年ほど以前では、ただの人間にすぎない天皇を現人神だとして崇拝させた。
こうした状況に対して全く異なるのが、神の絶大な力を啓示された人たちである。どんなに偉大な人間も、自然の力も、また国家の力や経済力が大きくとも、それら一切の力の根源である神を知らされた人たちである。いかにそうした目に見えるものの力が大きくとも、そうしたものに力を与えたのも神だということを知っている。
大きいものを知っているほど、現実世界の大きなものにとらわれなくなり、それらもそれよりはるかに巨大な力を持っているお方(神)の持ち物だと感じるようになる。
このダビデの祈りにはそうした神の比類のない力を知らされている人の内的な体験が反映している。
もし、この詩の作者のように万物を無限の英知ある唯一で万能の神が持っておられると信じないときには、この世界は偶然的に存在するのだ、ということになる。
それでは、この世の出来事もまた偶然的に発生しているし、この世界の前途もどうなるか全くわからず偶然的なものとなる。
私たちの人生も偶然の連続であり、善悪ということも偶然的に派生したということになる。
しかし、そもそも偶然で生じることには善悪はない。例えば、街角で偶然赤い車を見た、ということ自体何ら善悪と関係することはないし、ティッシュペーパーの小さい一切れを高いところから落としてそれがどこに落ちるか、これを確定することは不可能である。 単にどこに落ちる確率が高いかを言えるだけであるが、それがどこに落ちるかについては善悪などあり得ない。
いっさいは神のもの、時間もである。ふつう私たちは時間は自分が持っていると思っている。
しかし、自分の持ち物なら自由になるはずであるが、決してとどめておくことはできない。例えばお金とか、自分の時計とかなら、自分のもとに何年でも保持しておくことはできるし、いつでも自由に使える。
しかし、時間はどんどん過ぎ去っていくのであり、だれもとどめておくことができない。そしてじっとしているとたちまちなくなっていく。それは、ほかの目に見える持ち物とは根本的に異なっている。
時間は、人間の持ち物でなく、神の持ち物なのである。神が創造した法則によって流れていく。そしてはるかな時間の彼方には何があるのか、それは人間には分からない。科学も答えることができない。太陽や地球がなくなるということは科学的に予見されている。 しかしその彼方には何があるのか、人間はどうなるのか、それは地球上では生活できなくなるということしか分からない。
時間は神のもの、そしてそこに創造されている人間もまた神のものであり、善悪もまた神のものなのである。
その神が法則のようなつめたいものであれば、人間はただ消えていくしかないだろう。しかし、神が愛であり、真実な神であるゆえに私たちは流れていく時間の中で、私たちの魂がとらえられ、地球や太陽の生成とは無関係にその神のもとに帰ることができると信じることができる。私たちは神の持ち物だからである。

…あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。
あなたは万物を支配しておられる。力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。
わたしたちの神よ、今こそわたしたちはあなたに感謝し、輝かしい御名を賛美します。
わたしなど果たして何者であろう。わたしの民など何者であろう。
すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎない。
(歴代誌上29の11〜14より)

私たちに必要なのは、ここに記されているような聖書の言葉、ダビデの祈りとされている短い言葉を本当に確信をもって受け取ることなのである。まさに「なくてならぬものは多くはない」
(ルカ福音書10の42)
この混乱と動揺の満ちたこの世界において、そのすべての上にあって全体を見、しかも愛をもって支配されている存在があるとは、到底思えないというのが自然の気持ちであろう。
しかし、ごく少数の人たちは、その混沌としたただなかで、はっきりとそのような不動の存在がおられるのを示される。聖書は全体としてそのような人たちが受けた啓示を記した書物である。
キリスト者が無惨にもローマ帝国の迫害によって多数が殺されていくという闇の力の支配するただなかで、キリストこそすべての上にあって支配されているお方であるということが示された。

…彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。
また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る」(黙示録 17の14)

ここで、小羊とは、キリストを指している。神への捧げ物として用いられた小羊のように、キリストは自ら十字架によって殺されることによって、神への捧げ物となって私たちの根本問題である魂の汚れを除き、赦してくださった。
そのような無惨な目に遭って殺された者であるにもかかわらず、キリストこそは、世界のあらゆる王(支配者)たちの上にあって御支配なさっているお方であるということが示されたのである。
この世は結局、こうした啓示がなかったら、何が正しいのか、自分の死後、あるいはこの世の最後はどうなるのか、愛や真実はあるのか、まるで分からなくなる。
このような世界のしくみが示されてこそ、私たちに本当の生きがいが生まれるし、死後やこの世界のかなたにあることへの展望、希望も開かれてくる。

…わたしたちの神、主よ、わたしたちが聖なる御名のために神殿を築こうとして準備したこの大量のものは、すべて御手によるもの、すべてはあなたのものです。…
(歴代誌上29の10〜16より)

神殿を建築するために準備したさまざまの物資―金銀やその他の材料、木材等々、自分たちの持ち物でなく、神のものであるということ、神から受けてそれをお返しするにすぎないという考え方がある。
現代の私たちは神殿を造るとかいうことは直接には関係しない。しかし、さまざまのことをとおして地上の神の国の建設にかかわっているといえよう。生きることはそうした目的のためでもある。
そのために、いろいろなものを私たちは用いていこうとするが、私たちの日々の生活のうえで用いるすべてを神からのものとして常に感謝して受け取ることができるようになれば、それは私たちの魂そのものをうるおすものとなるであろう。使徒パウロが、いつも感謝せよ、いつも祈れ、と言ったことはこうした小さなことに対するときの姿勢からも生まれるのがわかる。


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